第2話 出陣の決意
「……やはり、ただ事ではないようだな」
カイド様が広げた戦況報告書の上で、指先を滑らせた。
北の砦から届いた緊急の書簡には、魔獣たちの不穏な動きが克明に記されている。
普段は単独行動を好む魔獣たちが群れを成し、南へ――つまり、人間の居住区域へと向かって移動を始めているという。
執務室には、重苦しい空気が漂っていた。
窓の外は夕焼けに染まっているが、その赤さはどこか血の色を連想させて、不吉な予感を煽る。
「過去の記録と照合しても、この規模の移動は異常だ。……『大侵攻』が起きる可能性は、極めて高い」
カイド様が顔を上げ、厳しい表情で告げた。
その瞳には、すでに戦場を見据える武人の色が宿っている。
「いつ、始まるのでしょうか」
私が尋ねると、彼は短く息を吐いた。
「早ければ三日後。遅くとも一週間以内だ。……悠長に構えている時間はない」
三日後。
あまりにも短い猶予だった。
それまでに騎士団を再編し、防衛線を構築し、領民の避難誘導を行わなければならない。
辺境伯領の存亡をかけた戦いが、目前に迫っている。
「俺は、明朝出立する」
カイド様が断言した。
「主力部隊を率いて北の最前線へ向かう。魔獣の群れが人里に到達する前に、森の中で食い止める」
「……はい」
覚悟はしていた。
けれど、実際にその言葉を聞くと、胸が締め付けられるような痛みが走る。
再び、彼を戦場へ送り出さなければならない。
今度は、これまで以上の激戦地へ。
「エレナ。君には、後方の守りを頼みたい」
カイド様が私の手を取り、真剣な眼差しで見つめた。
「俺が留守の間、領主代行として屋敷と領民を守ってくれ。セバスチャンやアレンも補佐につけるが……最終的な判断は、君に託す」
重い責任だった。
辺境伯の妻として、領民の命を預かる。
それは、ただ屋敷を守るのとは次元の違うプレッシャーだ。
けれど、私は迷わずに頷いた。
「承知いたしました。……カイド様が安心して戦えるよう、銃後は私が死守します」
「ああ。君ならできると信じている」
彼は私の手を強く握りしめ、そして少しだけ表情を曇らせた。
「……子供たちには、どう伝えるべきか」
その言葉に、私も言葉を詰まらせた。
ルカとリナは、ようやく父親との絆を取り戻し、安心できる日常を手に入れたばかりだ。
それなのに、また父親がいなくなってしまう。
しかも今度は、「死」の危険が伴う戦場へ行くのだ。
「正直に話すべきだと思います」
私は考えた末に答えた。
「あの子たちは賢い子です。隠しても、きっと雰囲気で察してしまいます。……嘘をついて不安にさせるより、きちんとお別れを言わせてあげるべきです」
「……そうだな。それが、父親としての誠意か」
カイド様は立ち上がり、窓の外を見た。
夕闇が迫る庭で、まだ遊んでいる子供たちの姿が見える。
「行こう。……夕食の前に、話をしよう」
私たちは執務室を出て、子供部屋へと向かった。
廊下を歩く足音が、いつもよりも重く響く。
これから告げる言葉が、子供たちの笑顔を奪ってしまうかもしれないと思うと、足がすくみそうになる。
けれど、カイド様は止まらなかった。
その背中は、戦場へ向かう時と同じくらい、強い決意に満ちていた。
子供部屋に入ると、ルカとリナが積み木で遊んでいた。
私たちが並んで入ってきたのを見て、二人はぱっと顔を輝かせた。
「パパ! ママ! おかえりなさい!」
「みてみて! おっきなおしろつくったの!」
無邪気な笑顔。
その輝きが眩しくて、胸が痛む。
カイド様は二人の前にしゃがみ込み、その頭を優しく撫でた。
「……立派な城だな。誰が住むんだ?」
「パパとママと、ルカとリナだよ!」
リナが得意げに答える。
カイド様は微かに微笑み、そして静かに切り出した。
「ルカ、リナ。……大事な話がある」
その声のトーンに、子供たちは敏感に反応した。
笑顔が消え、不安そうな表情になる。
カイド様は二人の目を見て、ごまかさずに告げた。
「パパは明日から、遠くへお仕事に行くことになった」
「……え?」
ルカが目を見開く。
「また、いなくなるの?」
「ああ。……少し長い間、家を空けることになる」
「やだ!」
リナが叫び、カイド様の首に抱きついた。
「いっちゃやだ! ずっといっしょにいるって、やくそくしたもん!」
その悲痛な叫びに、カイド様は苦しげに顔を歪めた。
約束。
そう、第2部の終わりに、彼は「ずっと一緒だ」と誓ったのだ。
それを破ることになるのが、何よりも辛いのだろう。
「すまない、リナ。……でも、パパは行かなきゃならないんだ」
カイド様はリナの背中を撫でながら、諭すように言った。
「悪い魔獣たちが、この国に来ようとしている。……パパが行って、追い払わないといけないんだ」
「ほかのひとじゃ、だめなの?」
ルカが涙声で聞いた。
「パパがいなきゃ、だめなの?」
「……パパは、この領地で一番強い騎士だからな」
カイド様は少しだけ誇らしげに、そして寂しげに笑った。
「パパが守らないと、みんなが危ない目に遭う。……ルカも、リナも、ママもだ」
その言葉に、ルカはハッとしたように私を見た。
そして、自分の小さな拳を握りしめた。
「……ママを守るため?」
「そうだ。……俺の大切な家族を守るために、俺は戦いに行く」
カイド様はルカの肩に手を置いた。
「ルカ。俺がいない間、ママとリナを頼めるか?」
それは、男同士の約束だった。
子供扱いではなく、一人の男として留守を託す。
ルカの瞳が揺れ、やがて涙を湛えながらも強い光を宿した。
「……うん。わかった」
ルカは必死に涙を堪え、頷いた。
「僕が、守るよ。……パパの代わりに」
「いい子だ」
カイド様はルカを抱きしめた。
リナも一緒に、三人で固く抱き合う。
私はその輪の外で、涙が溢れるのを我慢しながら見守っていた。
なんて強い人たちなのだろう。
別れを惜しむだけでなく、互いを思いやり、役割を果たそうとしている。
これが、ヴォルグ家の家族なのだ。
「……必ず、帰ってくるからな」
カイド様が、二人の耳元で誓った。
「どんなに離れていても、心はずっと一緒だ。……約束する」
「やくそく、だよ」
「ぜったい、だよ」
指切りをする。
小さくて細い指と、大きくて武骨な指が絡み合う。
それは、どんな魔法の契約よりも確かな、愛の契約だった。
その夜。
子供たちが眠りについた後、私は寝室でカイド様の旅支度を手伝っていた。
使い込まれた剣を磨き、マントを畳む。
一つ一つの動作に、無事を祈る気持ちを込める。
「……エレナ」
カイド様が背後から私を抱きしめた。
その体温に、張り詰めていた心がふわりと解ける。
「行ってきます」
「はい。……行ってらっしゃいませ」
私たちは振り返り、口づけを交わした。
言葉はいらなかった。
互いの鼓動が、愛と信頼を伝えてくれる。
明日になれば、彼は戦場へ発つ。
次に会えるのがいつになるか、もしかしたら二度と会えないかもしれないという恐怖が、頭をよぎる。
けれど、私はそれを口にはしなかった。
「気をつけて」と言う代わりに、私はただ微笑んで、彼の背中を押すのだ。
それが、辺境伯の妻としての、私の戦いだから。
窓の外では、風が強く吹き始めていた。
嵐の前の静けさは終わり、いよいよ運命の歯車が動き出す。
私たちはそれぞれの場所で、愛するものを守るために戦うのだ。
離れていても、心は一つ。
その確信だけを胸に、私たちは最後の夜を過ごした。




