第4話 旦那の帰還
「ねえエレナ、パパはどうして帰ってこないの?」
その純粋な問いかけに、私は手を止めた。
子供部屋には、穏やかな午後の陽射しが差し込んでいた。
かつての冷え切った牢獄のような空気はもうない。
暖炉では薪がパチパチと燃え、床には私が古いカーテンをリメイクして作ったラグが敷かれている。
部屋全体が、ふわりと温かい空気に包まれていた。
私は編みかけのマフラーを膝に置き、隣で積み木遊びをしているリナを見た。
彼女の青い瞳は曇っているわけではなく、ただ不思議そうに瞬いている。
「お仕事がお忙しいのよ。この広い領地を守るために、遠くの森へ行っていらっしゃるの」
私は当たり障りのない模範解答を口にした。
嘘ではない。
カイド・ヴォルグ辺境伯は、魔獣討伐の指揮官として最前線に出ている。
それが彼の正義であり、生き方なのだろう。
たとえ、幼い子供たちを放置しているとしても。
「ふうん。でも、ずっといないね」
リナは興味を失ったように、また積み木に視線を戻した。
その淡白な反応が、逆に切ない。
「寂しい」と泣いてくれたほうが、まだ子供らしい。
けれどこの子たちは、父親の不在を「そういうものだ」と受け入れてしまっている。
「……パパなんて、いなくていい」
ボソリと呟いたのは、少し離れた場所で絵本を読んでいるルカだ。
彼の手には、私が書庫から探してきた図鑑が握られている。
「ルカ様?」
「どうせ僕たちのことなんて嫌いなんだ。顔を見れば怖い顔をするし、何も話してくれない。ずっと仕事をしてればいいんだ」
五歳児の言葉とは思えないほど、その響きは冷めていた。
賢い子だ。
だからこそ、大人の態度から敏感に感情を読み取ってしまう。
カイド様の無口で不器用な態度が、子供たちには「拒絶」として伝わっているのだ。
「そんなことないわよ、とは言えないわね」
私は苦笑した。
無責任な慰めは言いたくない。
実際にカイド様は子供たちを避けているし、私にも「関わるな」と言ったのだから。
「でもね、パパがいなくても、私がいるでしょう? 美味しいおやつも、温かいお部屋もある。それで十分じゃない?」
私が両手を広げると、リナが嬉しそうに飛び込んできた。
ルカも、少し迷ってから、そっと背中を預けてくる。
二人の体温が心地よい。
この一週間で、子供部屋の環境は劇的に改善された。
食事は私が厨房で作ったものを運び込み、寒さ対策も万全。
メイド長たちは渋い顔をしているが、私が「旦那様に言いつける」というカードをちらつかせているので手出しはできない。
このまま、カイド様が帰ってくるまで――あるいは、帰ってきても気づかれないように――この平和な聖域を守り抜く。
それが私のミッションだ。
そう思っていた矢先だった。
廊下から、重厚な足音が響いてきた。
コツ、コツ、コツ。
一定のリズムを刻む、硬い軍靴の音。
使用人の遠慮がちな足音とは明らかに違う、威圧感を伴う音だ。
ルカとリナの体が、同時に強張った。
二人は私の服を強く握りしめ、怯えたように扉を見つめる。
(まさか)
嫌な予感が背筋を走る。
次の瞬間、ノックもなく扉が開かれた。
「……ここか」
低く、地を這うような声。
入り口に立っていたのは、この屋敷の主、カイド・ヴォルグその人だった。
最後に会った時と同じ、漆黒の軍服姿。
けれどその肩には砂埃がつき、長い黒髪はわずかに乱れている。
遠征から戻ったばかりなのだろう。
その鋭い氷のような瞳が、部屋の中を一巡し、そして私たちの上で止まった。
「あ……」
リナが小さな悲鳴を上げ、私の背中に隠れた。
ルカも顔面蒼白で、私にしがみついている。
まるで、恐ろしい魔獣が現れたかのような反応だ。
私は深呼吸をし、努めて冷静に立ち上がった。
子供たちを庇うように前に出る。
「お帰りなさいませ、旦那様。ご連絡もなしに、どうされましたか?」
声が震えなかった自分を褒めてあげたい。
カイド様は眉をひそめ、部屋の中を見回した。
彼の記憶にある「子供部屋」とは、あまりにも様相が異なっていたからだろう。
以前は殺風景で寒々しかった部屋が、今は明るいラグやクッションで彩られ、甘いお菓子の香りが漂っている。
壁には、私と子供たちが作った折り紙の動物たちが飾られている。
「……これは、どういうことだ」
カイド様が低い声で問うた。
怒っているのか、それとも単に驚いているのか、その表情からは読み取れない。
「見ての通りです。子供たちが過ごしやすいように、少し模様替えをさせていただきました」
「少し、ではないな」
彼は部屋の中へ足を踏み入れた。
その一歩一歩が、子供たちには脅威として映るようだ。
背中の後ろで、二人がガタガタと震えているのがわかる。
「執事からは、君が部屋に引きこもっていると聞いていたが」
「引きこもっておりますよ。この部屋に」
私はすかさず答えた。
嘘は言っていない。西棟からは一歩も出ていないし、社交もしていないのだから。
「……報告とは随分違うようだが」
カイド様は私の前で立ち止まり、視線を下に向けた。
私にしがみつく子供たちを見る。
その瞬間、ルカが勇気を振り絞って叫んだ。
「いじめるな!」
震える声だった。
ルカは私の前に飛び出し、小さな両手を広げてカイド様を睨みつけた。
「エレナをいじめるな! あっちへ行け!」
「ルカ様!」
私は慌ててルカを引き寄せた。
相手はこの地の最高権力者だ。いくら実の子供とはいえ、当主に逆らうなど貴族社会では許されない。
カイド様の目が、わずかに見開かれた。
驚愕。
そんな感情が、その鉄仮面のような顔に一瞬だけ浮かんだ。
「……俺が、いじめる?」
「いつもそうじゃないか! 僕たちのことを無視して、怖い顔をして! エレナは僕たちを守ってくれたんだ。優しくしてくれたんだ。だから……パパなんて嫌いだ!」
ルカの叫びが、部屋に木霊した。
静寂が落ちる。
暖炉の爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。
カイド様は動かなかった。
怒鳴りつけることも、手を上げることもなく、ただ呆然と息子を見下ろしている。
その瞳の奥にある色が、困惑と、そして深い悲しみに揺らいだように見えたのは、私の気のせいだろうか。
「……そうか」
長い沈黙の後、カイド様がポツリと漏らした。
その声には、怒気は含まれていなかった。
むしろ、諦めのような、乾いた響きがあった。
「嫌いか。……まあ、そうだろうな」
彼は自嘲気味に口の端を歪めた。
そして、ふと私に視線を戻した。
「君が、これをやったのか」
彼は部屋の変貌ぶりを指した。
暖炉、ラグ、散らばる玩具、そして血色の良くなった子供たちの顔。
「はい。勝手な真似をして申し訳ありません。ですが、どうしても必要だと判断しました」
私は背筋を伸ばして答えた。
言い訳はしない。
ここが正念場だ。もし彼が「余計なことをするな」と命じれば、この生活は終わる。
「使用人たちからは、君がわがままを言って厨房を荒らし、子供たちを変な玩具で惑わせていると聞いていたが」
やはり、あのメイドたちはあることないこと吹き込んでいたらしい。
私は内心で舌打ちしたい気分だったが、表情には出さなかった。
「事実と異なります。私はただ、子供たちに必要な環境を整えただけです。食事も、部屋の温度も、遊びも。すべては子供たちの健やかな成長のためです」
「……この子たちが、君に懐いているのは事実のようだな」
カイド様は、私にしがみついて離れないリナと、敵意を剥き出しにして私を守ろうとするルカを見た。
その視線は、どこか眩しいものを見るかのようだった。
「俺には、できなかったことだ」
彼は小さく息を吐き、踵を返した。
「好きにすればいい」
「え?」
「君に任せると言ったはずだ。子供たちが……笑っているのなら、それでいい」
彼はそれだけ言い残し、出口へと向かった。
背中が、来た時よりも少しだけ小さく見えた。
扉に手をかけたところで、彼は一度だけ立ち止まり、振り返らずに言った。
「夕食の席には、子供たちも連れてこい」
「……はい?」
「今までは部屋で摂らせていたが、君がそこまで言うなら、食堂の環境も整っているのだろう? ……久しぶりに、子供達の顔をちゃんと見たい」
それだけ言うと、彼は足早に出て行った。
バタン、と扉が閉まる。
私はその場にへたり込みそうになるのを、ぐっと堪えた。
心臓が早鐘を打っている。
勝った。
いや、勝負ではないけれど、少なくとも否定はされなかった。
「……いっちゃった」
リナが恐る恐る顔を出した。
ルカも、肩の力を抜いて大きく息を吐いている。
「怖かった?」
私が聞くと、二人はコクリと頷いた。
「でも、エレナがいじめられなくてよかった」
ルカが小さな声で言った。
その言葉に、胸が熱くなる。
この子は、恐怖に震えながらも私を守ろうとしてくれたのだ。
「ありがとう、ルカ様。とってもかっこよかったわ」
私はルカを抱きしめた。
彼は照れくさそうに顔を背けたが、抵抗はしなかった。
(カイド様……)
私は扉の方を見つめた。
あの人の、最後の表情。
「俺にはできなかった」と言った時の、寂しげな横顔。
彼は決して、子供たちを愛していないわけではないのかもしれない。
ただ、どう接していいのか分からず、不器用に遠ざけていただけなのかもしれない。
使用人たちの報告を鵜呑みにしていたのも、無関心だからではなく、現場を見る勇気がなかったから?
もしそうだとしたら。
この家族には、まだ修復の余地があるかもしれない。
「さあ、大変よ」
私はパンと手を叩いて、空気を切り替えた。
「夕食は食堂で食べるんですって。カイド様と一緒に」
「ええっ!?」
「やだ! こわい!」
子供たちが悲鳴を上げる。
無理もない。今まで冷遇されてきた相手との食事なんて、拷問以外の何物でもないだろう。
「大丈夫よ。私が一緒だもの」
私は二人にウインクしてみせた。
「それに、食堂のご飯なら、もっと美味しいものが出てくるはずよ。お肉とか、デザートとか」
「……でざーと?」
「お肉……」
食いしん坊な二人の瞳が揺らいだ。
よし、いける。
「おしゃれして行きましょう。せっかくの機会だもの、パパを驚かせてやるのよ」
私はクローゼットを開け放った。
私の新しい戦いが、第2ラウンドへと移行しようとしていた。
今度の舞台は、氷の辺境伯との食卓だ。
あの不器用な男に、家族の温かさというものを教えてあげなくては。
これは、私なりの復讐であり、そして救済なのだから。




