第10話 帰るべき場所
ガタゴト、ガタゴト。
車輪が石畳を、そして街道の土を噛む規則的な音が、心地よい揺り籠のように響いている。
王都の喧騒は、もう遥か彼方に遠ざかっていた。
窓の外を流れる景色は、整然とした街並みから、どこまでも広がる草原と深い森へと変わっている。
空気が少しずつ冷たく、そして澄んでいくのがわかった。
建国記念パーティーでの「決着」から三日。
私たちは必要な手続きと挨拶回りを驚くべき速さで済ませ、逃げるように――いいえ、凱旋するように王都を後にした。
「……よく寝ているな」
向かいの席で、カイド様が目を細めて囁いた。
彼の視線の先には、長椅子のシートで身を寄せ合い、すやすやと眠るルカとリナの姿がある。
遊び疲れた天使たちは、馬車の揺れさえも子守唄にして、深い夢の中にいるようだ。
「ええ。あんなに頑張ったのですもの。無理もありませんわ」
私は子供たちに掛かったブランケットの位置を直しながら、愛おしげにその寝顔を見つめた。
この子たちは、あの夜会で間違いなく一番の功労者だった。
大人たちが言葉と腹芸で戦う中、純粋な真実だけを武器にして、私たちを守ってくれたのだから。
「……王都での評判は、一変したようだな」
カイド様が苦笑交じりに言った。
出発の朝、別邸には山のような手紙と花束が届いていた。
その多くは、夜会での非礼を詫びるものや、ヴォルグ家との交友を求める内容だった。
ラングレー伯爵家への経済制裁が即座に発動されたことも、噂の火に油を注いだらしい。
『氷の辺境伯の逆鱗に触れるとどうなるか』
その見せしめは、貴族たちを震え上がらせるのに十分すぎる効果を発揮していた。
「イザベラ様のことは、少し可哀想な気もしますけれど」
「自業自得だ。……それに、彼女の父親も大概だったらしいぞ」
カイド様は冷ややかに言った。
「娘の不始末を棚に上げ、裏で我が家の悪評を流していたのは伯爵本人だ。今回の件で、その尻尾も掴んだ。……ラングレー家は遠からず、爵位を返上することになるだろう」
容赦がない。
けれど、それが「家族を守る」ということなのだ。
外敵を徹底的に排除し、二度と手出しをさせない。
その強さが、今の私たちには心地よかった。
「もう、誰も私たちを『悪妻』とも『野蛮人』とも呼びませんわ」
「ああ。……『愛妻家』と『賢夫人』だとさ。背中が痒くなるような二つ名だが」
カイド様が肩をすくめる。
その表情は、以前のような険しいものではなく、どこか誇らしげに見えた。
旅は順調に進んだ。
往路とは違い、心に重くのしかかっていた不安がない分、馬車の中は常に明るい空気に満ちていた。
起きている間の子供たちは、窓の外に見える動物を数えたり、王都で見た大道芸の真似をしたりして、私たちを笑わせてくれた。
そして、五日目の夕暮れ。
空が茜色に染まる頃、見慣れた景色が視界に入ってきた。
遠くに聳える、雪を頂いた山脈。
鬱蒼とした針葉樹の森。
そして、その中心に堂々と鎮座する、堅牢な石造りの屋敷。
ヴォルグ辺境伯邸。
私たちの家だ。
「パパ! ママ! おうちが見えるよ!」
目を覚ましたルカが、窓に張り付いて叫んだ。
リナも目をこすりながら身を乗り出す。
「かえってきたの?」
「ええ。帰ってきたのよ」
私は子供たちの背中を撫でながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
数ヶ月前、初めてここに来た時のことを思い出す。
あの時は、この場所が「世界の果ての監獄」のように思えた。
灰色で、冷たくて、孤独な場所。
けれど今は違う。
夕日に照らされた屋敷は、黄金色に輝き、私たちを温かく迎え入れてくれているように見える。
あの中には、信頼できる使用人たちがいて、温かいスープと、ふかふかのベッドが待っている。
ここはもう、監獄ではない。
私たちが守り、育んできた、世界で一番大切な「帰る場所」なのだ。
馬車が正門をくぐる。
砂利を踏む音が変わり、エントランスの前で車輪が止まった。
扉が開かれると、そこには懐かしい顔があった。
「お帰りなさいませ、旦那様、奥様。そして、ルカ様、リナ様」
セバスチャンだ。
彼は以前よりも少しだけ背中を丸め、しかし満面の笑みを浮かべて立っていた。
その後ろには、新しく採用されたメイドたちが整列し、深々と頭を下げている。
「ただいま、セバスチャン」
カイド様が子供たちを抱いて降り立つ。
私も彼のエスコートを受けて地面に降りた。
ひんやりとした北の風が頬を撫でる。
王都のむせ返るような香水の匂いとは違う、清冽な土と森の香り。
肺いっぱいに吸い込むと、旅の疲れが洗われていくようだ。
「お留守の間、変わりはありませんでしたか?」
私が尋ねると、セバスチャンは誇らしげに胸を張った。
「はい。屋敷も領地も、つつがなく。……皆様のお帰りを、首を長くしてお待ちしておりました」
「セバスチャン! ただいま!」
ルカとリナが、カイド様の腕から飛び降りてセバスチャンに駆け寄った。
以前なら考えられない光景だ。
管理責任を問われて処分を受けた彼だが、子供たちにとっては「反省して生まれ変わったおじいちゃん」として、再び受け入れられている。
「おお、ルカ様、リナ様。……王都はいかがでしたか?」
「すごかったよ! パパが悪者、バーンってしたの!」
「リナ、おひめさまになったの!」
子供たちが口々に冒険譚を語り出す。
セバスチャンは目を細め、「そうでございますか、それは素晴らしい」と相槌を打つ。
その目尻に光るものを、私は見逃さなかった。
彼は心配していたのだ。
王都の社交界がどれほど過酷かを知っているからこそ、私たちが傷ついて帰ってくるのではないかと、気が気ではなかったはずだ。
けれど、私たちは勝った。
誰も欠けることなく、笑顔で帰ってきた。
「……積もる話は中で聞こう。夕食の準備はできているか?」
カイド様が声をかけると、セバスチャンはハッとして姿勢を正した。
「もちろんでございます。料理長が腕によりをかけて、皆様の好物をご用意しております。……温かいシチューと、パンケーキもございますよ」
「わぁーい!」
子供たちが歓声を上げ、屋敷の中へと走っていく。
その背中を見送りながら、カイド様が私の隣に立った。
「……帰ってきたな」
しみじみとした声だった。
「ええ。……長かったような、あっという間だったような気がします」
私たちは顔を見合わせた。
何も言わなくても、通じ合うものがある。
借金のカタとしての契約結婚。
子供部屋の改革。
実家の襲撃。
使用人の断罪。
そして、王都での戦い。
数々の苦難を乗り越えて、私たちはようやくここまで辿り着いた。
嘘や秘密、後ろめたい過去はもう何もない。
あるのは、揺るぎない信頼と、積み重ねてきた愛だけだ。
「エレナ」
カイド様が私の手を取り、その薬指に口づけを落とした。
そこには、王都で彼が買い求めた、新しい指輪が輝いている。
ヴォルグ・ブルーのサファイアと、私の瞳の色であるアメジストが寄り添うデザインの指輪だ。
「君がこの家に来てくれて、本当によかった」
彼の言葉に、私は胸が詰まった。
それは私が、ずっと欲しかった言葉。
自分の存在を、心から肯定してくれる言葉。
「……私もです。カイド様」
私は涙を堪えて微笑んだ。
「あなたが私の夫で、本当によかった」
カイド様が優しく微笑み、私の肩を抱いた。
私たちは並んで、屋敷の扉をくぐった。
ホールは明るく、暖炉の火が暖かく燃えている。
廊下からは、子供たちの笑い声と、使用人たちの活気ある足音が聞こえてくる。
かつては静まり返り、冷気だけが漂っていたこの場所が、今はこんなにも「生」のエネルギーに満ちている。
これが、私の作った楽園。
そして、私たちが守り抜いた城。
「ママ、はやくー!」
食堂の方から、リナの声が聞こえた。
「はいはい、今行きますよ」
私はカイド様と視線を交わし、一歩を踏み出した。
特別なことは何もない。
これから始まるのは、温かい夕食と、お風呂と、そして穏やかな眠り。
そんな当たり前の日常だ。
けれど、その当たり前を手に入れるために、私たちは戦ってきたのだ。
窓の外では、一番星が輝き始めていた。
明日もきっと、良い日になる。
ここで生きていく限り、どんな冬が来ても、私たちは寄り添って春を待つことができるだろう。
私は心の中で、かつての自分に別れを告げた。
さようなら、孤独だった私。
そして、こんにちは。
愛する家族と共に生きる、新しい私。
「愛はない」と言われた契約妻の物語は、ここで幕を閉じる。
けれど、本当の家族の物語は、ここから永遠に続いていくのだ。
私は満ち足りた気持ちで、愛する人たちが待つ食卓へと歩みを進めた。
(完)
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