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【第5章開始!】「愛はない」と言われた契約妻ですが、子供たちを愛でるのに忙しいので旦那様は空気として扱います  作者: 月雅
第2章

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第10話 新しい礎



 開け放たれた窓から、初夏の爽やかな風と共に、小鳥たちのさえずりが流れ込んでくる。


 雪解け水が流れる音はもう聞こえない。

 庭の木々は瑞々しい若葉を広げ、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。

 長く厳しかった北の地の冬が去り、ようやく本当の季節が巡ってきたのだ。


 私はテラスに出て、眼下に広がる庭園を眺めた。

 そこでは、新しいメイドたちが一列に並び、セバスチャンの指導を受けている最中だった。


「……背筋を伸ばしなさい。挨拶の角度は三十度。ヴォルグ家の使用人として、恥じぬ振る舞いを心がけるように」


 セバスチャンの声は厳しく、しかし以前のような冷たさはなかった。

 彼の背中は一回り小さくなったように見える。

 減給と権限縮小の処分を受け、彼は今、新人教育係として一からやり直している最中だ。

 かつては執務室で書類仕事ばかりしていた彼が、こうして現場に出て、泥臭く汗を流している。


「はいっ、セバスチャン様!」


 フレッシュな返事が返ってくる。

 新しく雇われた使用人たちは、地元の領民から選抜された者たちだ。

 マーサの派閥に属していた者は一人残らず排除され、屋敷の空気は劇的に入れ替わった。

 澱んでいた水が流れ出し、清流が注ぎ込まれたようだ。


「順調そうだな」


 背後から低い声がした。

 振り返ると、カイド様が立っていた。

 執務の合間なのだろう、首元のボタンを少し緩め、リラックスした様子だ。


「ええ。セバスチャンも、張り切っていますよ」


「……あいつには、苦労をかける」


 カイド様は庭を見下ろし、複雑な表情を浮かべた。


「だが、これが俺たちの選んだ道だ。……二度と、あのような悲劇を繰り返さないための」


「はい。彼もわかっています。だからこそ、誰よりも厳しく自分を律しているのでしょう」


 セバスチャンは決して休まない。

 それが、彼なりの贖罪なのだ。

 主人の信頼を裏切り、幼い子供たちを危険に晒した罪。

 それを一生背負いながら、この屋敷の新しいいしずえとなることを誓ったのだ。


 カイド様が私の隣に並び、手すりに手を置いた。

 その手が、そっと私の手に重ねられる。

 温かい。

 以前のような、触れることさえ躊躇うような冷たさはもうない。


「……子供たちは?」


「庭の奥で遊んでいますよ。見てください」


 私が指差すと、花壇の向こうから小さな影が二つ、飛び出してきた。


「パパ! ママ!」


 ルカとリナだ。

 二人は泥だらけになりながら、満面の笑みでこちらに手を振っている。

 その顔色は健康的で、頬は林檎のように赤い。

 以前の青白く痩せこけた姿は、もうどこにもない。


 カイド様の表情が、ふわりと緩んだ。

 氷の辺境伯と呼ばれた男が、ただの父親の顔になる瞬間。

 私はこの表情を見るのが好きだった。


「……降りていこう」


 カイド様が言った。


「約束したんだ。今日は剣の稽古をつけてやると」


「まあ。ルカ様は大喜びでしょうね」


 私たちはテラスを降り、庭へと向かった。

 芝生を踏む感触が心地よい。


 ルカが待ちきれない様子で駆け寄ってくる。

 その手には、木で作ったおもちゃの剣が握られていた。


「パパ! はやく! きょうこそパパにかつんだ!」


「ほう。大きく出たな」


 カイド様は屈み込み、ルカの視線に合わせた。

 もう、上から見下ろしたりはしない。

 膝を突き、泥に汚れることも厭わない。


「では、手加減なしで行くぞ。……ヴォルグ家の男なら、背中は見せるな」


「うん!」


 ルカが勇ましく剣を構える。

 もちろん、カイド様は指一本で相手をするつもりだろうけれど、その眼差しは真剣だ。

 子供扱いせず、一人の人間として向き合う。

 それが、彼が悩み抜いた末に見つけた「父親」としての在り方だった。


 リナは私のスカートに抱きついてきた。


「ママ、みててね。おにいちゃん、すごくつよくなったの」


「ええ、見ているわ。リナ様は私と一緒に応援しましょう」


 私はリナを抱き上げ、ベンチに腰を下ろした。

 少し重くなった気がする。

 ちゃんと食べて、ちゃんと育っている証拠だ。


 庭の中央で、親子二人の模擬戦が始まった。

 ルカが「やあ!」と掛け声を上げて突っ込む。

 カイド様はそれをひらりとかわし、優しく、しかし的確に指導を入れる。


「足元がお留守だ。……そうだ、そこだ」


 ルカが転んでも、カイド様はすぐに手を貸さない。

 「立て」と声をかけ、ルカが自分で立ち上がるのを待つ。

 そして立ち上がった息子を、大きな手で力強く撫でるのだ。


 かつて、その手は恐怖の対象だった。

 積み木を拾おうとしただけで、ルカが土下座して震えたあの手。

 それが今、信頼と愛情を伝えるための手になっている。


 マーサたちがいた頃の暗い記憶は、まだ完全に消えたわけではないかもしれない。

 ふとした瞬間に、子供たちが何かに怯えることもある。

 カイド様自身も、まだ自分の振る舞いに迷いを見せることがある。


 でも、大丈夫だ。

 私たちはもう、「見て見ぬふり」はしない。

 問題が起きれば立ち止まり、話し合い、一緒に乗り越えていく。

 共犯者として、家族として。


「……幸せだな」


 ふと、口からこぼれた。


 実家から売られ、契約上の妻としてここに来た日。

 こんな未来が待っているなんて、想像もしなかった。

 「愛することはない」と言われた夫と、心を通わせ。

 「空気として扱う」と決めたはずが、誰よりも深く関わり合っている。


 人生とは分からないものだ。

 だからこそ、面白い。


「ママ?」


 リナが不思議そうに私の顔を覗き込んだ。


「どうしたの? おなかいたいの?」


「ううん。……幸せだなって、思っただけよ」


 私はリナの頬にキスをした。

 甘い匂いがする。

 パンケーキと、日向の匂い。


 模擬戦が終わったようだ。

 息を切らせたルカを、カイド様が高々と抱き上げている。


「よくやった。筋がいいぞ」


「ほんとう!? パパみたいに、つよくなれる?」


「なれるさ。……俺よりも強くなれ」


 カイド様が笑った。

 太陽のような、眩しい笑顔だった。


 彼らがこちらへ歩いてくる。

 逆光の中で、そのシルエットが重なり、一つの大きな影を作る。

 私は立ち上がり、彼らを迎えるために手を広げた。


「お疲れ様でした。お茶の用意ができていますよ」


「ああ。喉が渇いた」


 カイド様がルカを下ろし、自然な動作で私の肩を抱き寄せた。

 人前でも、もう隠そうともしない。

 使用人たちが見ていようがお構いなしだ。

 「氷の辺境伯」は、すっかり「愛妻家のパパ」に溶けてしまったらしい。


「エレナ」


 彼が私の耳元で囁く。


「……これからも、頼む」


 不器用な言葉。

 でも、そこには万感の思いが込められていた。


「はい。……こちらこそ」


 私は彼を見上げ、微笑んだ。


 私たちは屋敷の中へと戻っていく。

 磨かれた床、新しく活けられた花々、そして活気のある使用人たちの声。

 すべてが新しく、輝いている。


 過去の傷跡は、新しいいしずえとなった。

 その上に築かれるのは、もう崩れることのない、本物の家族の城だ。


 扉が閉まる。

 けれど、その向こう側にある未来は、どこまでも明るく開けている。

 私たちの物語は、ここからまた始まるのだ。

 今度は、嘘も秘密もない、愛に満ちたページとして。


(完)


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