第4話 銃後の守り
(焦ってはいけない。今こそ、冷静になるのよ)
私は大きく深呼吸をして、執務机に広げられた地図と書類の山に視線を落とした。
カイド様が出陣してから三日が経過した。
北の砦からは、定期的に伝令が届いている。
『前線にて魔獣の群れと接触』
『現在、交戦中』
短い報告書からは、戦場の緊迫感が肌を刺すように伝わってくる。
屋敷の空気も、ピリリと張り詰めていた。
使用人たちは不安を隠せない様子で、それでも気丈に日々の業務をこなしている。
彼らの不安を取り除くこと。
そして、万が一の事態に備えて領地を守り抜くこと。
それが、領主代行である私に課せられた使命だ。
「奥様、備蓄倉庫の確認が終わりました」
セバスチャンが入室し、報告書を差し出した。
彼の顔には疲労の色が見えるが、その目は力強い。
「食料、水、燃料、医薬品。……現在の備蓄量で、籠城戦になった場合でも二ヶ月は持ちこたえられます」
「二ヶ月……十分ね。でも、油断はできません」
私は報告書に目を通しながら、ペンを走らせた。
「避難民の受け入れ準備はどうなっていますか? 北部の村々から、すでに避難が始まっていると聞いています」
「はい。屋敷の別棟と、領内の教会を開放しております。炊き出しの準備も整いました」
セバスチャンの手際の良さは流石だ。
しかし、私はさらに指示を加えた。
「子供とお年寄りを優先して、屋敷の安全な区画へ誘導してください。それと、避難所には娯楽室を設けること」
「娯楽室、でございますか?」
「ええ。ただ安全な場所に詰め込むだけでは、不安で心が疲弊してしまいます。特に子供たちには、遊びが必要です」
前世の知識が役に立つ。
災害時において、心のケアは衣食住と同じくらい重要なのだ。
不安が伝染し、パニックになるのを防ぐためにも、少しでも日常に近い環境を作らなければならない。
「積み木や絵本、折り紙を用意して。……ルカ様とリナ様にも手伝ってもらいましょう」
「なるほど……左様でございますね。かしこまりました」
セバスチャンが感心したように頷く。
「それから、アレン。警備体制の確認を」
私は部屋の隅に控えていた副官に声をかけた。
「はい。現在、屋敷の外周に二重の結界を展開し、騎士たちを二十四時間体制で配置しております。……ネズミ一匹通しません」
「頼もしいわ。……でも、魔獣は空からも来る可能性があるわよ」
私が指摘すると、アレンはハッとした顔をした。
「空……ですか」
「ええ。飛行型の魔獣が防衛線を飛び越えてくるかもしれない。対空監視を強化してちょうだい。それと、屋根の上にも弓兵を配置して」
「! ……盲点でした。直ちに手配します!」
アレンが敬礼し、部屋を飛び出していく。
私はふぅ、と息をついた。
カイド様がいない今、私が判断を間違えれば、多くの命が危険に晒される。
その重圧に押し潰されそうになるけれど、弱音を吐いている暇はない。
コン、コン。
控えめなノックの音がして、扉が開いた。
「ママ、お仕事まだおわらないの?」
顔を出したのはリナだ。その後ろにルカもいる。
二人とも、少し寂しそうな顔をしていた。
カイド様がいなくなってから、私は執務室に籠りきりで、あまり遊んであげられていない。
「ごめんなさいね。もう少しだけ待っててくれる?」
私は椅子から立ち上がり、二人のもとへ歩み寄った。
しゃがんで目線を合わせ、頭を撫でる。
「パパが頑張っている間、ママも頑張らないといけないの」
「うん、わかってる。……でも、つまんない」
リナが唇を尖らせる。
ルカは我慢しているようだが、やはり不安そうだ。
子供たちにとっても、この非日常はストレスになっている。
「そうだわ。二人にお願いがあるの」
私は切り出した。
「これから、屋敷にたくさんのお友達が来るのよ。北の村から避難してくる子供たち」
「おともだち?」
「ええ。でもみんな、怖くて泣いているかもしれないわ。だから、あなたたちに元気づけてあげてほしいの」
ルカの目が輝いた。
自分に役割が与えられたことが嬉しいのだ。
「僕、やる! 折り紙、教えてあげる!」
「リナも! お菓子わけてあげる!」
「ありがとう。……頼りにしているわ、小さな騎士様たち」
二人は元気よく敬礼し、部屋を出て行った。
その背中を見送りながら、私は胸の奥で祈った。
どうか、この子たちの笑顔が曇ることのないように。
カイド様、無事でいてください。
夜になり、屋敷は静まり返った。
私は自室の窓から、北の空を見上げた。
遠くで稲光のような閃光が見える。
雷ではない。魔法の光だ。
あそこで、今も戦いが続いているのだ。
眠れそうにない。
カイド様が隣にいないベッドは、あまりにも広くて冷たかった。
彼の体温、匂い、寝息。
当たり前だったものが失われると、こんなにも寂しいなんて。
(会いたい……)
弱気な本音が漏れそうになるのを、ぐっと飲み込む。
私が弱気になってどうする。
彼は命懸けで戦っているのに。
私は机に向かい、ペンを取った。
彼に手紙を書こう。
届くかどうかわからないけれど、私の想いを文字にして、心の支えにするために。
『カイド様へ。
屋敷は無事です。子供たちも元気です。
今日はルカ様が、避難してきた子供たちに折り紙を教えてあげていました。
リナ様は、自分のおやつを分け与えていました。
二人とも、あなたの自慢の子供たちです』
筆を走らせるうちに、少しだけ心が落ち着いてくる。
『私も頑張っています。あなたが安心して帰ってこられる場所を守るために。
……寂しいけれど、泣いたりしません。
だって、私はあなたの妻ですから』
書き終えて封をする。
これをいつ渡せるだろうか。
明日かもしれないし、一ヶ月後かもしれない。
それでも、必ず渡せると信じている。
その時。
ドォォォォン……!
地響きのような音が、遠くから聞こえた。
窓ガラスがビリビリと震える。
「……!」
私は立ち上がり、窓の外を凝視した。
北の空が、赤く燃えている。
魔獣の群れが放つ火炎か、それとも騎士団の魔法か。
どちらにせよ、激戦が繰り広げられている証拠だ。
「カイド様……」
祈るように名前を呼ぶ。
どうか、無事で。
傷ついてもいい、生きて帰ってきてくれれば。
私は胸元のペンダントを握りしめた。
王都で買った、ヴォルグ・ブルーのサファイア。
その冷たい感触が、私に冷静さを取り戻させる。
私は部屋を出た。
寝ている場合ではない。
使用人たちや避難民が動揺しているかもしれない。
領主代行として、私が皆を安心させなければ。
廊下に出ると、不安そうな顔をしたメイドたちとすれ違った。
「奥様……今の音は……」
「大丈夫よ。カイド様が戦っている音だわ。……私たちが信じなくてどうするの?」
私は毅然と言い放った。
その言葉に、メイドたちの表情が少しだけ和らぐ。
「さあ、温かい飲み物を用意して。避難所の方々も怖がっているでしょうから」
「は、はい!」
皆が動き出す。
立ち止まってはいられない。
恐怖に飲み込まれる前に、動くこと。
それが、銃後を守る唯一の方法だ。
私は屋敷中を歩き回り、指示を出し、励ましの声をかけた。
その姿は、かつての「か弱い令嬢」ではない。
辺境伯家を支える、一人の女主人の姿だった。
夜明けはまだ遠い。
けれど、必ず朝は来る。
その時、勝利の凱歌と共に彼が帰還することを信じて、私は戦い続ける。
この場所で、私のやり方で。




