第3話 社交界の洗礼
石畳を叩く蹄の音と、遠くから聞こえる街の喧騒が、馬車の窓越しに重なり合って響いてくる。
五日間に及ぶ長旅の末、私たちはついに王都の城門をくぐり抜けた。
北の辺境とは違い、空気は少し湿り気を帯びていて、どこか華やかな香水の匂いが混じっている気がする。
「うわぁ! すごい人だ!」
「お城が見えるよ! 大きいねえ!」
ルカとリナが窓枠にしがみつき、目を輝かせて歓声を上げた。
通りを行き交う色とりどりの馬車、着飾った人々、立ち並ぶ煉瓦造りの商店。
静かな森と雪に囲まれた領地で育った彼らにとって、王都の景色はまるでお伽話の世界のように映るのだろう。
「はしゃぎすぎだぞ。……落ちるなよ」
カイド様が苦笑しながら、身を乗り出しすぎないよう二人の背中を支えている。
その表情は穏やかだが、瞳の奥には鋭い警戒色が宿っていた。
私たちの乗る馬車は、漆黒の塗装に銀の狼――ヴォルグ家の紋章が刻まれた、重厚な造りのものだ。
その威圧感は王都の大通りでも異彩を放ち、道行く人々が驚いて道を空けていく。
注目を集めるのは覚悟の上だが、その視線に含まれるのは純粋な好奇心だけではない。
(……始まったわね)
私は扇子で口元を隠し、窓の外を盗み見た。
馬車が貴族街に入ると、庶民の活気ある喧騒は鳴りを潜め、代わりに肌を刺すような冷ややかな空気が漂い始めた。
すれ違う貴族の馬車。
道端で立ち話をする着飾った令嬢たち。
彼らはヴォルグ家の紋章を見ると、あからさまに眉をひそめ、扇子の陰でひそひそと言葉を交わす。
「あれが『氷の辺境伯』の馬車か」
「なんと野蛮な。子供まで連れてくるなんて、田舎者はこれだから」
「噂の『悪妻』も乗っているのかしら?」
言葉そのものは聞こえない。
けれど、その視線と表情が雄弁に語っていた。
ここには、私たちを歓迎する者はいないのだと。
「……不愉快だな」
カイド様が低く呟いた。
彼もまた、外の空気を敏感に感じ取っているのだ。
自分のことなら無視できても、家族に向けられる悪意には我慢がならないのだろう。
無意識のうちに、膝の上の拳が握りしめられている。
「カイド様」
私はそっとその拳に手を重ねた。
「お顔が怖いですわ。子供たちが驚いてしまいます」
ハッとしてカイド様が表情を緩める。
ルカとリナは、外の景色に夢中で、まだ大人たちの不穏な空気に気づいていない。
この純真な笑顔を、曇らせたくはない。
「……そうだな。すまない」
彼は深く息を吐き、私の手を握り返した。
「だが、降りれば直接言葉を浴びせられるかもしれん。……エレナ、覚悟はいいか」
「もちろんです。私はもう、泣いて逃げ出すような小娘ではありませんから」
私は背筋を伸ばし、にっこりと微笑んでみせた。
実家での冷遇と、辺境での生活を経て、私の心臓にはそれなりの毛が生えたようだ。
やがて馬車は、王都におけるヴォルグ家の拠点――別邸のエントランスに到着した。
すでに到着の報せを受けていた使用人たちが、整列して出迎えてくれる。
しかし、問題はその周囲だ。
別邸の門の周りには、興味本位の野次馬や、近くの屋敷に住む貴族たちが、品定めをするような目でこちらを窺っていた。
特に、カイド様の「野獣」ぶりと、私の「悪女」ぶりを一目見ようとする視線は、粘着質で不快だ。
御者が扉を開ける。
「さあ、着いたぞ」
カイド様が先に降り立った。
その瞬間、周囲の空気がピリリと凍りつく。
身長一八〇センチを超える巨躯、漆黒の礼服、そして冷徹な美貌。
「氷の辺境伯」の異名は伊達ではない。
ただ立っているだけで、周囲を威圧する圧倒的なオーラがある。
野次馬たちが息を呑み、一歩後ずさるのがわかった。
カイド様は周囲の視線を一瞥もせず、馬車の中に手を差し伸べた。
とても優しく、丁寧な手つきで。
「お手を、エレナ」
「ありがとう、あなた」
私はその手を取り、優雅にステップを降りた。
今日のドレスは、ヴォルグ・ブルーのリボンをあしらった淡いクリーム色のものだ。
派手すぎず、かといって地味すぎない、上品さを意識した装い。
背筋を伸ばし、顎を引いて、堂々と顔を上げる。
周囲から、ざわめきが起こった。
「あれがフォレス家の……?」
「意外とまともじゃないか」
「ふん、どうせ衣装だけ立派に仕立てたのだろう。中身は浪費家のままだ」
聞こえよがしな悪口が耳に届く。
予想通りだ。
彼らは私たちが「まとも」であることが面白くないのだ。
野獣と悪女、というレッテル通りの見世物を期待していたのに、肩透かしを食らった気分なのだろう。
続いて、ルカとリナが馬車から顔を出した。
カイド様が二人を抱き下ろす。
お揃いの青いリボンとネクタイをつけた双子は、天使のように愛らしい。
「わあ、ここがおうち?」
「おっきいね!」
無邪気な声が響くと、貴族たちの表情がさらに歪んだ。
「まあ、子供を連れてくるなんて」
「社交シーズンに幼児など、非常識にも程がある」
「辺境ではマナーも教えないのかしら」
容赦のない言葉の礫。
ルカが敏感に反応し、びくりと肩を震わせた。
彼は周囲の大人たちの目が、好意的でないことに気づいてしまったのだ。
「……ママ?」
ルカが不安そうに私のスカートを掴む。
リナもカイド様の足にしがみついた。
カイド様の瞳が一瞬で冷え切った。
周囲の貴族たちに向けて、明確な殺気が放たれる。
「……何か言いたいことがあるなら、直接俺に言えばいい」
低い声が、静まり返った通りに響いた。
それは警告であり、威嚇だった。
陰口を叩いていた貴族たちが、ヒッと音を立てて顔を背ける。
私はカイド様の腕にそっと手を添え、首を横に振った。
ここで彼らを睨みつけても、火に油を注ぐだけだ。
「野蛮な辺境伯が王都で暴れた」なんて噂を立てられたら、それこそ思う壺だ。
「行きましょう、あなた。長旅で子供たちも疲れていますわ」
私は努めて穏やかな声で言った。
そして、周囲の視線に向けて、貴族令嬢として完璧なカーテシーを一瞬だけ見せた。
媚びるためではない。
「礼儀知らず」という彼らの偏見を、行動で否定するためだ。
その所作の美しさに、何人かが口をつぐんだ。
「……ああ。そうだな」
カイド様も理性を総動員して怒りを収めたようだ。
彼はルカの手を引き、もう片方の手で私の腰を抱き寄せた。
これ見よがしな溺愛のポーズ。
「私の家族に手出しはさせない」という、無言の宣言だ。
私たちは堂々と胸を張り、別邸の門をくぐった。
重厚な扉が閉まり、外の雑音が遮断されるまで、背中に突き刺さる視線は消えなかった。
エントランスホールに入ると、ようやく静寂が戻った。
慣れ親しんだセバスチャンは不在だが、代わりに同行した副執事が深々と頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました、旦那様、奥様」
「……ご苦労」
カイド様が短く答え、大きく息を吐いた。
肩の力が抜けるのがわかる。
「……怖かった」
ルカがポツリと漏らした。
その顔色は少し青い。
「みんな、僕たちのこと嫌いなの?」
核心を突く問いに、私はしゃがみ込んでルカと目線を合わせた。
「いいえ。嫌いなんじゃないわ。……ただ、知らないだけよ」
「知らない?」
「ええ。パパがどれだけ強くて優しいか、ママたちがどれだけ仲良しで幸せか。彼らは知らないから、勝手なことを言っているの」
私はルカの頭を撫でた。
「だから、教えてあげましょう。私たちが素敵な家族だってことを」
ルカは少し考えてから、コクンと頷いた。
「わかった。僕、がんばる」
健気な言葉に、胸が熱くなる。
この子たちは強い。
理不尽な悪意に晒されても、それに飲み込まれない強さを持っている。
カイド様が私たちの頭上に手を置いた。
「明日の夜会が本番だ。……今日のような雑音など、比ではないかもしれん」
「ええ。覚悟はしております」
私は立ち上がり、カイド様を見上げた。
その瞳には、私と同じ決意の色があった。
王都での戦いは、まだ始まったばかりだ。
今日はただの挨拶代わり。
明日の建国記念パーティーでは、もっと直接的な悪意――おそらくは、私を陥れようとする具体的な罠が待ち受けているだろう。
でも、怖くはない。
私の手には、カイド様の温もりと、子供たちの小さな掌の感触がある。
この絆がある限り、どんな冷ややかな視線も、嘲笑も、私たちを凍らせることはできない。
私はヴォルグ・ブルーのリボンを指先でなぞり、静かに闘志を燃やした。
見せてあげましょう。
あなたたちが馬鹿にしている「野蛮な辺境伯一家」が、どれほど誇り高く、美しいかを。




