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【第5章開始!】「愛はない」と言われた契約妻ですが、子供たちを愛でるのに忙しいので旦那様は空気として扱います  作者: 月雅
第4章

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第5話 届かない手紙



 北の空にかかる雲は、日を追うごとに厚く、黒くなっていた。


 カイド様が出陣してから十日。

 私は執務室の窓辺に立ち、いつものように北の方角を見上げていた。

 ガラスに映る自分の顔は、少しやつれているかもしれない。

 夜も眠れず、食事も喉を通らない日が続いているからだ。


「……また、来ない」


 呟いた言葉は、誰に届くわけでもなく虚空に消えた。


 カイド様からの定期連絡が途絶えて、もう三日になる。

 出陣前は、「毎日必ず無事を知らせる」と約束してくれた。

 最初のうちは、伝令の鳥が毎朝欠かさず飛んできていたのに。


 それが、ぷっつりと途切れた。


 戦況が激化しているのか、それとも通信手段が断たれたのか。

 あるいは、もっと悪い事態が起きているのか。

 想像するだけで、胸が冷たい手で鷲掴みにされたように苦しくなる。


 コンコン、と控えめなノックの音がした。


「奥様、セバスチャンでございます」


「……どうぞ」


 入室してきた執事の表情は、いつも通り沈着冷静だ。

 しかし、その目元には隠しきれない疲労の色が見える。

 彼もまた、主人からの連絡がないことに心を痛めているのだ。


「領内の巡回報告です。……領民たちの間に、動揺が広がっております」


 セバスチャンが差し出した書類には、各地の村長からの報告がまとめられていた。

 『旦那様の無事はどうなっているのか』

 『魔獣が防衛線を突破したという噂は本当か』

 不安と恐怖が、疫病のように領地全体を蝕み始めている。


「……噂の出処は?」


「不明ですが、不安に駆られた者たちが憶測で語り合っているようです。これ以上広がれば、パニックになりかねません」


「そうね……」


 私は書類を机に置き、ギュッと拳を握りしめた。

 領主であるカイド様からの連絡がない。

 その事実だけで、人々は最悪の想像をしてしまう。

 「辺境伯は敗れたのではないか」「私たちは見捨てられたのではないか」と。


 私がここで弱気を見せれば、その不安は確信に変わってしまうだろう。


「セバスチャン。領内に布告を出します」


 私は顔を上げ、毅然と言った。


「『戦況は膠着状態にあるが、辺境伯騎士団は健在である。防衛線は維持されているので、各自冷静に行動せよ』と」


「……しかし、奥様。確証はございませんが」


「確証なんていらないわ。私がそう信じている。それがすべてよ」


 嘘でもいい。

 今は、希望という名の嘘が必要な時だ。

 それに、これはただの強がりではない。

 カイド様は約束した。「必ず帰る」と。

 あの人が約束を破るはずがない。


「……承知いたしました。直ちに手配いたします」


 セバスチャンが一礼して下がろうとした時、廊下からバタバタと走る足音が聞こえた。

 そして、ノックもなしに扉が開く。


「奥様! 大変です!」


 飛び込んできたのは、アレンだった。

 普段は冷静な彼が、肩で息をして、顔面を蒼白にしている。


「どうしたの、アレン」


「き、北の森から……負傷者が戻りました」


 心臓が止まるかと思った。

 負傷者。それはつまり、前線からの直接の情報源だ。


「カイド様は!? カイド様は無事なの!?」


 私はなりふり構わず駆け寄り、アレンの腕を掴んだ。


「……それが」


 アレンが言葉を濁し、視線を逸らす。

 その態度に、嫌な予感が爆発的に膨れ上がる。


「はっきり言いなさい!」


「……戻った騎士の話では、カイド様は……『主』と呼ばれる巨大魔獣と対峙し、その後の行方が分からないと……」


 目の前が真っ暗になった。

 行方不明。

 それは、戦場において「死」と同義語として扱われることが多い言葉だ。


「嘘よ……」


 力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。

 セバスチャンが慌てて支えてくれた。


「奥様! しっかりなさいませ!」


「……嘘よ。あの方は、あんなに強いのに……」


 涙が溢れてくる。

 止まらない。

 この十日間、必死に張り詰めていた糸が、プツリと切れてしまった。


 カイド様がいなくなったら、私はどうすればいいの?

 子供たちは?

 この領地は?

 絶望の暗闇が、津波のように押し寄せてくる。


「ママ?」


 その時、開けっ放しの扉から、小さな声が聞こえた。

 ルカとリナだ。

 二人は不安そうな顔で、泣き崩れる私を見つめていた。


「……ママ、ないてるの?」


 リナが駆け寄ってくる。

 私は慌てて涙を拭おうとしたが、間に合わなかった。


「ううん、なんでもないの。目にゴミが入っただけよ」


 見え透いた嘘をつく。

 けれど、子供たちの目は誤魔化せなかった。

 彼らは大人たちの会話を聞いてしまっていたのかもしれない。

 あるいは、屋敷全体の重苦しい空気を察知していたのか。


「パパのこと?」


 ルカが静かに聞いた。

 その声は震えていたけれど、どこか芯の強さを感じさせた。


「……パパからの手紙、来ないね」


「ええ……そうね」


 私は否定できなかった。

 毎日、ポストを確認しに行く子供たちの姿を知っている。

 その度に、「今日はまだかな」と寂しそうに肩を落とす姿を。


「でも、大丈夫だよ」


 ルカが私の手を取り、ぎゅっと握った。

 その手は小さくて、温かかった。


「パパは、約束を守る人だもん」


「ルカ……」


「『必ず帰る』って言った。だから、絶対に帰ってくるよ」


 五歳の子供が、私を励ましている。

 不安で泣きたいはずなのに、必死に涙をこらえて、母親を支えようとしている。

 カイド様と交わした「留守を頼む」という約束を、彼は守ろうとしているのだ。


「リナもしんじてる! パパはつよいもん!」


 リナも私の膝にしがみつき、精一杯の笑顔を見せる。


 私は恥ずかしくなった。

 子供たちがこんなに強く信じているのに、大人の私が絶望してどうするの。

 カイド様が行方不明になったとしても、死んだと決まったわけではない。

 彼が生きている限り、帰る場所を守るのが私の役目だ。


「……そうね。ごめんなさい」


 私は涙を拭い、立ち上がった。

 子供たちの頭を撫でる。


「パパは絶対に帰ってくるわ。私たちがここで待っている限り」


 私はセバスチャンとアレンに向き直った。

 その目には、もう迷いはない。


「アレン。負傷者の手当てを最優先に。そして、可能な限りの情報を集めてちょうだい」


「はっ!」


「セバスチャン。領内の動揺を抑えるために、私も巡回に出ます。領主代行の姿を見せれば、少しは安心するはずよ」


「……承知いたしました。ですが、ご無理はなさいませんよう」


「無理くらいさせてちょうだい。カイド様が戻ってきた時に、領地がボロボロだったら怒られてしまうもの」


 少しだけ強がって見せると、セバスチャンは安堵したように微笑んだ。


 窓の外を見ると、黒い雲の隙間から、一筋の光が差し込んでいた。

 まだ終わっていない。

 手紙が届かなくても、心は繋がっている。

 私は胸元のペンダント――カイド様から贈られたサファイアを握りしめ、彼の無事を祈り続けた。


 どんなに深い闇の中でも、信じる心だけは失わない。

 それが、私たちが家族として生きていくための、唯一の道しるべなのだから。


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