第7話 嵐の夜
北の空が、不気味なほど赤く染まっていた。
あれは夕焼けではない。
魔獣が吐き出す炎と、騎士たちが放つ魔法の光が混じり合い、夜空を焼き焦がしているのだ。
屋敷のテラスに立つと、風に乗って微かな焦げ臭さと、遠くの爆発音が聞こえてくる。
カイド様からの連絡が途絶えてから、二週間。
戦況は、最悪の局面を迎えていた。
「奥様、ご報告いたします」
アレンが駆け寄ってきた。
彼の鎧には、真新しい傷と魔獣の返り血が付着している。
彼もまた、屋敷周辺の警戒にあたり、何度か魔獣と交戦しているのだ。
「状況は?」
「……良くありません。北の砦が決壊したとの情報が入りました。現在、騎士団は第二防衛ラインまで後退し、再編成を行っているとのことです」
「砦が……」
目の前が暗くなる。
砦が落ちたということは、魔獣の群れがこの屋敷のある平野部へ雪崩れ込んでくる可能性があるということだ。
「魔獣の一部が、こちらの森へ向かっているのを確認しました。……数は多くありませんが、足の速いタイプです」
アレンの言葉に、私は唇を噛んだ。
ここには、戦う力を持たない避難民や子供たちが大勢いる。
もし魔獣が屋敷に到達すれば、大惨事になる。
「アレン。迎撃は可能?」
「我々の戦力で抑え込むことは可能です。ですが、もし『主』クラスの魔獣が現れた場合……」
彼は言葉を濁した。
カイド様のような規格外の戦力がいない今、屋敷の防御力は完全ではない。
「わかりました。……最悪の事態に備えましょう」
私は決断した。
「避難民を全員、地下シェルターへ誘導してください。食料と水も運び込んで。……地上には、戦える者だけを残します」
「奥様、しかし……それでは屋敷が……」
「建物なんてどうでもいいわ。壊されたら、また建て直せばいい。……でも、命は一つしかないのよ」
私の言葉に、アレンはハッとしたように顔を上げ、力強く敬礼した。
「承知いたしました! 直ちに手配します!」
彼が去った後、私は深呼吸をして、自分の頬を叩いた。
弱気になるな。
私が指揮を執らなければ、みんな死んでしまう。
私は子供部屋へと向かった。
ルカとリナは、避難してきた子供たちと一緒に、不安そうな顔で窓の外を見ていた。
赤い空と、響く地鳴り。
敏感な子供たちが、異変に気づかないはずがない。
「みんな、聞いて」
私が声をかけると、子供たちが一斉にこちらを見た。
私は努めて明るい声で告げた。
「今から、みんなで地下のお部屋に行きましょう。そこなら、大きな音がしても怖くないわ」
「……まじゅうが、くるの?」
ルカが震える声で聞いた。
嘘をつくべきか迷ったが、私は彼の目を見て、正直に答えることにした。
彼は、カイド様から留守を託された「家の主」なのだから。
「ええ、近くまで来ているわ。……でも、大丈夫。アレンたちがやっつけてくれるから、私たちは邪魔にならないように隠れていましょう」
ルカは唇を噛み締め、小さく頷いた。
「わかった。……リナ、行こう」
彼はリナの手を取り、他の子供たちにも声をかけた。
「みんな、手をつないで! 走っちゃだめだよ!」
その背中は小さくても、立派なリーダーの姿だった。
私は彼らの誘導をメイドたちに任せ、自分はエントランスホールへと戻った。
そこでは、セバスチャンが使用人たちに指示を出していた。
バリケードを築き、窓を補強する。
かつて事務仕事ばかりしていた執事が、今では先頭に立って肉体労働をこなしている。
「セバスチャン」
「奥様。……避難誘導、順調に進んでおります」
「ありがとう。あなたも地下へ」
「いいえ」
彼は即答した。
「私はここに残ります。……この屋敷は、旦那様と奥様が築き上げた城。老骨に鞭打ってでも、最後までお守りいたします」
その瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。
贖罪のためだけではない。
この場所を愛し、守りたいという純粋な忠誠心。
「……わかったわ。でも、死ぬことは許しませんよ」
「もちろんでございます。皆様の笑顔を見るまでは、死んでも死にきれません」
私たちは微笑み合った。
言葉以上の信頼が、そこにはあった。
その時。
ヒュオオオオ……!
風を切る音がして、何かが屋敷の結界に衝突した。
バチバチッ! と青白い火花が散る。
「来たか……!」
アレンの声が響く。
窓の外、暗闇の中に、無数の赤い目が光っていた。
狼型の魔獣だ。
数十匹……いや、もっといるかもしれない。
「総員、構え!」
騎士たちが剣を抜き、弓を構える。
魔獣たちが一斉に吼え、結界に体当たりを繰り返す。
ミシミシと結界が軋む音が、心臓を直接握り潰すような恐怖を与える。
私は胸元のサファイアを握りしめた。
カイド様。
聞こえますか。
私たちは今、戦っています。
あなたの帰る場所を、必死に守っています。
パリンッ!
結界の一部が砕ける音がした。
そこから、数匹の魔獣が庭に侵入してくる。
「撃てぇぇぇ!」
アレンの号令と共に、矢の雨が降り注ぐ。
魔獣の悲鳴と、肉が焼ける臭い。
戦いが始まった。
私はホールの中央で、動かずに戦況を見守っていた。
私に剣の腕はない。
魔法も、生活魔法程度しか使えない。
でも、私がここに立っているだけで、使用人たちの士気は保たれる。
「奥様が逃げないのだから、我々も逃げるわけにはいかない」と。
時間は永遠のように長く感じられた。
一匹倒しても、次から次へと魔獣が現れる。
騎士たちの疲労は濃く、怪我人も出始めている。
「……くそっ、キリがない!」
アレンが剣を振るいながら悪態をつく。
彼の鎧もすでにボロボロだ。
その時、さらに大きな衝撃が屋敷を揺らした。
ドォォン!
正門が吹き飛び、巨大な黒い影が姿を現した。
それは、通常の魔獣の倍はある巨体を持った、熊のような怪物だった。
全身から瘴気を放ち、その一撃で石壁を粉砕する。
中ボス級の個体だ。
「な……あんなのが、ここまで抜けてきたのか!?」
騎士たちの顔に絶望が走る。
あれを止めるには、カイド様クラスの戦力が必要だ。
今の私たちには、止める術がない。
怪物が吼え、屋敷に向かって突進してくる。
その進路には、私がいる。
「奥様! 逃げてください!」
セバスチャンが私の前に立ち塞がろうとする。
でも、間に合わない。
圧倒的な質量が、私たちを押し潰そうと迫る。
(ここで終わるの……?)
走馬灯のように、愛する人たちの顔が浮かぶ。
カイド様の不器用な笑顔。
ルカとリナの無邪気な声。
まだ、あの子たちの成長を見届けていないのに。
カイド様に「おかえり」と言っていないのに。
私は目を閉じた。
恐怖で足が動かない。
せめて、子供たちだけは無事でありますようにと祈りながら。
その瞬間。
――ザンッ!!
空を切り裂くような鋭い音が響き、突進してきた怪物の首が、宙を舞った。
ドサリ。
巨大な質量が、私の目の前数メートルのところで崩れ落ちる。
黒い血が噴水のように噴き出し、庭を染める。
「……え?」
私は恐る恐る目を開けた。
そこには、月光を浴びて立つ、一人の騎士の姿があった。
ボロボロのマント。
返り血で赤く染まった鎧。
肩で息をしているその背中は、見間違えるはずもない。
「……カイド、様?」
騎士がゆっくりと振り返った。
その顔は泥と血で汚れていたけれど、蒼い瞳だけが、変わらない輝きを放っていた。
「……遅くなって、すまない」
カイド様が微かに笑った。
その笑顔を見た瞬間、私の全身から力が抜け、その場にへたり込んだ。
「全軍、突撃! 我が家の敷地を汚す害獣どもを、一匹残らず駆逐せよ!」
彼の背後から、本隊の騎士たちが雪崩のように押し寄せてくる。
戦況は一変した。
圧倒的な武力が、魔獣たちを蹴散らしていく。
カイド様が私のもとへ歩み寄り、膝を突いて抱きしめてくれた。
酷い臭いがする。
鉄と油と獣の臭い。
でも、それは彼が生きて帰ってきた証だ。
「……ただいま、エレナ」
「……おかえりなさい、あなた」
私は彼の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
安堵と、喜びと、そして愛おしさで、涙が止まらなかった。
嵐の夜は終わる。
最強の英雄が、愛する家族を守るために帰ってきたのだ。
もう、何も怖くはない。




