第1話 予兆の風
北の空は、どこまでも澄んだ青色をしていた。
ヴォルグ辺境伯領の夏は短い。
雪解け水が引いた大地には色とりどりの野花が咲き乱れ、そよ風が草原を波のように揺らしている。
それはまるで絵画のように美しく、平和な光景だった。
私はテラスのテーブルに肘を突き、眼下に広がる庭園を眺めた。
庭ではルカとリナが、セバスチャンに見守られながらボール遊びに興じている。
二人の笑い声が、風に乗ってここまで届いてくる。
「平和ね……」
思わず独り言が漏れる。
王都での騒動から数ヶ月。
私たちはようやく、本当の平穏を手に入れた。
屋敷の中は明るく、使用人たちは誇りを持って働き、カイド様もかつてのような険しい顔をすることはなくなった。
すべてが順調だ。
私の前世知識を活かした領地改革も軌道に乗り始め、孤児院への支援や、新しい特産品の開発も進んでいる。
領民たちからは感謝の手紙が届き、カイド様もそれを誇らしげに報告してくれる。
幸せだ。
これ以上の幸せなんて望んではいけないと思うくらいに。
でも。
どうしてだろう。
この完璧すぎる平穏の中に、微かな違和感を覚えるのは。
「……風が変わったわね」
頬を撫でる風が、少しだけ冷たくなった気がした。
北の方角――魔獣の森がある方角から吹いてくる風だ。
そこには、花の香りとは違う、微かに鉄錆のような、あるいは獣のような匂いが混じっている気がする。
「奥様」
背後から声をかけられ、私は振り返った。
そこに立っていたのは、カイド様の副官を務める若き騎士、アレンだった。
彼は礼儀正しく一礼したが、その表情は普段よりも硬い。
「お寛ぎのところ申し訳ありません。旦那様より、至急お耳に入れたい件があるとのことで」
「カイド様が?」
私は眉を寄せた。
カイド様は今朝から、北の砦へ視察に出かけているはずだ。
予定では夕方まで戻らないと言っていたのに。
「何かあったのですか?」
「……はい。北の森にて、通常ではあり得ない規模の魔獣の群れが観測されました」
アレンの言葉に、私の心臓がドクリと跳ねた。
魔獣。
この平和な領地における、唯一にして最大の脅威。
普段は結界と騎士団によって抑え込まれている彼らが、異常な動きを見せているというのか。
「カイド様は?」
「現在、前線で指揮を執っておられます。奥様には、屋敷の守りを固め、万が一に備えていただきたいと」
万が一。
その言葉の重みに、私は背筋を正した。
ただの平穏な日常は、脆い氷の上に成り立っていることを思い知らされる。
「わかりました。すぐに向かいます」
私はテラスを後にし、急いで執務室へと向かった。
廊下ですれ違う使用人たちの顔にも、どこか緊張の色が見える。
彼らもまた、北の空気が変わったことを肌で感じ取っているのだろう。
執務室に入ると、そこには戻ったばかりのカイド様がいた。
泥と汗にまみれた軍服姿。
数ヶ月前の王都での煌びやかな礼服姿とは違う、荒々しい武人の姿だ。
「エレナ」
私を見るなり、彼の表情が少しだけ緩んだ。
けれど、その瞳の奥にある鋭い光は消えていない。
「急に呼び出してすまない。……状況が変わった」
「アレンから聞きました。魔獣の群れ、ですか?」
「ああ。斥候の報告によれば、森の奥深くで『主』クラスの魔獣が動き出した形跡がある」
カイド様は地図を広げ、赤い印がつけられた地点を指差した。
そこは、領地の北端。
人の住む領域と、魔の領域の境界線だ。
「数年に一度、魔獣が活性化する時期がある。……『大侵攻』の予兆だ」
スタンピード。
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
それは、魔獣が雪崩のように押し寄せ、すべてを飲み込む災害だ。
過去の記録では、一つの街が壊滅したこともあるという。
「そんな……まさか、この領地が?」
「まだ確定ではない。だが、備えは必要だ」
カイド様は私を真っ直ぐに見据えた。
「俺は、騎士団を率いて北の砦へ入る。……長期戦になるかもしれん」
彼の言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
長期戦。
つまり、彼はしばらく屋敷に戻らないということだ。
私たち家族と離れ、死と隣り合わせの戦場へ向かうということだ。
「……どれくらいですか?」
震える声で尋ねると、彼は苦しげに顔を歪めた。
「わからん。状況次第だ。……一週間か、一ヶ月か」
一ヶ月。
そんなに長い間、彼と会えなくなるなんて。
ようやく手に入れた家族の団欒が、また奪われてしまう。
「行かなければ、なりませんか?」
わがままだとわかっていても、聞かずにはいられなかった。
カイド様は辺境伯だ。領主だ。
彼には領民を守る義務がある。
でも、私にとっては夫であり、子供たちの父親なのだ。
カイド様は私の肩に手を置き、強く抱き寄せた。
その腕の力強さに、彼の葛藤が滲んでいた。
「行きたくはない。……今すぐにでも、君と子供たちを連れて安全な場所へ逃げたい」
彼の本音が、耳元で囁かれる。
「だが、俺が逃げれば、この領地は終わる。……俺たちが築き上げた家も、子供たちの未来も、すべて魔獣に踏み荒らされる」
そうだ。
ここは最前線なのだ。
私たちが幸せに暮らせているのは、彼が、そして騎士たちが命懸けで守ってくれているからだ。
その盾がなくなれば、平穏など一瞬で消え去る。
「……わかりました」
私は彼の胸から顔を上げ、涙を堪えて微笑んだ。
「行ってらっしゃいませ、カイド様。……家のことは、私にお任せください」
「エレナ……」
「私は辺境伯夫人ですもの。夫が戦っている間に、おめおめと逃げ出したりはしませんわ」
私は努めて気丈に振る舞った。
私が不安な顔を見せれば、彼の決意が鈍る。
送り出すときは笑顔で。
それが、銃後を守る妻の矜持だ。
「……ありがとう」
カイド様は私の額に口づけを落とした。
その唇は熱く、そして微かに震えていた。
「必ず戻る。……君と子供たちのもとへ」
それは約束だ。
絶対に破らせない、血の契約よりも重い約束。
「はい。待っています」
窓の外では、風が強まり始めていた。
庭の木々がざわめき、鳥たちが空高く舞い上がる。
嵐が来る。
私たちの平穏を試すような、大きな嵐が。
私はカイド様の腕の中で、静かに覚悟を決めた。
彼が剣を持って戦うなら、私は知恵と心で戦おう。
この屋敷を、子供たちを、そして彼が帰るべき場所を、何があっても守り抜くために。
予兆の風は、もう吹き始めていた。
長く、厳しい戦いの季節が、幕を開けようとしている。




