第8話 聖女の嘘
「まあ、素敵なお召し物ですこと。……でも、中身がお粗末だと、布地が泣いてしまいますわね」
甘ったるい香水の匂いと共に、イザベラ伯爵令嬢が私の目の前に立ちはだかった。
その背後には、同じようなドレスを着た取り巻きの令嬢たちが、扇子で口元を隠しながら冷ややかな視線を送っている。
カイド様が飲み物を取りに行っている、ほんの数分の隙を狙ったのだ。
あまりにも分かりやすい嫌がらせに、私は内心でため息をついた。
「お褒めいただき光栄です、イザベラ様。……ヴォルグ家の仕立て屋が腕によりをかけてくれましたので、布地も喜んでいるかと思いますけれど」
私は優雅に微笑み返し、背後の子供たちを庇うように一歩前に出た。
ルカとリナが、私のドレスの裾をぎゅっと握りしめるのがわかる。
「あら、口がお上手ですこと」
イザベラ嬢は目を細め、わざとらしく声を張り上げた。
周囲の貴族たちの注意を引くためだ。
「でも、お召し物で隠せても、罪までは隠せませんわよ。……ねえ、皆様? ご存じかしら。このエレナ様が、ご実家でどのような評判だったか」
ざわめきが広がる。
ダンスでの称賛で薄らいでいたはずの悪意が、再び鎌首をもたげ始めた。
人の噂話、それも不幸なスキャンダルほど、退屈な夜会の好物はない。
「浪費、虚栄、そして……癇癪。気に入らないことがあると、使用人や立場の弱い者に当たり散らす悪癖がおありだとか」
根も葉もない嘘だ。
継母マリアが流したデマを、さらに誇張して語っている。
「そんな方が、前妻様のお子様方を育てていらっしゃるなんて……わたくし、心配で夜も眠れませんの」
イザベラ嬢は悲劇のヒロインのように目を伏せ、チラリと子供たちを見た。
「ねえ、可哀想な子供たち。……正直に言ってごらんなさい。その女の人に、痛いことをされているのでしょう?」
会場が静まり返った。
虐待。
それは貴族社会において、最も醜聞とされるタブーの一つだ。
事実であれば、辺境伯家の名誉は地に落ちる。
私は扇子を握りしめた。
私への侮辱なら受け流せる。
けれど、この子たちを利用して私を陥れようとするその卑劣さは、許容の限度を超えていた。
「……言葉を慎みなさい、イザベラ様」
私は低い声で警告した。
「根拠のない誹謗中傷は、あなたご自身の品位を損ないますわよ」
「根拠ならありますわ!」
イザベラ嬢が勝ち誇ったように叫んだ。
「わたくし、見たのです。先ほど、その男の子が震えていたのを。……あれは、日常的に暴力を振るわれている子供の反応ですわ」
こじつけも甚だしい。
ルカが震えていたのは、初めての場所で大勢の大人に囲まれた緊張からだ。
それを、さも確証があるかのように歪曲して言い立てる。
「さあ、見せてごらんなさい。服の下に、痣があるのではないの?」
イザベラ嬢が手を伸ばし、ルカの腕を掴もうとした。
強引に袖をまくり上げ、証拠を捏造するつもりなのだ。
パシッ。
乾いた音が響いた。
私が扇子で、彼女の手を叩き落とした音だ。
「なっ……!」
「私の子供に、気安く触れないでいただけますか」
私は彼女を睨みつけた。
もはや社交辞令の笑みなど作らない。
敵意には敵意を。
子供を守るためなら、私は悪女にでも修羅にでもなる。
「無礼者! わたくしは伯爵令嬢ですのよ! 借金まみれの売られた妻ごときが!」
イザベラ嬢が金切り声を上げる。
周囲の貴族たちが、遠巻きに私たちを見つめている。
その目は、どちらが勝つかを見極めようとする、冷淡な傍観者の目だ。
誰も助けてはくれない。
カイド様が戻るまで、私がこの場を凌ぐしかない。
「ええ、私は買われた妻かもしれません。ですが、今は辺境伯夫人です。我が家の嫡男に対する狼藉は、辺境伯家への挑戦と受け取りますが?」
「ふん、夫の威光を借りて! でも、真実は隠せませんわ。……ほら、子供たちが怯えているじゃありませんか。それが何よりの証拠です!」
彼女が指差した先。
私の背後で、ルカとリナが身を寄せ合っていた。
確かに、二人は震えていた。
イザベラ嬢の剣幕と、周囲の悪意ある視線に晒されて。
「かわいそうに。……継母にいじめられて、声も出せないのね。わたくしが助けてあげますわ」
イザベラ嬢が、慈悲深い聖女のような顔を作って子供たちに呼びかける。
その白々しさに、吐き気がした。
リナが、私のスカートをさらに強く握った。
そして、小さな声で呟いた。
「……ちがう」
「え?」
リナが顔を上げた。
その瞳には涙が溜まっていたけれど、そこには明確な拒絶の色があった。
「ママは、いじめない。……ママは、やさしいもん」
その声は小さかったけれど、静まり返った会場には十分に響いた。
イザベラ嬢の表情が凍りつく。
「な、何を言っているの? 脅されているのね? 本当のことを言えば、わたくしが守って……」
「いらない!」
今度はルカが叫んだ。
彼はリナを庇うように前に出て、イザベラ嬢を睨みつけた。
「僕たちを守ってくれるのは、パパとママだけだ! あなたなんかに、助けてほしくない!」
子供たちの声が、大広間に木霊する。
それは、大人の作った欺瞞を打ち砕く、純粋で鋭利な真実の叫びだった。
「僕たちは知ってるんだ」
ルカが拳を握りしめて言った。
その言葉には、五歳児とは思えない重みがあった。
本当の地獄を知っている者だけが持つ、説得力。
「いじめられるって、もっと痛くて、寒くて、お腹が空くことだ。……暗い部屋に閉じ込められて、誰も助けてくれないことだ」
第2部で明らかになった、かつての虐待の記憶。
それを、彼は自分の言葉で語った。
「でも、ママは違う。ママが来てから、ご飯は温かいし、お部屋も明るいし、パパも笑うようになったんだ」
ルカは私の手を取り、自分の頬に押し当てた。
「ママの手は、温かいんだ。……叩いたりしない。優しく撫でてくれる手なんだ」
私の目頭が熱くなった。
あの日、怯えて土下座をした少年は、もういない。
彼は今、自分の意志で、愛する家族を守るために戦っている。
「だから……嘘をつかないでください!」
ルカの叫びに、イザベラ嬢はたじろいだ。
彼女の作り上げた「虐待されている可哀想な子供たち」というシナリオは、当事者の証言によって粉々に砕け散ったのだ。
周囲の空気が変わる。
好奇の目は、疑惑の目へと変わり、イザベラ嬢に向けられる。
「……あのご令嬢、嘘をついていたのか?」
「子供があそこまで言うのだ、虐待などあるはずがない」
「辺境伯夫人を陥れようとしたのか……なんて浅ましい」
さざ波のように広がる非難の声。
イザベラ嬢の顔が、怒りと恥辱で赤く染まっていく。
「な、なによ……! 子供を洗脳したのね! なんて恐ろしい女!」
彼女は往生際悪く喚き散らす。
しかし、その言葉に耳を貸す者はもういなかった。
彼女の必死さは、かえって自身の嘘を際立たせるだけだった。
「もうおよしなさい、イザベラ様」
私は静かに告げた。
これ以上の醜態は、同じ貴族として見るに堪えない。
「子供たちは、誰よりも正直です。彼らの言葉が、すべての答えですわ」
「黙りなさい! この……泥棒猫が!」
イザベラ嬢が逆上し、私に向かって手を振り上げた。
理性を失った彼女は、公衆の面前であることも忘れ、暴力に訴えようとしたのだ。
私は動かなかった。
避ける必要などない。
だって、私には最強の盾があるのだから。
ガシッ。
振り下ろされたイザベラ嬢の腕が、空中で止められた。
骨が軋むほどの力で掴まれ、彼女が悲鳴を上げる。
「……俺の妻と子供に、何をするつもりだ」
地獄の底から這い上がってきたような、低く、冷徹な声。
そこには、絶対零度の殺気が込められていた。
「カイド様……」
戻ってきた夫は、片手でイザベラ嬢の腕を掴み上げ、もう片方の手にはグラスを持ったまま、氷のような瞳で見下ろしていた。
その威圧感たるや、ダンスの時とは比べ物にならない。
本物の「氷の辺境伯」が、そこにいた。
「へ、辺境伯……さま……」
イザベラ嬢がガタガタと震え出す。
顔色は土気色になり、唇がわなないている。
「俺がいない間に、随分と楽しそうな余興をしていたようだが」
カイド様はイザベラ嬢の手を乱暴に振り払った。
彼女は無様に床に尻餅をつく。
「聞かせてもらおうか。……貴様が吐いた嘘の代償を、どう払うつもりなのかをな」
カイド様が私の隣に立ち、肩を抱いた。
その体温が、私と子供たちを包み込む。
ああ、これで終わりだ。
彼女の運命は、この瞬間に決した。
私はルカとリナの頭を撫でながら、床に這いつくばるイザベラ嬢を見下ろした。
同情はしない。
子供を傷つけた罪は、重いのだから。
さあ、決着の時間だ。
この華やかなパーティー会場を、彼女への断罪の法廷に変えてしまいましょう。




