第10話 新しい礎
開け放たれた窓から、初夏の爽やかな風と共に、小鳥たちのさえずりが流れ込んでくる。
雪解け水が流れる音はもう聞こえない。
庭の木々は瑞々しい若葉を広げ、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
長く厳しかった北の地の冬が去り、ようやく本当の季節が巡ってきたのだ。
私はテラスに出て、眼下に広がる庭園を眺めた。
そこでは、新しいメイドたちが一列に並び、セバスチャンの指導を受けている最中だった。
「……背筋を伸ばしなさい。挨拶の角度は三十度。ヴォルグ家の使用人として、恥じぬ振る舞いを心がけるように」
セバスチャンの声は厳しく、しかし以前のような冷たさはなかった。
彼の背中は一回り小さくなったように見える。
減給と権限縮小の処分を受け、彼は今、新人教育係として一からやり直している最中だ。
かつては執務室で書類仕事ばかりしていた彼が、こうして現場に出て、泥臭く汗を流している。
「はいっ、セバスチャン様!」
フレッシュな返事が返ってくる。
新しく雇われた使用人たちは、地元の領民から選抜された者たちだ。
マーサの派閥に属していた者は一人残らず排除され、屋敷の空気は劇的に入れ替わった。
澱んでいた水が流れ出し、清流が注ぎ込まれたようだ。
「順調そうだな」
背後から低い声がした。
振り返ると、カイド様が立っていた。
執務の合間なのだろう、首元のボタンを少し緩め、リラックスした様子だ。
「ええ。セバスチャンも、張り切っていますよ」
「……あいつには、苦労をかける」
カイド様は庭を見下ろし、複雑な表情を浮かべた。
「だが、これが俺たちの選んだ道だ。……二度と、あのような悲劇を繰り返さないための」
「はい。彼もわかっています。だからこそ、誰よりも厳しく自分を律しているのでしょう」
セバスチャンは決して休まない。
それが、彼なりの贖罪なのだ。
主人の信頼を裏切り、幼い子供たちを危険に晒した罪。
それを一生背負いながら、この屋敷の新しい礎となることを誓ったのだ。
カイド様が私の隣に並び、手すりに手を置いた。
その手が、そっと私の手に重ねられる。
温かい。
以前のような、触れることさえ躊躇うような冷たさはもうない。
「……子供たちは?」
「庭の奥で遊んでいますよ。見てください」
私が指差すと、花壇の向こうから小さな影が二つ、飛び出してきた。
「パパ! ママ!」
ルカとリナだ。
二人は泥だらけになりながら、満面の笑みでこちらに手を振っている。
その顔色は健康的で、頬は林檎のように赤い。
以前の青白く痩せこけた姿は、もうどこにもない。
カイド様の表情が、ふわりと緩んだ。
氷の辺境伯と呼ばれた男が、ただの父親の顔になる瞬間。
私はこの表情を見るのが好きだった。
「……降りていこう」
カイド様が言った。
「約束したんだ。今日は剣の稽古をつけてやると」
「まあ。ルカ様は大喜びでしょうね」
私たちはテラスを降り、庭へと向かった。
芝生を踏む感触が心地よい。
ルカが待ちきれない様子で駆け寄ってくる。
その手には、木で作ったおもちゃの剣が握られていた。
「パパ! はやく! きょうこそパパにかつんだ!」
「ほう。大きく出たな」
カイド様は屈み込み、ルカの視線に合わせた。
もう、上から見下ろしたりはしない。
膝を突き、泥に汚れることも厭わない。
「では、手加減なしで行くぞ。……ヴォルグ家の男なら、背中は見せるな」
「うん!」
ルカが勇ましく剣を構える。
もちろん、カイド様は指一本で相手をするつもりだろうけれど、その眼差しは真剣だ。
子供扱いせず、一人の人間として向き合う。
それが、彼が悩み抜いた末に見つけた「父親」としての在り方だった。
リナは私のスカートに抱きついてきた。
「ママ、みててね。おにいちゃん、すごくつよくなったの」
「ええ、見ているわ。リナ様は私と一緒に応援しましょう」
私はリナを抱き上げ、ベンチに腰を下ろした。
少し重くなった気がする。
ちゃんと食べて、ちゃんと育っている証拠だ。
庭の中央で、親子二人の模擬戦が始まった。
ルカが「やあ!」と掛け声を上げて突っ込む。
カイド様はそれをひらりと豨し、優しく、しかし的確に指導を入れる。
「足元がお留守だ。……そうだ、そこだ」
ルカが転んでも、カイド様はすぐに手を貸さない。
「立て」と声をかけ、ルカが自分で立ち上がるのを待つ。
そして立ち上がった息子を、大きな手で力強く撫でるのだ。
かつて、その手は恐怖の対象だった。
積み木を拾おうとしただけで、ルカが土下座して震えたあの手。
それが今、信頼と愛情を伝えるための手になっている。
マーサたちがいた頃の暗い記憶は、まだ完全に消えたわけではないかもしれない。
ふとした瞬間に、子供たちが何かに怯えることもある。
カイド様自身も、まだ自分の振る舞いに迷いを見せることがある。
でも、大丈夫だ。
私たちはもう、「見て見ぬふり」はしない。
問題が起きれば立ち止まり、話し合い、一緒に乗り越えていく。
共犯者として、家族として。
「……幸せだな」
ふと、口からこぼれた。
実家から売られ、契約上の妻としてここに来た日。
こんな未来が待っているなんて、想像もしなかった。
「愛することはない」と言われた夫と、心を通わせ。
「空気として扱う」と決めたはずが、誰よりも深く関わり合っている。
人生とは分からないものだ。
だからこそ、面白い。
「ママ?」
リナが不思議そうに私の顔を覗き込んだ。
「どうしたの? おなかいたいの?」
「ううん。……幸せだなって、思っただけよ」
私はリナの頬にキスをした。
甘い匂いがする。
パンケーキと、日向の匂い。
模擬戦が終わったようだ。
息を切らせたルカを、カイド様が高々と抱き上げている。
「よくやった。筋がいいぞ」
「ほんとう!? パパみたいに、つよくなれる?」
「なれるさ。……俺よりも強くなれ」
カイド様が笑った。
太陽のような、眩しい笑顔だった。
彼らがこちらへ歩いてくる。
逆光の中で、そのシルエットが重なり、一つの大きな影を作る。
私は立ち上がり、彼らを迎えるために手を広げた。
「お疲れ様でした。お茶の用意ができていますよ」
「ああ。喉が渇いた」
カイド様がルカを下ろし、自然な動作で私の肩を抱き寄せた。
人前でも、もう隠そうともしない。
使用人たちが見ていようがお構いなしだ。
「氷の辺境伯」は、すっかり「愛妻家のパパ」に溶けてしまったらしい。
「エレナ」
彼が私の耳元で囁く。
「……これからも、頼む」
不器用な言葉。
でも、そこには万感の思いが込められていた。
「はい。……こちらこそ」
私は彼を見上げ、微笑んだ。
私たちは屋敷の中へと戻っていく。
磨かれた床、新しく活けられた花々、そして活気のある使用人たちの声。
すべてが新しく、輝いている。
過去の傷跡は、新しい礎となった。
その上に築かれるのは、もう崩れることのない、本物の家族の城だ。
扉が閉まる。
けれど、その向こう側にある未来は、どこまでも明るく開けている。
私たちの物語は、ここからまた始まるのだ。
今度は、嘘も秘密もない、愛に満ちたページとして。
(完)
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