第9話 決着の時
かつて、この国の社交界には一つの不文律があったという。
『氷の辺境伯を敵に回してはならない』
その言葉の意味を、この夜、王都の貴族たちは骨の髄まで理解することになった。
大広間は、墓所のように静まり返っていた。
床に無様に尻餅をついたまま、イザベラ伯爵令嬢は震える手で自身の腕をさすっている。
豪奢なドレスは乱れ、完璧にセットされていた巻き髪も崩れ落ちていた。
その頭上には、漆黒の礼服を纏ったカイド様が、冷厳な彫像のように立ちはだかっている。
片手にはまだグラスを持ったまま。
中身を一滴も零すことなく、もう片方の手だけで暴漢を取り押さえたのだ。
その圧倒的な武力と余裕の差に、周囲の貴族たちは息を飲んでいた。
「……乱暴な! なんてことをなさるの!」
イザベラ嬢が金切り声を上げた。
恐怖よりも、公衆の面前で恥をかかされた怒りが勝っているのだろう。
彼女は涙目で周囲を見回し、同情を引こうと訴えかけた。
「皆様、ご覧になりまして!? この野蛮な男は、か弱い女性に暴力を振るいましたのよ! なんて恐ろしい……やはり噂通りの野獣ですわ!」
彼女の取り巻きたちが、おずおずと頷こうとする。
しかし、カイド様の一瞥を受けた瞬間、彼女たちは凍りついたように動きを止めた。
「か弱い女性、か」
カイド様は氷の入ったグラスを軽く揺らし、冷ややかに言い放った。
「俺の目には、幼児と貴婦人に襲い掛かろうとした暴漢にしか見えなかったがな」
「ぼ、暴漢ですって!?」
「そうだ。俺が止めなければ、貴様はその汚い手で俺の妻を打つつもりだったのだろう?」
カイド様の指摘に、イザベラ嬢が言葉を詰まらせる。
事実は明白だ。
数百人の目撃者がいる。
彼女が逆上し、私に向かって手を振り上げたのは紛れもない事実だった。
「そ、それは……あの女が! エレナが無礼な口を利くからですわ! わたくしを侮辱して……」
「侮辱されたのはどちらかしら、イザベラ様」
私はカイド様の隣に進み出て、静かに告げた。
扇子で口元を隠す必要もない。
堂々と、冷ややかな視線で見下ろす。
「あなたは根拠もなく私を虐待者呼ばわりし、あまつさえ子供たちに偽証を強要しようとしました。……それこそが、ヴォルグ家に対する最大級の侮辱であり、名誉毀損ですわ」
「う、嘘よ! 虐待はあったはずよ! だって、あんな継母に育てられて、子供が懐くはずがないもの!」
イザベラ嬢はまだ食い下がる。
自分のシナリオが崩壊したことを認められないのだ。
「悪役令嬢は不幸になるべき」という、彼女の中だけの正義にしがみついている。
「懐くはずがない、か」
カイド様が鼻で笑った。
そして、私の背後に隠れていたルカとリナを、優しく前に促した。
「子供たちの言葉が聞こえなかったのか? それとも、貴様の耳には都合の良い真実しか届かないのか?」
ルカが、カイド様の足にしがみつきながら、イザベラ嬢を睨みつけた。
その瞳に怯えの色はない。
あるのは、理不尽な大人に対する純粋な憤りだ。
「パパの言う通りだ! 嘘つきはあなただ!」
「ママをいじめないで!」
リナも小さな拳を振り上げて抗議する。
その姿を見て、周囲の貴族たちがざわめき始めた。
「……子供があそこまで言うのだ。虐待などあり得ないだろう」
「ああ。むしろ、あの伯爵令嬢の方が異常に見えるな」
「嫉妬に狂って、ありもしない噂を流したのか。見苦しい」
風向きが変わった。
今まで遠巻きに見ていた人々が、明確に「ヴォルグ家支持」へと傾いていく。
それは正義感からではない。
「氷の辺境伯」と「ヒステリックな伯爵令嬢」、どちらを敵に回すのが損か、瞬時に計算した結果だ。
社交界とは、そういう場所だ。
孤立していく空気を感じ取ったのか、イザベラ嬢の顔色が蒼白になる。
「な、なによ……みんなして……わたくしはラングレー伯爵家の娘よ!? お父様に言いつけてやるわ!」
最後の切り札とばかりに家柄を振りかざす。
愚かなことだ。
相手が誰かを忘れている。
「ラングレー伯爵家か。……良い度胸だ」
カイド様が低く唸った。
その瞬間、会場の温度がさらに数度下がった気がした。
「我が領地は、北の要衝だ。魔獣の脅威からこの国を守る盾であり、希少な鉱物資源の供給源でもある」
カイド様は淡々と、しかし重みのある事実を並べた。
「ラングレー領は、我が領からの鉄鉱石を加工して利益を得ているはずだが? ……その当主の娘が、我が家に泥を塗るとはな」
「え……?」
イザベラ嬢が凍りつく。
彼女は知らなかったのだろうか。あるいは、興味がなかったのだろうか。
自分の家が、経済的にヴォルグ家に依存している事実を。
「今後、ラングレー家との取引は一切停止する」
カイド様が無慈悲に宣告した。
「えっ……?」
「鉄も、魔石も、一欠片たりとも卸さん。……俺の妻と子供を傷つけた代償だ。家ごと干上がるといい」
「そ、そんな! 待ってください! そんなことをされたら、領地の工房が潰れてしまいますわ!」
イザベラ嬢が悲鳴を上げ、這いつくばってカイド様の足元に縋ろうとした。
しかし、カイド様は汚いものを見るように一歩下がった。
「知ったことか。自分の撒いた種だろう」
「お、お父様に殺されます! お願いです、撤回してください! 謝ります、謝りますからぁ!」
プライドも何もかも捨てて、彼女は床に頭を擦り付けた。
先ほどまでの高慢さは見る影もない。
彼女は理解したのだ。
自分の浅はかな嫉妬が、家そのものを破滅させる引き金を引いてしまったことを。
その無様な姿を見下ろしながら、私は扇子を閉じた。
かつて、私も実家で同じような絶望を味わった。
けれど、彼女と私には決定的な違いがある。
私は家族を守るために戦ったが、彼女は他人を蹴落とすために戦った。
その差が、この結末だ。
「……もう結構ですわ、カイド様」
私が声をかけると、カイド様は視線を私に向けた。
氷のような瞳が、ふわりと溶ける。
「彼女の顔を見ていると、せっかくの楽しい夜会が台無しになってしまいますもの」
「……違いない」
カイド様は頷き、控えていた王城の衛兵に目配せをした。
「この者を連れ出せ。……これ以上、俺の視界に入れるな」
「はっ!」
衛兵たちがイザベラ嬢の腕を掴み、立たせる。
「いやぁ! 離して! 辺境伯様、エレナ様! お慈悲をぉぉぉ!」
泣き叫ぶ声が遠ざかっていく。
大扉が閉まると、会場には再び静寂が戻った。
しかし、それは先ほどまでの重苦しいものではなく、嵐が過ぎ去った後の清々しさに似ていた。
周囲の貴族たちが、一斉に居住まいを正す。
畏怖。
そして、敬意。
もはや誰も、私たちを「田舎者」とも「悪妻」とも呼ばないだろう。
ヴォルグ辺境伯夫妻は、敵に回せば家ごと潰される恐ろしい相手であり、同時に家族を何よりも大切にする誇り高き貴族であると、深く刻み込まれたのだから。
「……怖かったか、ルカ、リナ」
カイド様がしゃがみ込み、子供たちを抱き寄せた。
「ううん!」
ルカが首を横に振った。
その顔は、少し紅潮している。
「パパ、すごかった! 悪い人、やっつけた!」
「リナも! パパつよい!」
子供たちにとって、今のやり取りは「正義のヒーローが悪者を退治した」ように映ったらしい。
経済制裁という大人の事情は理解できていないだろうけれど、父親が自分たちを守ってくれたことだけは伝わっている。
「そうか。……お前たちが無事でよかった」
カイド様は安堵の息を吐き、私の腰に手を回した。
「エレナ、君もだ。……不快な思いをさせたな」
「いいえ。とてもスカッといたしましたわ」
私が悪戯っぽく微笑むと、カイド様もつられて笑った。
「君はやはり、ただ守られるだけの女ではないな」
「ええ。あなたの『共犯者』ですから」
私たちが微笑み合っていると、周囲から拍手が起こった。
最初はパラパラと、やがて会場全体を包む大きな波となって。
それはダンスの時のような称賛だけでなく、私たちの家族の絆に対する祝福のように聞こえた。
「素晴らしい家族愛を見せていただいた」
「辺境伯閣下、後ほどご挨拶をさせていただけますか」
「奥様、今度お茶会に……」
人々が集まってくる。
その表情は、もう媚びへつらいだけのものではない。
本物の敬意を持って、私たちに接しようとしている。
私はルカとリナの手を握り、カイド様に寄り添った。
これが、私たちの勝利だ。
言葉や暴力ではなく、ただ「在り方」を示すことで勝ち取った場所。
王都の夜は長い。
けれど、もう何も怖くはなかった。
私たちは証明したのだ。
過去の悪評も、根拠のない偏見も、本物の愛の前では塵に等しいということを。
「さあ、飲み物を取りに行こうか。……喉が渇いただろう」
カイド様が、何事もなかったかのように言った。
その平常運転ぶりに、私は吹き出した。
「ふふ、そうですわね。乾杯しましょうか」
「かんぱーい!」
子供たちがはしゃぐ。
煌びやかなシャンデリアの下、私たちは再び歩き出した。
誰にも邪魔されることのない、幸せな未来へ向かって。
この夜会での出来事は、翌朝には王都中に広まり、ヴォルグ家の評価を一変させることになるだろう。
そして、没落していくラングレー家とは対照的に、私たちの絆はより強固なものとして語り継がれていくのだ。
決着はついた。
完全なる、私たちの勝利で。




