第2話 小さな先生
「お勉強の時間です」
その声は、部屋の温度を一度下げるような冷ややかな響きを持っていた。
子供部屋の扉が開き、一人の女性が入ってきた。
きっちりと撫でつけた茶色の髪、鼻にかかった銀縁眼鏡、そして皺ひとつない紺色のドレス。
手には分厚い教本と、指揮棒のような指示棒を持っている。
新しく雇われた家庭教師、ソフィア先生だ。
「さあ、お遊びは終わりです。ルカ様、リナ様、席に着いてください」
彼女は部屋の真ん中で遊んでいた子供たちを見下ろし、厳しく言った。
ルカとリナは、手作りのおもちゃ――カイド様が作った歪な木の剣や、私が教えた折り紙の動物たち――を慌てて背中に隠した。
「……はーい」
不承不承といった様子で、二人は小さな学習机に向かう。
その背中は丸まっていて、これから始まる時間が楽しくないことを雄弁に物語っていた。
私は部屋の隅にあるソファから、その様子を見守っていた。
セバスチャンが選んだだけあって、ソフィア先生は優秀だ。
王都の名門貴族の子息を何人も教育してきた実績があり、礼儀作法から歴史、算術に至るまで、完璧なカリキュラムを持っている。
けれど、少しばかり真面目すぎるのが難点かもしれない。
「まずは文字の書き取りから始めます。姿勢を正して。……リナ様、背筋が曲がっていますよ」
ピシリ、と指示棒が机を叩く。
リナがビクリと肩を震わせ、慌てて背筋を伸ばす。
「ルカ様、ペンの持ち方が違います。貴族としての品格は指先に宿るのです。何度言えばわかるのですか?」
「ご、ごめんなさい……」
ルカが萎縮して、さらにペンを握りしめてしまう。
悪循環だ。
以前の「恐怖による支配」とは違うけれど、この張り詰めた空気は、自由な発想を持つ子供たちには窮屈すぎる。
「先生」
私は見かねて声をかけた。
「もう少し、リラックスさせてあげてもよろしいのではなくて? まだ六歳になったばかりですし」
ソフィア先生は眼鏡の奥の目を光らせ、私に向き直った。
「奥様。甘やかしは子供のためになりません。辺境伯家の跡取りとして、そしてご令嬢として、彼らには相応の教養を身につけていただかねばなりません」
正論だ。
ぐうの音も出ないほど正しい。
けれど、正しさだけで子供が育つわけではない。
「……そうですね。でも、学ぶことは楽しいことだと思ってほしいのです」
「楽しい?」
彼女は心底不思議そうに首をかしげた。
「勉強とは、己を律し、知識を蓄える苦行です。楽しむものではありません」
ああ、これは手強い。
彼女の中では「教育=厳格な訓練」という図式が出来上がっているようだ。
前世の保育士としての経験が、「それは違う」と叫んでいるけれど、ここで口論しても子供たちを不安にさせるだけだ。
「……少し、休憩にしましょうか」
私は提案した。
ソフィア先生は不満げだったが、女主人の言葉には逆らえず、渋々ながら休憩を認めた。
「ふぅ……」
ルカとリナが同時にため息をつき、机に突っ伏した。
可哀想に。
本来なら外を駆け回りたい盛りなのに。
「ねえ、二人とも。ちょっとこっちへいらっしゃい」
私が手招きすると、二人はのろのろと近づいてきた。
私は懐から、色とりどりの紙を取り出した。
「折り紙?」
ルカの目が少し輝く。
「ええ。勉強ばかりじゃ疲れちゃうものね。……ソフィア先生も、ご一緒にいかがですか?」
私は敢えて、堅物の先生を誘ってみた。
彼女は眉をひそめた。
「私は結構です。そのような庶民の遊びに興味は……」
「あら、これはただの遊びではありませんよ。幾何学の勉強にもなりますし、指先の訓練にもなりますの」
私は一枚の紙を手に取り、手早く折り始めた。
山折り、谷折り。
正確に角を合わせ、折り目をつける。
「見てください。一枚の正方形が、立体的な形に変わるのです」
数分後、私の手の中には美しい「鶴」が完成していた。
「……ほう」
ソフィア先生が、思わずといった様子で眼鏡を押し上げた。
興味を引いたようだ。
「ルカ様、リナ様。先生に折り方を教えてあげてくれないかしら?」
「えっ? 僕たちが?」
ルカが驚く。
いつも教わる側だった自分が、先生に教えるなんて。
「ええ。あなたたちは『折り紙の先生』よ」
私がウィンクすると、ルカとリナは顔を見合わせ、そしてニヤリと笑った。
子供にとって「先生役」を任されることほど、自尊心をくすぐられることはない。
「いいよ! 先生、ここ座って!」
リナが自分の隣の席を叩く。
ソフィア先生は戸惑っていたが、子供たちの勢いに押され、しぶしぶ座った。
「まずは半分に折るんだよ。……ほら、角がずれてる」
ルカが厳しい口調で指摘する。
それは、さっきソフィア先生に言われたことの真似だ。
「む……こうですか?」
ソフィア先生が、不慣れな手つきで紙を折る。
意外にも不器用だ。
指先が震え、紙がぐしゃりとなりそうになる。
「ちがうよー。もっと優しくしなきゃ」
リナが手を取って教える。
「ここはこうして……パッて開くの!」
「パッ、ですか……? 理論的ではありませんね」
ソフィア先生が首を捻る。
その様子がおかしくて、私はクスクスと笑った。
完璧に見えた先生の、人間らしい一面。
「できた!」
苦戦の末、ソフィア先生の手にも歪な鶴が完成した。
彼女はそれを手のひらに乗せ、まじまじと見つめた。
「……なるほど。構造を理解すれば、一枚の紙から多様な形態を作り出せるわけですか。興味深い」
「でしょう? 先生の鶴、ちょっと首が曲がってるけど、可愛いよ」
ルカが上から目線で褒める。
ソフィア先生はムッとするかと思いきや、意外にも素直に頷いた。
「……そうですね。初めてにしては上出来かもしれません」
彼女の口元に、微かな笑みが浮かんでいた。
ほんの一瞬だったけれど、それは冷たい仮面が外れた瞬間だった。
「先生、つぎは風船つくろうよ!」
「手裏剣もかっこいいよ!」
子供たちが次々とリクエストする。
さっきまでの重苦しい空気はどこへやら、部屋には和やかな時間が流れていた。
勉強は大切だ。
でも、それは一方的に押し付けられるものではなく、互いに教え合い、発見する喜びがあってこそ身に付くものだ。
「小さな先生」たちの授業は、堅物な家庭教師にもそのことを教えてくれたようだ。
「……わかりました。では、あと一つだけ作ったら、算術に戻りますよ」
ソフィア先生が言った。
その声は、最初よりもずっと柔らかかった。
「はーい!」
子供たちが元気に返事をする。
その顔には、もう「やらされている」という憂鬱さはなかった。
私はそっと部屋を出た。
これなら大丈夫だ。
ソフィア先生も悪い人ではない。ただ、少し真面目すぎて不器用なだけ。
カイド様と似ているかもしれない。
廊下に出ると、カイド様が心配そうに待っていた。
「……どうだ? 泣いていないか?」
「ふふ、大丈夫ですよ。……今は、新しい先生とお勉強に夢中です」
「そうか。……ならいいが」
カイド様はホッとしたように息を吐き、私の肩を抱いた。
「無理はしていないか、エレナ。座っていただけとはいえ、疲れただろう」
「いいえ。……子供たちの成長を見られて、楽しかったですよ」
お兄ちゃん、お姉ちゃんになる準備は、着々と進んでいる。
知識だけでなく、誰かに教える優しさや、相手を認める寛容さ。
そういうものを、遊びの中で学んでいってくれればいい。
私はお腹に手を当てた。
この子もいつか、兄や姉に折り紙を教わる日が来るのだろうか。
想像するだけで、心が温かくなる。
子供部屋からは、まだ楽しそうな笑い声が聞こえていた。
それは、この屋敷に満ちる幸せの音色だった。




