第5話 子供たちの勇気
ルカは隣に立つリナの小さな手を、痛いくらいに強く握りしめた。
会場の喧騒は、子供の耳にはあまりにも大きく、不快な雑音として響いていた。
カイド様と私は、国王陛下への挨拶を済ませるため、ほんの少しだけ子供たちから距離を置いていた。
もちろん、護衛の騎士は彼らのすぐ背後に控えているし、私たちの視線も届く場所にいる。
物理的な危険はないはずだった。
けれど、社交界の悪意は、剣や魔法よりも陰湿な形で忍び寄ってくる。
「……あら、ご覧なさい。可哀想な子供たち」
香水の匂いをきつく漂わせた貴族の夫人が、扇子で口元を隠しながら子供たちに近づいた。
その後ろには、数人の令嬢や紳士が続き、興味本位の目で二人を取り囲む。
護衛の騎士が動こうとしたが、夫人は「ご挨拶をするだけですわ」と牽制した。
社交の場において、言葉を交わすだけの行為を武力で排除することは難しい。
「お父様もお母様も、ご挨拶でお忙しいようね。……辺境から出てきたばかりで、マナーもご存じないのかしら」
夫人がわざとらしく嘆いて見せる。
リナが不安そうに身を縮め、ルカの背中に隠れようとした。
「ねえ、坊や。あなたたち、辺境では何を食べていたの? やはり、手づかみで獣の肉を?」
下品な嘲笑が漏れる。
彼らは子供たちを「野蛮人の子」として扱い、からかうことで優越感に浸ろうとしているのだ。
イザベラ嬢が撒いた悪評が、彼らの好奇心を煽っていた。
「服だけは立派だけれど、中身はどうかしらね」
「あの母親じゃ、ろくな教育も受けていないでしょうに」
「借金のカタに売られた女を『ママ』と呼ぶなんて、不憫で涙が出ますわ」
容赦のない言葉の礫が、幼い二人に降り注ぐ。
私は挨拶の途中だったが、カイド様の袖を引いた。
彼も気づいている。その瞳が氷点下の怒りを帯び始めている。
今すぐにでも駆けつけ、無礼な貴族たちを黙らせようとした、その時だった。
「……訂正してください」
凛とした声が、雑音を切り裂いた。
声の主は、ルカだった。
彼は震える膝を必死に抑えつけ、リナを背に庇いながら、自分たちを見下ろす大人たちを真っ直ぐに見上げていた。
その瞳は、カイド様譲りの「ヴォルグ・ブルー」。
深く、澄んだ青色が、強い意志を宿して輝いている。
「あら? 何か言ったかしら?」
夫人が面白そうに耳を傾ける。
「訂正してください、と言いました」
ルカは一歩前に出た。
五歳の子供とは思えないほど、その立ち姿は堂々としていた。
ヴォルグ家の嫡男として、父から教わった誇りを胸に。
「僕たちの教育についてなら、心配には及びません。お母様は……エレナお母様は、とても優しくて、賢い方です。僕たちにたくさんのことを教えてくれます」
「まあ、口答えするなんて。……やはり野蛮ですわね」
「野蛮ではありません!」
ルカが叫んだ。
その気迫に、夫人がたじろいで一歩下がる。
「お父様は、この国を守るために戦っている立派な騎士です。お母様は、僕たちを守ってくれる世界で一番素晴らしい人です。……悪口を言うのは、やめてください」
ルカの声は震えていた。
怖くないはずがない。
見知らぬ大人たちに囲まれ、悪意を向けられているのだ。
それでも彼は退かなかった。
父の教え――『ヴォルグ家の男なら、背中は見せるな』という言葉を、小さな体で体現していた。
「僕たちのことは何を言ってもいいです。でも、パパとママのことを悪く言う人は……僕が許しません」
ルカが睨みつけると、取り囲んでいた貴族たちが顔を見合わせた。
気まずい空気が流れる。
彼らはただの子供だと思って侮っていたのだ。
まさか、これほど理路整然と、誇り高く反論されるとは思っていなかった。
「な、生意気な……」
「親の顔が見てみたいものだわ」
捨て台詞を吐こうとした紳士の肩に、重い手が置かれた。
「――親なら、ここにいるが?」
地獄の底から響くような低い声。
紳士が「ひっ」と悲鳴を上げ、振り返る。
そこには、修羅の形相をしたカイド様が立っていた。
その背後には、同じく静かな怒りを燃やす私が控えている。
カイド様が放つ殺気は凄まじく、周囲の温度が一気に下がったかのような錯覚を覚えるほどだ。
「お、お初にお目にかかります、辺境伯閣下……」
紳士が冷や汗を流しながらへつらう。
「我々はただ、お子様方が可愛らしかったので、少しお話を……」
「ほう。俺の息子が『許さない』と言うほどの会話が、可愛らしいお喋りだと?」
カイド様の指が、紳士の肩に食い込む。
紳士は痛みに顔を歪め、言葉を失った。
「失せろ」
短く、しかし絶対的な命令。
貴族たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
彼らは所詮、安全な場所から石を投げることしかできない卑怯者だ。
本物の強者の前では、尻尾を巻いて逃げるしかない。
邪魔者がいなくなると、カイド様はすぐに膝を突き、ルカと視線を合わせた。
その表情から、先ほどまでの冷徹さは消え失せている。
「……ルカ」
「パパ……」
ルカの瞳から、堪えていた涙が溢れ出した。
張り詰めていた糸が切れたのだ。
彼はカイド様の胸に飛び込み、しゃくり上げた。
「こわかった……でも、がんばったよ……」
「ああ、見ていたぞ。……立派だった」
カイド様はルカを強く抱きしめ、その背中を大きな手で撫でた。
「お前は強い。俺よりもずっと、勇敢な騎士だ」
その言葉に、ルカは泣きながらも嬉しそうに頷いた。
父に認められたこと。
家族を守れたこと。
その事実が、彼の小さな胸に大きな自信を植え付けたはずだ。
私はリナを抱き上げた。
彼女も怖かっただろうに、お兄ちゃんが戦っている間、じっと耐えていたのだ。
「リナ様も、偉かったわね。泣かないで待てたもの」
「うん……おにいちゃん、かっこよかった」
リナが涙目で微笑む。
私はハンカチで彼女の涙を拭い、ルカとカイド様を見た。
周囲の視線が変わっていた。
先ほどまでの嘲笑や侮蔑の色は薄れ、代わりに驚きと、ある種の感嘆が混じっている。
「野蛮人の子供」という偏見は、ルカの毅然とした態度によって打ち砕かれたのだ。
あの子は、礼儀正しく、家族思いで、勇気ある少年として振る舞った。
それは、どんな着飾った言葉よりも雄弁に、ヴォルグ家の教育の正しさを証明していた。
「エレナ」
カイド様がルカを抱き上げたまま、私に手を差し出した。
「行こう。ダンスの時間だ」
「はい」
私はその手を取った。
まだ戦いは終わっていない。
むしろ、これからが本番だ。
でも、もう不安はなかった。
子供たちがこれほどまでに頑張ってくれたのだ。
大人が負けるわけにはいかない。
私はルカの勇気を胸に刻み、顔を上げた。
シャンデリアの光が、私たち家族を照らし出す。
それはスポットライトのように、次の舞台へと私たちを誘っていた。




