第7話 氷の断罪
「まだ言い逃れをするつもりか」
地下牢の冷たい石壁に、カイド様の低い声が反響した。
鉄格子の中には、かつて我が物顔で屋敷を闊歩していたマーサたちが押し込められている。
豪奢なメイド服は汚れ、整えられていた髪は乱れ、その表情には疲労と恐怖が貼り付いていた。
一晩の尋問によって、彼女たちの嘘はすべて剥がれ落ちていた。
「だ、旦那様……信じてくださいまし。わたくしは、ただ子供様のために……」
マーサは鉄格子にしがみつき、枯れた声で懇願を繰り返している。
しかし、その瞳は泳ぎ、カイド様の視線を直視できていない。
「子供のため、か」
カイド様は冷ややかに鼻を鳴らし、セバスチャンから手渡された書類を掲げた。
「昨晩の調査で、王都の闇金業者との取引記録が見つかった。お前が横領した金の一部は、そこへ流れているようだが? ……ギャンブルの借金返済が、子供のための教育費だと言うのか」
「あ……」
マーサが口を開けたまま凍りつく。
決定的な証拠だった。
彼女は私腹を肥やすだけでなく、自身の遊興費のために子供たちの食事を削り、暖房を切り、衣服を奪っていたのだ。
その事実は、単なる横領以上に、カイド様の逆鱗に触れるものだった。
「もはや弁解の余地はない」
カイド様は書類を部下に渡し、冷徹な瞳でマーサを見下ろした。
そこにあるのは、長年仕えた使用人への情などではない。
領地の法を犯し、主家を裏切った罪人を見る、統治者の目だった。
「マーサ・ベルンシュタイン。貴様を業務上横領、詐欺、および傷害の罪で告発する」
宣告が下された瞬間、マーサは崩れ落ちた。
「そ、そんな……わたくしは、このヴォルグ家に人生を捧げて……」
「捧げたのは欲望だろう。ヴォルグ家の名を汚し、幼い子供を虐げた貴様に、慈悲を与えるつもりはない」
カイド様は衛兵たちに顎で合図を送った。
「連れて行け。領法に基づき、裁判所へ引き渡す。……極めて悪質な事案だ。実刑は免れまい」
ガチャリ、と重い足枷が嵌められる音が響く。
「いやぁぁぁ! 旦那様! お許しを! 牢獄など嫌です! 誰か、誰か助けてぇ!」
マーサの絶叫が地下廊下に木霊する。
彼女の取り巻きだったメイドたちも、同様に連行されていく。
泣き叫ぶ者、呆然とする者、互いに罪をなすりつけ合う者。
その醜悪な姿は、かつて彼女たちが子供たちに向けていた冷酷さの裏返しだった。
私はカイド様の隣で、その光景を静かに見届けていた。
胸がすくような思いはない。
ただ、淡々とした「処理」が終わったという安堵感だけがあった。
これで、物理的な害悪は排除された。
最後の罪人が連れ出され、鉄格子の中に静寂が戻る。
カイド様は深く息を吐き、眉間を揉んだ。
「……終わったな」
「ええ。お疲れ様でした」
私が声をかけると、彼は自嘲気味に笑った。
「疲れる資格などない。……だが、これで少しは空気が綺麗になるだろう」
彼は踵を返し、地上へと続く階段を上り始めた。
その足取りは重いが、迷いはなかった。
執務室に戻ると、そこにはセバスチャンと、数名の主要な使用人たちが待機していた。
彼らは一様に顔色が悪く、緊張で強張っている。
特にセバスチャンは、やつれ切っていた。
徹夜の調査と、自らの過ちに対する心労で、一気に十年ほど老け込んだように見える。
「旦那様。……処分者の引き渡し、完了いたしました」
セバスチャンが深々と頭を下げる。
その声は震えていた。
「うむ。ご苦労だった」
カイド様はデスクの椅子に座らず、立ったまま彼らを見据えた。
「さて。次は残った者たちの処分だ」
部屋の空気が張り詰める。
直接的な悪事に関わっていなくとも、この屋敷の腐敗を見過ごしていた責任は誰にでもある。
「セバスチャン」
「はっ」
執事が進み出て、床に膝を突いた。
「お前には、マーサの暴走を許し、長年にわたり不正を見逃した管理責任がある。……その罪は重い」
「はい。弁明の言葉もございません。……いかなる罰も甘んじてお受けいたします」
セバスチャンは額を床に擦り付けた。
解雇、あるいは追放。
彼ほどの古参であれば、それなりの功績もあったはずだが、今回の失態はそれを帳消しにして余りある。
カイド様はしばし沈黙し、窓の外を見やった。
そして、静かに告げた。
「減給三割。および、半年間の権限縮小を命じる」
セバスチャンが顔を上げた。
驚きのあまり、言葉が出てこないようだった。
「……か、解雇では……ございませんか?」
「首を切るのは簡単だ。だが、それでは誰がこの屋敷を立て直す?」
カイド様は厳しい眼差しで執事を見下ろした。
「新しい使用人を雇い、教育し、以前よりも強固で透明性のある組織を作る。……それがお前に課す罰だ。逃げることは許さん」
それは、死ぬよりも辛い茨の道かもしれない。
信頼を失った状態から、再び這い上がらなければならないのだから。
けれど、セバスチャンの瞳には涙と共に、新たな光が宿っていた。
「……有難き幸せ。この身が朽ち果てるまで、滅私奉公いたします」
「他の者たちも同様だ」
カイド様は室内にいる使用人たちを見渡した。
「見て見ぬふりをした者、声を上げられなかった者。全員に連帯責任としての減給を科す。……不服がある者は、今すぐ去れ」
誰一人として動かなかった。
全員が深く頭を下げ、主人の温情と厳しさを受け入れた。
「よい。……直ちに業務に戻れ。屋敷中の掃除だ。物理的にも、精神的にもな」
「はっ!」
使用人たちが一礼し、足早に退室していく。
最後にセバスチャンが、私とカイド様に深く一礼し、扉を閉めた。
静寂が戻った執務室で、カイド様はドサリと椅子に座り込んだ。
大きな溜息をつき、天井を仰ぐ。
「……甘かったか」
独り言のように呟く。
「セバスチャンまで切れば、屋敷が回らなくなる。……こちらの都合で罰を軽くしたと言われても仕方がない」
「いいえ。適切な判断だと思います」
私は彼のそばに歩み寄り、冷めてしまった紅茶を新しいものに淹れ替えた。
「彼らは痛みを共有しました。一度過ちを犯し、それを許された人間は、二度と同じ過ちを繰り返さないよう必死になります。……新しい人を雇うより、ずっと強固な忠誠心を得られるはずです」
「……そうだといいがな」
カイド様はカップを受け取り、一口だけ口をつけた。
「これで、膿は出し切った。……外側はな」
彼の視線が、ふと子供部屋のある方向へと向けられた。
その瞳には、まだ深い憂いが残っている。
そう。
屋敷の掃除は終わった。
悪人は去り、組織は再編された。
けれど、最も重要な問題は未解決のままだ。
子供たちの心。
そして、父親との断絶された関係。
「……あいつらは、まだ俺を怖がっているだろうか」
弱気な問いかけ。
最強の武人である彼が、たった五歳の子供の反応に怯えている。
「怖がっていますよ」
私は嘘をつかずに答えた。
ここで慰めるのは優しさではない。
「恐怖は、マーサがいなくなったからといって、すぐに消えるものではありません。あの子たちの中では、まだ『パパ』と『痛み』が結びついているのですから」
「……そうだな」
カイド様は苦しげに顔を歪めた。
「俺は……どうすればいい。何を言っても、言い訳にしか聞こえない気がする」
「言葉はいりません。必要なのは、態度です」
私は彼の手を取り、強く握りしめた。
「領主としての裁きは終わりました。次は、父親としての責任を果たしてください。……プライドも、立場も、すべて捨てて」
カイド様が私を見る。
その瞳が揺れ、やがて静かな決意の色へと変わっていく。
「……ああ。わかっている」
彼は立ち上がった。
その背中は、罪人を断罪した時の冷徹な統治者ではなく、過ちを悔い、許しを請おうとする一人の父親のものだった。
「行こう、エレナ。……子供たちのところへ」
私たちは部屋を出た。
廊下は静まり返っているが、昨日までの淀んだ空気とは違う。
窓から差し込む光が、磨かれた床に反射して輝いている。
長い冬が終わり、本当の春が来ようとしている。
けれどその前に、私たちは最後にして最大の難関を越えなければならない。
凍りついた心を溶かすのは、法でも正義でもなく、ただ愚直なまでの誠意だけなのだから。




