第7話 逆転のダンス
カイド様の大きな手が、私の腰をぐっと引き寄せた。
ワルツの旋律が、大広間の空気を振動させる。
私たちはそのリズムに合わせ、滑らかにフロアの上を滑り出した。
一歩、また一歩。
踏み出すたびに、シャンデリアの光を受けたドレスの裾がふわりと舞う。
カイド様のリードは完璧だった。
指先の圧力ひとつで次の動作を伝えてくれる、無言の対話。
私はそれに身を委ね、ただ彼だけを見つめてステップを踏む。
周囲の視線が、針のように突き刺さるのを感じていた。
それは好奇心であり、侮蔑であり、そして残酷な期待だった。
『野蛮な辺境伯に、まともなダンスなど踊れるはずがない』
『買われた悪妻が、無様に足を踏んで転ぶに違いない』
そんな声なき声が、扇子の陰から漏れ聞こえてくるようだ。
彼らは私たちを、見世物小屋の獣を見るような目で見ている。
失敗を待ち構え、嘲笑う準備をしているのだ。
けれど、残念ながらその期待に応えるつもりはない。
「……良い表情だ」
回転の最中、カイド様が耳元で囁いた。
「緊張など微塵も感じさせない。……やはり君は、俺の自慢の妻だ」
「あなたこそ。……いつの間にこれほど腕を上げられたのですか?」
私が微笑み返すと、カイド様は悪戯っぽく片眉を上げた。
「君をエスコートするために、夜な夜なセバスチャンを相手に練習したとは言えんな」
想像してしまい、思わず吹き出しそうになった。
あの厳格な執事と、強面の主人が手を取り合ってダンスの練習をしている図を。
なんて愛おしい人なのだろう。
私のために、見えないところで泥臭い努力をしてくれていたなんて。
胸の奥が温かくなる。
その熱が身体中に伝わり、動きがさらに軽やかになる。
私たちは加速した。
カイド様の体幹は、大木のように揺るがない。
その安定感が、私に大胆なステップを踏ませてくれる。
ターン。
スピン。
クリーム色のドレスが花のように開き、あしらわれた青いリボンが軌跡を描く。
カイド様の漆黒の礼服と、私のドレスのコントラスト。
それはまるで、夜空と月が円舞を踊っているかのように美しく映えているはずだ。
周囲の空気が、変わり始めた。
最初は冷ややかだった視線が、次第に釘付けになっていく。
嘲笑の含み笑いは消え、代わりに感嘆のため息が漏れ始めた。
「……おい、見たか今のターン」
「なんて速さだ。それなのに軸がブレていない」
「あの辺境伯が、あんなに優雅に踊るなんて……」
予想外の展開に、貴族たちが動揺している。
「野蛮人」というレッテルが、目の前の現実によって剥がれ落ちていく。
そして、私に対する評価も。
「あの奥方、動きが洗練されているわ」
「所作の一つ一つが美しい……本当に浪費家の悪女なのかしら?」
「二人の息がぴったりだわ。まるで絵画のよう……」
ざわめきが大きくなる。
それはもう、悪意あるものではなかった。
純粋な美しさに対する、称賛の響きを含んでいた。
私はカイド様の瞳を見つめたまま、心の中でガッツポーズをした。
ざまあみなさい。
あなたたちが馬鹿にしていた「田舎者」の実力、思い知ったかしら。
かつて実家で冷遇されていた頃、私は唯一の逃げ場として図書館に通い詰め、あらゆる教養を身につけた。
ダンスもその一つだ。
誰にもパートナーを頼めなかったから、一人でステップを練習し、想像の中で完璧な舞踏会を夢見ていた。
その孤独な努力が、今ここで花開いている。
そして何より、目の前には最高のパートナーがいる。
もう、一人ではない。
彼の手の温もりが、私に無限の自信を与えてくれる。
「エレナ」
音楽がクライマックスに向かう中、カイド様の瞳が熱を帯びた。
「愛している。……これからも、俺の隣で輝いていてくれ」
「ええ、カイド様。……死が二人を分かつまで」
私たちは最後のスピンを決め、音楽の終了と同時にピタリと静止した。
カイド様が私を支え、私が体を反らすポーズ。
互いの鼓動が聞こえるほどの距離で、視線が絡み合う。
一瞬の静寂。
その直後、割れるような拍手が巻き起こった。
パチパチパチパチ……!
最初はパラパラと、やがて会場全体を包み込む大喝采へと変わる。
貴族たちは興奮した面持ちで、私たちに惜しみない賞賛を送っていた。
そこにはもう、偏見の色はない。
ただ、素晴らしいダンスを見せられたという感動だけがあった。
私たちは体を起こし、観衆に向かって優雅に一礼した。
カイド様は誇らしげに私の腰を抱き、私もまた、夫に寄り添って微笑んだ。
視界の端で、真紅のドレスが苛立たしげに翻るのが見えた。
イザベラ伯爵令嬢だ。
彼女は扇子を握りしめ、顔を真っ赤にして私たちを睨みつけていた。
その表情は、悔しさと嫉妬で歪んでいる。
彼女の取り巻きたちも、バツが悪そうに視線を逸らしていた。
「野蛮な夫婦」を笑いものにする計画は、完全に失敗したのだ。
私たちはフロアを後にした。
その道すがら、何人かの貴族が声をかけてきた。
「素晴らしいダンスでした、辺境伯閣下」
「奥様のドレス、とてもお似合いですわ。どちらの仕立てですの?」
先ほどまでの冷遇が嘘のように、彼らの態度は友好的なものに変わっていた。
現金なものだ。
けれど、これが社交界という場所なのだろう。
実力と美しさを示せば、掌を返すように評価が変わる。
カイド様は愛想笑い一つせず、短く礼を言うだけで通り過ぎた。
彼にとって、重要なのは他人の評価ではない。
私と子供たちを守れたかどうか、それだけだ。
壁際で待機していたルカとリナのもとへ戻ると、二人が飛びついてきた。
「パパ! ママ! すごかった!」
「くるくるって! おひめさまみたいだった!」
子供たちは興奮して頬を紅潮させている。
その純粋な笑顔こそが、私にとって何よりの報酬だった。
「いい子にして待てたか?」
カイド様がしゃがみ込み、二人の頭を撫でる。
「うん! ちゃんとみてたよ!」
「だれにもいじわるされなかった!」
ルカが胸を張って答える。
護衛の騎士も、問題はなかったと目配せで伝えてくれた。
私はホッと息をついた。
ひとまず、第一関門は突破したようだ。
ダンスでの成功は、私たちが「取るに足らない田舎者」ではないことを証明した。
これで、少しは過ごしやすくなるだろう。
けれど、安心するのはまだ早い。
イザベラ嬢のあの表情。
彼女がこのまま引き下がるとは思えない。
プライドを傷つけられた彼女は、きっと次の手を打ってくるはずだ。
もっと陰湿で、卑劣な手を。
「……喉が渇いただろう。何か飲み物を持ってこよう」
カイド様が立ち上がり、給仕を探そうと視線を巡らせた。
その隙を突くように、甘ったるい声が近づいてきた。
「まあ、素敵なお召し物ですこと。……でも、中身がお粗末だと、布地が泣いてしまいますわね」
イザベラ嬢だった。
彼女は取り巻きを引き連れ、私たちの前に立ちはだかった。
その瞳は、先ほどよりも暗く、濁った色をしていた。
嫉妬という名の毒が、彼女の中で煮えたぎっているのがわかる。
私は子供たちを背に隠し、扇子を構えた。
ダンスは終わったけれど、戦いはまだ続いている。
今度は、言葉という名の剣で。




