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【第5章開始!】「愛はない」と言われた契約妻ですが、子供たちを愛でるのに忙しいので旦那様は空気として扱います  作者: 月雅
第3章

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第6話 氷の微笑



(あの子があれほど勇気を出してくれたのだから、私が怯むわけにはいかないわ)


 私はルカの小さな背中を見送った後、深く息を吸い込み、隣に立つ夫を見上げた。


 大広間には優雅なワルツの旋律が流れ始めている。

 建国記念パーティーのメインイベント、ダンスタイムの始まりだ。

 煌びやかなシャンデリアの下、着飾った紳士淑女たちがパートナーの手を取り、フロアへと進み出ている。


 ルカとリナは、信頼できる侍女と護衛騎士に預け、壁際で休憩をとらせることにした。

 子供たちにとって、大人のダンスは退屈だろうし、人混みの中で足を踏まれる危険もある。

 二人は「パパとママのダンス、見たい!」と目を輝かせて送り出してくれた。


 その純粋な期待に応えるためにも、無様な真似はできない。


「……行くか、エレナ」


 カイド様が私に向き直り、静かに右手を差し出した。

 漆黒の礼服に身を包んだ彼は、ただ立っているだけで絵になる。

 その長身と鍛え上げられた体躯は、周囲のひ弱な貴族男性とは一線を画す圧倒的な存在感を放っていた。


「はい、カイド様」


 私がその手に指先を乗せようとした瞬間、周囲からさざ波のような私語が聞こえてきた。


「おい、見ろよ。あの『野獣』が踊るつもりらしいぞ」

「辺境伯にダンスの嗜みなんてあるのかしら? 剣を振り回すことしか能がないと思っていたけれど」

「相手はあの『買われた悪妻』でしょう? 足を踏み合って転ぶのがオチね」


 扇子で口元を隠した令嬢たちや、グラスを傾ける紳士たちが、嘲笑を含んだ視線を向けてくる。

 ルカの勇気ある行動で少しは空気が変わったかと思ったが、根深い偏見はそう簡単には消えないらしい。

 彼らは、私たちが恥をかく瞬間を今か今かと待ち構えているのだ。

 残酷な見世物を楽しむ観客のように。


 私の指先が、わずかに震えた。

 過去の記憶が蘇る。

 実家にいた頃、社交界で無視され、嘲笑われた日々。

 『フォレス家の浪費娘』というレッテルは、今も私の背中に張り付いている。

 もし失敗すれば、カイド様まで笑いものにしてしまう。


「エレナ」


 ふいに、差し出された手が私の手を強く握りしめた。

 ハッとして顔を上げると、カイド様が私をじっと見つめていた。

 その瞳は、ヴォルグ・ブルー。

 深く、澄んだ氷河の色。


「周りなど見るな。俺だけを見ていればいい」


 低い声が、私の鼓膜を震わせる。

 それは命令ではなく、懇願に近い響きを持っていた。


「君は、俺が選んだ唯一の女性だ。……誰よりも美しく、誇り高い俺の妻だ」


 カイド様は私の手を引き寄せ、甲に口づけを落とした。

 公衆の面前での、あからさまな求愛行動。

 周囲の喧騒が一瞬にして止んだ。


 貴族たちの視線が釘付けになる中、カイド様は顔を上げ、ゆっくりと周囲を一瞥した。


 その唇の端が、微かに吊り上がる。

 笑っていた。

 けれど、その瞳は笑っていなかった。

 絶対零度の冷気を宿した、美しくも恐ろしい「氷の微笑」。


 『俺の妻を笑う者は、この俺が許さん』


 声に出さずとも、その表情だけで十分すぎるほどの威圧感が伝播した。

 陰口を叩いていた紳士が、ヒッと息を飲んで後ずさる。

 冷笑を浮かべていた令嬢が、扇子を取り落としそうになる。

 最強の武人から放たれる殺気に、温室育ちの貴族たちが耐えられるはずもなかった。


 周囲が静まり返るのを見届けてから、カイド様は私に視線を戻した。

 その瞬間、氷のような冷徹さは消え失せ、蕩けるような甘い眼差しに変わる。


「さあ。……俺たちを馬鹿にしていた連中に、格の違いを見せてやろう」


 悪戯っぽく囁かれ、私は思わず吹き出しそうになった。

 緊張が、嘘のように解けていく。

 この人は、いつだって不器用で、そして誰よりも頼もしい。


「ええ。謹んでお受けいたしますわ、私の騎士様」


 私は彼の手を握り返し、一歩踏み出した。


 カイド様のエスコートは完璧だった。

 私の歩幅に合わせ、腰に添えられた手は優しく、それでいて力強く私を支えている。

 まるで壊れ物を扱うかのような慎重さと、決して離さないという独占欲が綯交ぜになった、最高のエスコート。


 人波が割れる。

 モーゼが海を割るように、貴族たちが自然と道を空けていく。

 私たちは堂々とその中央を歩き、ダンスフロアの中心へと向かった。


 シャンデリアの光が、私たちの衣装にあしらわれた青いリボンを照らし出す。

 それは私たち家族の絆の証。

 誰にも侵させない、聖域の色。


「……見て。あの方、本当に『氷の辺境伯』なの?」

「奥様を見る目が、まるで恋する青年のようじゃないか」

「あんなに大切そうに……噂とは随分違うわね」


 困惑したような囁き声が漏れ聞こえてくる。

 カイド様が私に向ける眼差しは、隠しようもないほど愛に溢れていた。

 演技ではない。

 契約でもない。

 共に苦難を乗り越え、罪を分かち合った「共犯者」への、真実の愛。


 それが周囲にも伝わっているのだ。

 「野蛮な野獣」と「悪女」という偏見のフィルターを通してもなお、隠しきれないほどの熱量が。


 フロアの中央に立ち、私たちは向かい合った。

 カイド様が私の腰に手を回し、私は彼の肩に手を置く。

 身長差があるけれど、彼が少し屈んでくれるおかげで、視線が絡み合う。


「……準備はいいか?」


「いつでも」


 音楽がワルツの旋律へと変わる。

 その瞬間、カイド様がリードを始めた。


 滑らかで、力強いステップ。

 辺境での生活で武術を極めた彼の体幹は微動だにせず、私を羽毛のように軽々と舞わせる。

 かつて社交界で踊ったどの男性よりも、心地よく、安心できるリードだった。


 私たちは回り始めた。

 光の渦の中で。

 周囲の視線も、悪意も、すべて置き去りにして。


 孤独だった日々はもう終わった。

 この腕の中にある温もりこそが、私の世界であり、私の帰るべき場所なのだ。

 安心感が胸いっぱいに広がり、自然と笑みがこぼれた。


 カイド様もまた、私を見て微笑んでいる。

 それは周囲に向けた「氷の微笑」とは違う。

 春の陽射しのような、穏やかで優しい笑顔だった。


 遠くで、ルカとリナが手を叩いて喜んでいるのが見えた気がした。

 私たちのダンスは、まだ始まったばかりだ。

 これから、さらに高く、美しく舞い上がり、すべての雑音を喝采へと変えてみせる。


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