第2話 幽霊屋敷
窓の外では、風がごうごうと唸り声を上げていた。
北の地の風は重く、屋敷の石壁を叩く音もどこか鈍い。
時折、窓ガラスがガタガタと震え、まるで何かが侵入しようとしているかのような錯覚を覚えさせる。
ヴォルグ辺境伯邸に来てから、三日が過ぎた。
広い屋敷の中は、不気味なほどに静まり返っている。
使用人たちは影のように気配を消して動き、必要最低限の言葉しか発しない。
廊下ですれ違っても、彼らは私に一礼するだけで、すぐに視線を逸らして立ち去ってしまう。
まるで、関わってはいけないものを見るかのように。
「……暇ね」
私は西棟の廊下を、あてもなく歩いていた。
部屋の掃除は初日に終わってしまったし、持ち込んだ刺繍道具も、寒さで指がかじかんでうまく扱えない。
食事は部屋に運ばれてくるけれど、いつも冷めているし、味気ないものばかりだ。
カイド様からの呼び出しはない。
執事の言葉通り、彼は私を完全に放置するつもりのようだ。
それは望んだ通りの平穏な生活だけれど、さすがに部屋に籠りきりでは気が滅入る。
「少し、探検でもしようかしら」
カイド様には「執務室と東棟以外なら歩いていい」と言われている。
私はショールを肩に巻き直し、西棟から続く長い廊下を進んだ。
本邸の中央部分は吹き抜けのホールになっていて、そこを越えると東棟へ続く渡り廊下が見える。
あちら側は立ち入り禁止区域だ。
主人の私室や、重要な部屋があるのだろう。
私は西棟の奥、使用人たちが頻繁に出入りしている一角へ足を向けた。
厨房やリネン室があるエリアだろうか。
人の気配が少しでもあれば、この窒息しそうな閉塞感も紛れるかもしれない。
その時だった。
「……やだ」
「……こわい」
微かな声が聞こえた。
風の音にかき消されそうなほど小さな、子供の声だ。
私は足を止めた。
空耳だろうか?
この屋敷に子供がいるなんて話は聞いていない。
カイド様は二十八歳で、前妻を亡くしていると聞いたけれど、子供がいたという情報は……。
いや、待って。
実家にいた頃、継母たちが噂話をしていたのを思い出した。
『辺境伯には双子の子供がいるらしいけど、社交界には一度も顔を出さないんですって』
『どうせ、母親似で体が弱いか、人前に出せない理由があるんじゃないの?』
あれはただの意地悪な憶測だと思っていたけれど。
「……あっち、いって」
また聞こえた。
今度ははっきりと、拒絶の響きを含んでいる。
声は、廊下の突き当たりにある扉から漏れていた。
塗装が剥げかけ、少し建て付けが悪そうな扉だ。
私は吸い寄せられるようにその前まで歩き、耳を澄ませた。
「……さま、わがままをおっしゃらないでください」
大人の女性の声だ。
抑揚がなく、事務的で冷たい響き。
「これを食べていただかないと、食器を下げられません。厨房の者も忙しいのです」
「……いらない」
「おいしくない……つめたい……」
「贅沢を言わないでください。旦那様がお聞きになったら、また厳しく叱られますよ」
ガチャン、と食器が乱暴に置かれる音がした。
私の心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
前世の記憶が警鐘を鳴らしている。
この会話の空気感、子供の怯え方、大人の高圧的な態度。
保育士として働いていた頃、虐待が疑われる家庭訪問で感じた、あの独特の重苦しさに似ていた。
(関わっちゃダメよ、エレナ)
理性が私を引き留める。
私はただの「契約上の妻」だ。
しかも、実家から売られてきた悪評高い女。
余計な首を突っ込めば、平穏な生活は一瞬で崩れ去る。
見なかったことにして、部屋に戻るべきだ。
でも、足が動かなかった。
「こわい」という震える声が、耳にこびりついて離れない。
私は迷いを振り切るように、ノックもせずに扉を開けた。
「失礼します」
部屋の中の空気が凍りついた。
そこは、お世辞にも「貴族の子供部屋」とは呼べない惨状だった。
窓は閉め切られ、カーテンは埃を被って薄汚れている。
暖炉には火が入っておらず、部屋全体が冷蔵庫のように寒い。
床には積み木や絵本が散乱し、片付けられた形跡がない。
そして部屋の中央にある小さなテーブルに、二人の子供が身を寄せ合うようにして座っていた。
五歳くらいの、男の子と女の子だ。
カイド様と同じ漆黒の髪に、青い瞳。
間違いなく、彼の子供たちだ。
けれど、その瞳には光がなく、痩せた頬は青白い。
二人の前には、銀のトレーに載せられた食事が置かれていた。
油が白く浮いたスープ。
カチカチに硬そうなパン。
干からびた野菜の付け合わせ。
湯気など、どこにも立っていない。
「……誰ですか」
子供たちの前に立っていたメイドが、私を振り返った。
三十代半ばだろうか、きつく結い上げた髪が印象的な女性だ。
彼女は私を見ると、露骨に眉をひそめた。
「奥様……でございますか。ここは子供部屋です。許可なく入られては困ります」
丁寧な言葉遣いだが、そこには明確な敵意と侮蔑が含まれていた。
『金で買われた悪女風情が』という心の声が聞こえてきそうだ。
私は彼女の態度を無視して、ツカツカとテーブルに歩み寄った。
子供たちがビクリと体を震わせ、互いに抱き合うようにして身を引く。
その反応だけで、彼らが普段どう扱われているかが分かってしまった。
「これは、何?」
私はスープ皿を指差して尋ねた。
指先で触れるまでもない。見ただけでわかる。完全に冷え切っている。
「子供様方の昼食ですが」
メイドは悪びれもせずに答えた。
「なぜ、こんなに冷たいの?」
「配膳の時間になっても、あの方々が遊びに夢中で席に着かなかったからです。自業自得でございましょう。躾のために、温め直しはしない決まりですので」
「躾?」
私は思わず聞き返した。
こんな北国の、暖炉もついていない極寒の部屋で、冷え切った油浮きスープを飲ませることが躾?
「ええ。旦那様のご方針です。『ヴォルグ家の人間は甘やかしてはならない』と。強く育てるためには、多少の厳しさは必要ですから」
メイドは胸を張って言った。
まるで、自分が正しい教育者であるかのように。
ふざけるな。
私の中で、何かがプツンと切れた音がした。
前世の私が叫んでいる。
今の私の、これまでの人生で溜め込んできた鬱屈も混ざり合って、どす黒い怒りとなって噴き出す。
虐げられる痛みなら、私は誰よりも知っている。
理不尽な理由で食事を抜かれ、寒い部屋に追いやられる惨めさを、私は骨の髄まで知っている。
大人相手ならまだいい。
でも、この子たちはまだ五歳だ。
守られるべき、小さな命だ。
「……すぐに下げなさい」
私の声は、自分でも驚くほど低く響いた。
「は?」
「この食事を下げてと言っているの。こんなゴミみたいなもの、食べさせられるわけがないでしょう」
メイドが目を見開いた。
私が反論するとは思っていなかったのだろう。
「ゴミとは聞き捨てなりませんね。これは料理長が作ったもので……」
「冷え切って油が固まったスープは、ただの汚水よ。こんなものを飲ませて、もしお腹を壊したら責任を取れるの?」
私は子供たちの前に立ち、メイドとの視線を遮った。
背後の子供たちが、私のドレスの裾を不安そうに見つめている気配がする。
「躾というなら、まずは環境を整えるのが先でしょう。見て、この部屋の寒さを。暖炉に薪もくべずに、子供を風邪ひかせるつもり? それとも、この子たちが病気になれば、あなたたちの仕事が減って楽になるとでも思っているの?」
「なっ……! 無礼な! 私たちは旦那様の命令に従って……」
「旦那様が、『子供たちを凍えさせろ』と命令したの?」
私が畳み掛けると、メイドは言葉を詰まらせた。
カイド様がそんな具体的な命令をするはずがない。
彼は無関心なだけだ。
そして、その無関心につけ込んで、このメイドたちは手抜きをしている。
「厳しさ」という言葉を隠れ蓑にして、面倒な世話を放棄しているだけだ。
「……新しい奥様は、随分と口がお達者なようですね」
メイドは顔を赤くし、睨みつけてきた。
「ですが、教育方針に口出しされては困ります。旦那様は、奥様には屋敷のことに口を出させるなと仰っていましたが」
「ええ、言われたわ。でもね」
私は一歩前に出た。
身長差はないけれど、気迫で押し勝つ。
かつて保育園で、理不尽なモンスターペアレントから子供たちを守った時の強気が蘇る。
「これは『屋敷の管理』じゃないわ。『人道的な問題』よ。もしこの子たちが栄養失調や凍死でもしたら、辺境伯家の恥になるのは誰かしら? 管理を任されているあなたたちメイド長や執事じゃない?」
メイドの視線が揺らいだ。
保身。その一点を突かれれば、彼女たちは弱い。
「……わかりました。下げればいいのでしょう、下げれば」
彼女は舌打ちせんばかりの態度で、乱暴にトレーを取り上げた。
ガチャガチャと食器が鳴り、スープが少しこぼれる。
「代わりのものをご用意すればよろしいのですか? ですが、厨房も今は休憩時間でしてね。すぐには……」
「いらないわ」
私はきっぱりと言い放った。
どうせまた、嫌がらせのような食事が出てくるに決まっている。
「私が作るから、厨房を貸してちょうだい。それと、この部屋にすぐ薪を持ってきて。あと毛布も。五分以内にね」
「奥様が料理などと……」
「五分よ。遅れたら、旦那様に『使用人が職務怠慢で子供を殺そうとしている』って直訴しに行くわ」
私が執務室の方角を指差すと、メイドは青ざめた顔で部屋を飛び出していった。
バタン、と扉が閉まる。
再び、静寂が戻った。
でも、さっきまでの凍りついたような空気とは少し違う。
私の荒い息遣いと、子供たちの小さな呼吸音が重なっていた。
やってしまった。
完全に、一線を越えてしまった。
平穏なニート生活は、これで終わりだ。
あのメイドは間違いなく、執事や他の使用人に私を悪く吹聴するだろう。
カイド様の耳に入れば、契約違反だと責められるかもしれない。
でも、後悔はなかった。
私はゆっくりと振り返り、しゃがみ込んだ。
目線の高さを、子供たちに合わせる。
二人は、まだ警戒したように私を見ていた。
男の子の方が、女の子を庇うように前に出ている。
その瞳は怯えているけれど、どこか理知的な光があった。
「……怖がらせてごめんね」
私は努めて柔らかい声を出した。
保育士モードの声だ。
「私はエレナ。あなたたちの新しい……お母さん、になる予定の人よ」
お母さん、という言葉に、二人の肩がピクリと跳ねた。
「おなかすいたでしょう? あんな冷たいスープより、もっと温かくて美味しいものを作ってあげる。パンケーキって知ってる?」
「……ぱんけーき?」
女の子の方――リナだろうか――が、ポツリと呟いた。
初めて聞いた言葉のようだ。
無理もない。この世界の中世レベルの食文化では、子供向けの甘いお菓子なんて希少だ。
「うん。ふわふわで、甘くて、とっても美味しいのよ。一緒に食べましょう」
私は笑ってみせた。
まだ完全に心を許してはいないけれど、食欲という本能には勝てないはずだ。
男の子――ルカ――が、じっと私を見つめている。
その瞳は、父親であるカイド様によく似ていた。
すべてを見透かすような、冷たくて鋭い瞳。
でも、今の私には恐ろしくなかった。
だって、この子たちはただ、寂しくてお腹が空いているだけの、五歳の子供なのだから。
(待っててね、カイド様)
私は心の中で、あの冷徹な夫に向かって宣戦布告をした。
(あなたの子供たちは、私が勝手に幸せにさせてもらいます。文句は言わせないわ)
平穏な生活は諦めた。
その代わり、私は新しい目的を見つけたのだ。
この「幽霊屋敷」のような場所を、人間が住む場所に変えてみせる。
まずは、この子たちの胃袋を掴むところからだ。




