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【第5章開始!】「愛はない」と言われた契約妻ですが、子供たちを愛でるのに忙しいので旦那様は空気として扱います  作者: 月雅
第3章

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第10話 帰るべき場所



 ガタゴト、ガタゴト。

 車輪が石畳を、そして街道の土を噛む規則的な音が、心地よい揺り籠のように響いている。


 王都の喧騒は、もう遥か彼方に遠ざかっていた。

 窓の外を流れる景色は、整然とした街並みから、どこまでも広がる草原と深い森へと変わっている。

 空気が少しずつ冷たく、そして澄んでいくのがわかった。


 建国記念パーティーでの「決着」から三日。

 私たちは必要な手続きと挨拶回りを驚くべき速さで済ませ、逃げるように――いいえ、凱旋するように王都を後にした。


「……よく寝ているな」


 向かいの席で、カイド様が目を細めて囁いた。

 彼の視線の先には、長椅子のシートで身を寄せ合い、すやすやと眠るルカとリナの姿がある。

 遊び疲れた天使たちは、馬車の揺れさえも子守唄にして、深い夢の中にいるようだ。


「ええ。あんなに頑張ったのですもの。無理もありませんわ」


 私は子供たちに掛かったブランケットの位置を直しながら、愛おしげにその寝顔を見つめた。

 この子たちは、あの夜会で間違いなく一番の功労者だった。

 大人たちが言葉と腹芸で戦う中、純粋な真実だけを武器にして、私たちを守ってくれたのだから。


「……王都での評判は、一変したようだな」


 カイド様が苦笑交じりに言った。

 出発の朝、別邸には山のような手紙と花束が届いていた。

 その多くは、夜会での非礼を詫びるものや、ヴォルグ家との交友を求める内容だった。


 ラングレー伯爵家への経済制裁が即座に発動されたことも、噂の火に油を注いだらしい。

 『氷の辺境伯の逆鱗に触れるとどうなるか』

 その見せしめは、貴族たちを震え上がらせるのに十分すぎる効果を発揮していた。


「イザベラ様のことは、少し可哀想な気もしますけれど」


「自業自得だ。……それに、彼女の父親も大概だったらしいぞ」


 カイド様は冷ややかに言った。


「娘の不始末を棚に上げ、裏で我が家の悪評を流していたのは伯爵本人だ。今回の件で、その尻尾も掴んだ。……ラングレー家は遠からず、爵位を返上することになるだろう」


 容赦がない。

 けれど、それが「家族を守る」ということなのだ。

 外敵を徹底的に排除し、二度と手出しをさせない。

 その強さが、今の私たちには心地よかった。


「もう、誰も私たちを『悪妻』とも『野蛮人』とも呼びませんわ」


「ああ。……『愛妻家』と『賢夫人』だとさ。背中が痒くなるような二つ名だが」


 カイド様が肩をすくめる。

 その表情は、以前のような険しいものではなく、どこか誇らしげに見えた。


 旅は順調に進んだ。

 往路とは違い、心に重くのしかかっていた不安がない分、馬車の中は常に明るい空気に満ちていた。

 起きている間の子供たちは、窓の外に見える動物を数えたり、王都で見た大道芸の真似をしたりして、私たちを笑わせてくれた。


 そして、五日目の夕暮れ。

 空が茜色に染まる頃、見慣れた景色が視界に入ってきた。


 遠くに聳える、雪を頂いた山脈。

 鬱蒼とした針葉樹の森。

 そして、その中心に堂々と鎮座する、堅牢な石造りの屋敷。


 ヴォルグ辺境伯邸。

 私たちの家だ。


「パパ! ママ! おうちが見えるよ!」


 目を覚ましたルカが、窓に張り付いて叫んだ。

 リナも目をこすりながら身を乗り出す。


「かえってきたの?」


「ええ。帰ってきたのよ」


 私は子供たちの背中を撫でながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。


 数ヶ月前、初めてここに来た時のことを思い出す。

 あの時は、この場所が「世界の果ての監獄」のように思えた。

 灰色で、冷たくて、孤独な場所。


 けれど今は違う。

 夕日に照らされた屋敷は、黄金色に輝き、私たちを温かく迎え入れてくれているように見える。

 あの中には、信頼できる使用人たちがいて、温かいスープと、ふかふかのベッドが待っている。


 ここはもう、監獄ではない。

 私たちが守り、育んできた、世界で一番大切な「帰る場所」なのだ。


 馬車が正門をくぐる。

 砂利を踏む音が変わり、エントランスの前で車輪が止まった。


 扉が開かれると、そこには懐かしい顔があった。


「お帰りなさいませ、旦那様、奥様。そして、ルカ様、リナ様」


 セバスチャンだ。

 彼は以前よりも少しだけ背中を丸め、しかし満面の笑みを浮かべて立っていた。

 その後ろには、新しく採用されたメイドたちが整列し、深々と頭を下げている。


「ただいま、セバスチャン」


 カイド様が子供たちを抱いて降り立つ。

 私も彼のエスコートを受けて地面に降りた。

 ひんやりとした北の風が頬を撫でる。

 王都のむせ返るような香水の匂いとは違う、清冽な土と森の香り。

 肺いっぱいに吸い込むと、旅の疲れが洗われていくようだ。


「お留守の間、変わりはありませんでしたか?」


 私が尋ねると、セバスチャンは誇らしげに胸を張った。


「はい。屋敷も領地も、つつがなく。……皆様のお帰りを、首を長くしてお待ちしておりました」


「セバスチャン! ただいま!」


 ルカとリナが、カイド様の腕から飛び降りてセバスチャンに駆け寄った。

 以前なら考えられない光景だ。

 管理責任を問われて処分を受けた彼だが、子供たちにとっては「反省して生まれ変わったおじいちゃん」として、再び受け入れられている。


「おお、ルカ様、リナ様。……王都はいかがでしたか?」


「すごかったよ! パパが悪者、バーンってしたの!」

「リナ、おひめさまになったの!」


 子供たちが口々に冒険譚を語り出す。

 セバスチャンは目を細め、「そうでございますか、それは素晴らしい」と相槌を打つ。

 その目尻に光るものを、私は見逃さなかった。


 彼は心配していたのだ。

 王都の社交界がどれほど過酷かを知っているからこそ、私たちが傷ついて帰ってくるのではないかと、気が気ではなかったはずだ。

 けれど、私たちは勝った。

 誰も欠けることなく、笑顔で帰ってきた。


「……積もる話は中で聞こう。夕食の準備はできているか?」


 カイド様が声をかけると、セバスチャンはハッとして姿勢を正した。


「もちろんでございます。料理長が腕によりをかけて、皆様の好物をご用意しております。……温かいシチューと、パンケーキもございますよ」


「わぁーい!」


 子供たちが歓声を上げ、屋敷の中へと走っていく。

 その背中を見送りながら、カイド様が私の隣に立った。


「……帰ってきたな」


 しみじみとした声だった。


「ええ。……長かったような、あっという間だったような気がします」


 私たちは顔を見合わせた。

 何も言わなくても、通じ合うものがある。


 借金のカタとしての契約結婚。

 子供部屋の改革。

 実家の襲撃。

 使用人の断罪。

 そして、王都での戦い。


 数々の苦難を乗り越えて、私たちはようやくここまで辿り着いた。

 嘘や秘密、後ろめたい過去はもう何もない。

 あるのは、揺るぎない信頼と、積み重ねてきた愛だけだ。


「エレナ」


 カイド様が私の手を取り、その薬指に口づけを落とした。

 そこには、王都で彼が買い求めた、新しい指輪が輝いている。

 ヴォルグ・ブルーのサファイアと、私の瞳の色であるアメジストが寄り添うデザインの指輪だ。


「君がこの家に来てくれて、本当によかった」


 彼の言葉に、私は胸が詰まった。

 それは私が、ずっと欲しかった言葉。

 自分の存在を、心から肯定してくれる言葉。


「……私もです。カイド様」


 私は涙を堪えて微笑んだ。


「あなたが私の夫で、本当によかった」


 カイド様が優しく微笑み、私の肩を抱いた。

 私たちは並んで、屋敷の扉をくぐった。


 ホールは明るく、暖炉の火が暖かく燃えている。

 廊下からは、子供たちの笑い声と、使用人たちの活気ある足音が聞こえてくる。

 かつては静まり返り、冷気だけが漂っていたこの場所が、今はこんなにも「生」のエネルギーに満ちている。


 これが、私の作った楽園。

 そして、私たちが守り抜いた城。


「ママ、はやくー!」


 食堂の方から、リナの声が聞こえた。


「はいはい、今行きますよ」


 私はカイド様と視線を交わし、一歩を踏み出した。


 特別なことは何もない。

 これから始まるのは、温かい夕食と、お風呂と、そして穏やかな眠り。

 そんな当たり前の日常だ。

 けれど、その当たり前を手に入れるために、私たちは戦ってきたのだ。


 窓の外では、一番星が輝き始めていた。

 明日もきっと、良い日になる。

 ここで生きていく限り、どんな冬が来ても、私たちは寄り添って春を待つことができるだろう。


 私は心の中で、かつての自分に別れを告げた。

 さようなら、孤独だった私。

 そして、こんにちは。

 愛する家族と共に生きる、新しい私。


 「愛はない」と言われた契約妻の物語は、ここで幕を閉じる。

 けれど、本当の家族の物語は、ここから永遠に続いていくのだ。


 私は満ち足りた気持ちで、愛する人たちが待つ食卓へと歩みを進めた。


(完)


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