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【第5章開始!】「愛はない」と言われた契約妻ですが、子供たちを愛でるのに忙しいので旦那様は空気として扱います  作者: 月雅
第1章

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第7話 悪意の訪問


「顔色が良くなりましたね、カイド様」


「……ああ。おかげさまでな」


 朝の光が差し込むサロンで、カイド様は少し気まずそうにティーカップを傾けた。

 高熱で倒れてから三日。

 驚異的な回復力で執務に復帰した彼は、以前よりも少しだけ、私との距離が縮まっていた。

 物理的な距離ではなく、精神的な意味で。


 私が淹れた紅茶を、文句も言わずに飲んでくれているのがその証拠だ。

 以前なら「執事の淹れたもの以外は飲まん」とか言い出しそうだったのに。


「子供たちも安心していますよ。『パパ、もうしなない?』って、毎日聞いてくるんですから」


「……死なん。あいつらに心配されるほど、ヤワではないつもりだ」


 カイド様はフンと鼻を鳴らしたが、口元が緩んでいるのを私は見逃さなかった。

 病み上がりの彼を気遣って、ルカとリナは毎日手紙(といっても、まだ字が書けないので絵のようなものだが)を執務室のドアの下から差し入れているらしい。


 平和だ。

 この屋敷に来た当初の、針のむしろのような緊張感はもうない。

 使用人たちも、私が子供たちの世話を焼くことを黙認し始めている。

 カイド様との関係も、契約上の他人行儀なものから、少し信頼し合えるパートナーへと変化しつつあった。


 このまま、穏やかな日常が続いてくれればいい。

 子供たちが成長し、カイド様が親としての自信を取り戻すまで。

 私はそのサポート役に徹するだけで幸せだ。


 ――そう思っていた矢先のことだった。


 コンコン、と控えめなノックの音が響いた。


「入れ」


 カイド様が短く応じる。

 扉が開き、執事のセバスチャンが入ってきた。

 いつもなら音もなく歩く彼が、今日は少し足取りが重い。

 その手には、銀のトレイに載せられた一通の手紙があった。


「旦那様、奥様。……王都より、急ぎの書簡が届いております」


 セバスチャンの表情が硬い。

 嫌な予感がした。

 王都からの便りなんて、ろくなものであるはずがない。


「差出人は?」


 カイド様がカップを置き、鋭い眼差しを向ける。


「……フォレス男爵夫人、マリア様でございます」


 その名を聞いた瞬間、私の心臓がドクリと跳ねた。

 全身の血が引いていくような感覚。

 忘れようとしていた、あの家の匂いが蘇る。


 マリア。私の継母。

 父の後妻として入り込み、私を虐げ、家財を浪費し、最後には借金のカタとして私を売り飛ばした張本人。


「……私宛、ですか?」


 喉が張り付くような感覚を覚えながら、私は尋ねた。


「はい。表向きは『愛する娘の安否を気遣う手紙』となっておりますが……封蝋の色が、緊急を告げる赤です」


 セバスチャンがトレイを私の方へ差し出した。

 毒々しい赤い封蝋。

 まるで血のようだ。


 私は震える指先を隠すように、拳を握りしめた。

 受け取りたくない。

 この手紙を開けた瞬間、今の平穏が壊れてしまう気がする。


「……俺が見よう」


 横から伸びてきた大きな手が、手紙を取り上げた。

 カイド様だ。


「カイド様、それは……!」


「君の実家からの手紙だ。当主である俺が確認する権利がある」


 彼はそう言うと、躊躇なく封を切った。

 ペーパーナイフが紙を裂く音が、やけに大きく響く。


 彼は便箋を取り出し、素早く目を通していく。

 読み進めるにつれ、その眉間には深い皺が刻まれていった。

 室内の温度が数度下がったかのような、冷ややかな空気が漂い始める。


「……くだらん」


 カイド様は吐き捨てるように言い、手紙をテーブルに放り投げた。


「典型的な強請ゆすりだ」


「ゆすり……?」


 私は恐る恐る、投げ出された便箋を拾い上げた。

 そこには、見慣れた継母の、ヒステリックでねじ曲がった筆跡が踊っていた。


『親愛なる娘、エレナへ。

 北の地での暮らしはいかが? 毎日寒くて、辛い思いをしているのではないかと、お母様は夜も眠れません。

 風の噂で聞きましたよ。あの野蛮な辺境伯が、あなたを冷遇し、満足な食事も与えず、地下牢のような部屋に閉じ込めていると』


 地下牢? 満足な食事?

 一体どこからそんな話が出てきたの?

 確かに最初は冷遇されていたけれど、今は違う。

 それに、「野蛮な辺境伯」だなんて、よくもぬけぬけと……。


 手紙は続く。


『可哀想なエレナ。お父様も心配して、胸を痛めています。

 私たちは今すぐにでもあなたを助け出し、温かい我が家へ連れ戻してあげたいと思っているの。

 でも、それには先立つものが必要です。弁護士を雇い、辺境伯の非道を王宮に訴え出る準備もしなくてはなりません』


 嘘だ。

 全部、嘘だ。

 父が私を心配するはずがない。

 彼らは私が売られた時、厄介払いができたと笑っていたのだから。


 そして、最後の一文に私は息を飲んだ。


『もし、辺境伯様がこの訴えを穏便に済ませたいと仰るなら、私たちにも考えがあります。

 慰謝料として金貨一千枚。

 これが用意できれば、私たちも涙を飲んで、娘の嫁ぎ先での幸せを見守ることにしましょう。

 返事は一週間以内に。

 もし返答がなければ、私たちは「虐待された娘を救う」ために、あらゆる手段を使います』


 金貨一千枚。

 小さな城が買えるほどの金額だ。

 借金の肩代わりだけでなく、さらにむしり取ろうというのか。

 しかも、虐待の事実を捏造して。


「……っ」


 私は手紙を握りつぶした。

 怒りで手が震える。

 自分たちが贅沢をするために、私を利用し、今度はカイド様まで巻き込もうとしている。


 辺境伯家は武門の名家だ。

 王都の貴族たちからは野蛮だと蔑まれているけれど、その分、評判には敏感にならざるを得ない立場でもある。

 もし「妻を虐待している」なんて噂が広まれば、カイド様の立場は悪くなる。

 魔獣討伐の予算を削られたり、王家からの心証が悪くなったりするかもしれない。


「申し訳ありません、カイド様……」


 私は頭を下げた。

 私のせいで。

 私がこの家に来たせいで、彼に迷惑をかけてしまう。


「すぐに、断りの手紙を書きます。虐待なんて事実無根だと。二度と関わってくるなと」


「……無駄だろうな」


 カイド様は冷たく言った。


「相手は最初から、金を巻き上げることしか考えていない。事実かどうかなど関係ないのだ。俺が反論すれば、『脅されているに違いない』と騒ぎ立てるだろう」


「では、どうすれば……」


「無視だ」


 彼は断言した。


「一千枚などというふざけた要求に応じるつもりはない。放置しておけばいい。奴らに辺境まで来る度胸などあるまい」


「でも……!」


 私は食い下がった。

 継母の執念深さを、カイド様は知らない。

 彼女はお金のためなら何でもする人だ。

 無視されればされるほど、過激な行動に出るに決まっている。


「彼女は……マリアは、常識が通じる相手ではありません。無視をすれば、本当に王宮に訴え出るかもしれませんし、あることないこと噂を流すでしょう」


「言わせておけ。俺の悪評など、今さら一つや二つ増えたところで痛くも痒くもない」


 カイド様は平然と言い放った。

 強い人だ。

 自分のことだけなら、それでいいのかもしれない。


 でも、子供たちは?

 もし継母がこの屋敷に乗り込んできて、ルカやリナに危害を加えたら?

 あの子たちは、やっと安心できる場所を見つけたばかりなのに。


「……私、実家に戻って話をつけてきます」


 思い詰めた私は、とっさにそう言っていた。


「私が直接会って、今の生活が幸せだと証明すれば、彼らも手出しはできな……」


「馬鹿を言うな」


 カイド様の鋭い声が、私の言葉を遮った。


「戻れば、二度とここへは帰って来られないぞ。奴らは君を監禁し、俺から金を搾り取るための人質にするだけだ」


「ですが……!」


「エレナ」


 名前を呼ばれ、私はハッとして顔を上げた。

 カイド様が、真剣な眼差しで私を見据えていた。


「君は今、ヴォルグ家の人間だ。俺の妻だ」


 その言葉の重みに、心臓が跳ねた。


「契約上の関係とはいえ、俺の庇護下にある者を、むざむざハイエナの餌食にするつもりはない。……それに」


 彼は少しだけ言い淀み、視線を逸らした。


「……子供たちが、悲しむ」


 その一言が、私の胸に深く突き刺さった。


 そうだ。

 私が実家に戻れば、ルカとリナはまた孤独になる。

 やっと笑顔を取り戻したあの子たちを、またあの冷たい部屋に戻すことになる。

 それは、どんな脅迫よりも恐ろしいことだ。


「……はい。おっしゃる通りです」


 私は力を抜いた。

 カイド様の言う通りだ。焦って動けば、相手の思う壺だ。


「すみません。取り乱しました」


「わかればいい。……セバスチャン」


「はい」


「屋敷の警備を強化しろ。不審な人物は、ネズミ一匹たりとも通すな」


「かしこまりました」


 セバスチャンが一礼して下がっていく。

 カイド様は立ち上がり、窓の外を見た。

 遠く、南の方角――王都のある空を睨むように。


「冬の嵐が来るかもしれん。……備えだけはしておけ」


 それは天候のことなのか、それともこれから訪れる厄災のことなのか。

 彼の背中には、張り詰めた緊張感が漂っていた。


 私は手元の手紙を見つめた。

 くしゃくしゃになった便箋。

 そこから滲み出る悪意は、決して消えてはいない。


(平穏を守るって、こんなに難しいことだったのね)


 前世でも、今世でも。

 幸せになろうとすると、必ず誰かが足を引っ張りに来る。


 でも、今回は違う。

 私には味方がいる。

 不器用だけど頼もしい夫と、守るべき子供たちがいる。


(負けないわ)


 私は心の中で、継母に対して宣戦布告をした。

 金貨一千枚? ふざけないで。

 銅貨一枚だって渡すつもりはない。

 もしこの屋敷に手を出そうというのなら、私が全力で排除してやる。


 私は手紙を暖炉に投げ入れた。

 炎が紙を舐め、赤い封蝋が溶けていく。

 黒い灰になって崩れ落ちる様を見届けながら、私は深く息を吐いた。


 嵐の予感に、肌が粟立つ。

 しかし、その時の私はまだ知らなかった。

 継母の強欲さが、想像をはるかに超えた行動を引き起こすことを。

 そしてそれが、この屋敷のセキュリティの穴を突く形で訪れることを。


 平穏な日常の崩壊まで、カウントダウンは始まっていた。


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