表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【第5章開始!】「愛はない」と言われた契約妻ですが、子供たちを愛でるのに忙しいので旦那様は空気として扱います  作者: 月雅
第4章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/45

第1話 予兆の風



 北の空は、どこまでも澄んだ青色をしていた。


 ヴォルグ辺境伯領の夏は短い。

 雪解け水が引いた大地には色とりどりの野花が咲き乱れ、そよ風が草原を波のように揺らしている。

 それはまるで絵画のように美しく、平和な光景だった。


 私はテラスのテーブルに肘を突き、眼下に広がる庭園を眺めた。

 庭ではルカとリナが、セバスチャンに見守られながらボール遊びに興じている。

 二人の笑い声が、風に乗ってここまで届いてくる。


「平和ね……」


 思わず独り言が漏れる。

 王都での騒動から数ヶ月。

 私たちはようやく、本当の平穏を手に入れた。

 屋敷の中は明るく、使用人たちは誇りを持って働き、カイド様もかつてのような険しい顔をすることはなくなった。


 すべてが順調だ。

 私の前世知識を活かした領地改革も軌道に乗り始め、孤児院への支援や、新しい特産品の開発も進んでいる。

 領民たちからは感謝の手紙が届き、カイド様もそれを誇らしげに報告してくれる。


 幸せだ。

 これ以上の幸せなんて望んではいけないと思うくらいに。


 でも。

 どうしてだろう。

 この完璧すぎる平穏の中に、微かな違和感を覚えるのは。


「……風が変わったわね」


 頬を撫でる風が、少しだけ冷たくなった気がした。

 北の方角――魔獣の森がある方角から吹いてくる風だ。

 そこには、花の香りとは違う、微かに鉄錆のような、あるいは獣のような匂いが混じっている気がする。


「奥様」


 背後から声をかけられ、私は振り返った。

 そこに立っていたのは、カイド様の副官を務める若き騎士、アレンだった。

 彼は礼儀正しく一礼したが、その表情は普段よりも硬い。


「お寛ぎのところ申し訳ありません。旦那様より、至急お耳に入れたい件があるとのことで」


「カイド様が?」


 私は眉を寄せた。

 カイド様は今朝から、北の砦へ視察に出かけているはずだ。

 予定では夕方まで戻らないと言っていたのに。


「何かあったのですか?」


「……はい。北の森にて、通常ではあり得ない規模の魔獣の群れが観測されました」


 アレンの言葉に、私の心臓がドクリと跳ねた。


 魔獣。

 この平和な領地における、唯一にして最大の脅威。

 普段は結界と騎士団によって抑え込まれている彼らが、異常な動きを見せているというのか。


「カイド様は?」


「現在、前線で指揮を執っておられます。奥様には、屋敷の守りを固め、万が一に備えていただきたいと」


 万が一。

 その言葉の重みに、私は背筋を正した。

 ただの平穏な日常は、脆い氷の上に成り立っていることを思い知らされる。


「わかりました。すぐに向かいます」


 私はテラスを後にし、急いで執務室へと向かった。

 廊下ですれ違う使用人たちの顔にも、どこか緊張の色が見える。

 彼らもまた、北の空気が変わったことを肌で感じ取っているのだろう。


 執務室に入ると、そこには戻ったばかりのカイド様がいた。

 泥と汗にまみれた軍服姿。

 数ヶ月前の王都での煌びやかな礼服姿とは違う、荒々しい武人の姿だ。


「エレナ」


 私を見るなり、彼の表情が少しだけ緩んだ。

 けれど、その瞳の奥にある鋭い光は消えていない。


「急に呼び出してすまない。……状況が変わった」


「アレンから聞きました。魔獣の群れ、ですか?」


「ああ。斥候の報告によれば、森の奥深くで『ぬし』クラスの魔獣が動き出した形跡がある」


 カイド様は地図を広げ、赤い印がつけられた地点を指差した。

 そこは、領地の北端。

 人の住む領域と、魔の領域の境界線だ。


「数年に一度、魔獣が活性化する時期がある。……『大侵攻スタンピード』の予兆だ」


 スタンピード。

 その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。

 それは、魔獣が雪崩のように押し寄せ、すべてを飲み込む災害だ。

 過去の記録では、一つの街が壊滅したこともあるという。


「そんな……まさか、この領地が?」


「まだ確定ではない。だが、備えは必要だ」


 カイド様は私を真っ直ぐに見据えた。


「俺は、騎士団を率いて北の砦へ入る。……長期戦になるかもしれん」


 彼の言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

 長期戦。

 つまり、彼はしばらく屋敷に戻らないということだ。

 私たち家族と離れ、死と隣り合わせの戦場へ向かうということだ。


「……どれくらいですか?」


 震える声で尋ねると、彼は苦しげに顔を歪めた。


「わからん。状況次第だ。……一週間か、一ヶ月か」


 一ヶ月。

 そんなに長い間、彼と会えなくなるなんて。

 ようやく手に入れた家族の団欒が、また奪われてしまう。


「行かなければ、なりませんか?」


 わがままだとわかっていても、聞かずにはいられなかった。

 カイド様は辺境伯だ。領主だ。

 彼には領民を守る義務がある。

 でも、私にとっては夫であり、子供たちの父親なのだ。


 カイド様は私の肩に手を置き、強く抱き寄せた。

 その腕の力強さに、彼の葛藤が滲んでいた。


「行きたくはない。……今すぐにでも、君と子供たちを連れて安全な場所へ逃げたい」


 彼の本音が、耳元で囁かれる。


「だが、俺が逃げれば、この領地は終わる。……俺たちが築き上げた家も、子供たちの未来も、すべて魔獣に踏み荒らされる」


 そうだ。

 ここは最前線なのだ。

 私たちが幸せに暮らせているのは、彼が、そして騎士たちが命懸けで守ってくれているからだ。

 その盾がなくなれば、平穏など一瞬で消え去る。


「……わかりました」


 私は彼の胸から顔を上げ、涙を堪えて微笑んだ。


「行ってらっしゃいませ、カイド様。……家のことは、私にお任せください」


「エレナ……」


「私は辺境伯夫人ですもの。夫が戦っている間に、おめおめと逃げ出したりはしませんわ」


 私は努めて気丈に振る舞った。

 私が不安な顔を見せれば、彼の決意が鈍る。

 送り出すときは笑顔で。

 それが、銃後を守る妻の矜持だ。


「……ありがとう」


 カイド様は私の額に口づけを落とした。

 その唇は熱く、そして微かに震えていた。


「必ず戻る。……君と子供たちのもとへ」


 それは約束だ。

 絶対に破らせない、血の契約よりも重い約束。


「はい。待っています」


 窓の外では、風が強まり始めていた。

 庭の木々がざわめき、鳥たちが空高く舞い上がる。

 嵐が来る。

 私たちの平穏を試すような、大きな嵐が。


 私はカイド様の腕の中で、静かに覚悟を決めた。

 彼が剣を持って戦うなら、私は知恵と心で戦おう。

 この屋敷を、子供たちを、そして彼が帰るべき場所を、何があっても守り抜くために。


 予兆の風は、もう吹き始めていた。

 長く、厳しい戦いの季節が、幕を開けようとしている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ