第6話 大掃除の開始
私は重厚な扉をゆっくりと押し開け、張り詰めた空気が漂う大広間へと足を踏み入れた。
広間には、この屋敷で働くすべての使用人が集められていた。
その数、およそ五十名。
彼らは整列し、俯いて主人の登場を待っているが、その表情には不安と困惑が滲んでいる。
部屋の四隅と扉の前には、武装した警備兵が立ち、鋭い視線で彼らを監視していた。
もはや業務連絡の場ではない。
これは、査問会だ。
私の隣には、漆黒の礼服に身を包んだカイド様がいる。
その表情は能面のように硬く、瞳には絶対零度の冷徹さが宿っていた。
かつて戦場で「氷の辺境伯」と恐れられた威圧感が、肌を刺すように放出されている。
「……全員、揃っているな」
カイド様が低い声で問うた。
広間の空気が一瞬にして凍りつく。
「はい、旦那様。休暇中の者も含め、一人残らず召集いたしました」
答えたのは、カイド様の一歩後ろに控えるセバスチャンだ。
彼の顔色は悪い。
徹夜で調査を進めた疲労と、自らの恥部を晒す苦渋で頬がこけている。
けれど、その背筋は剣のように真っ直ぐ伸びていた。
カイド様は上座に置かれた椅子に腰を下ろし、私はその隣に立った。
使用人たちの視線が、一斉に私たちに注がれる。
その中には、メイド長のマーサもいた。
彼女は最前列の中央に立っていた。
他のメイドたちが怯える中、彼女だけは涼しい顔で、慇懃な笑みさえ浮かべている。
長年、この屋敷の裏側を支配してきた自負があるのだろう。
「旦那様、このような仰々しい真似をなされて、一体どうされましたの?」
マーサが進み出て、恭しく一礼した。
その声は滑らかで、少しも悪びれた様子がない。
「我々は日々の業務に追われております。理由もなく拘束されては、屋敷の運営に支障が出ますわ」
「支障か」
カイド様は鼻で笑った。
その笑みに温度は欠片もない。
「安心しろ。お前たちが担っていた『業務』とやらは、今後一切必要ない」
「……はい?」
「単刀直入に言おう。この屋敷で行われていた不正について、すべて精算してもらう」
カイド様の合図で、セバスチャンが一歩前に出た。
彼の手には、昨日私たちが精査した帳簿と、一晩かけて集めた証拠書類の束が抱えられている。
「マーサ・ベルンシュタイン。および、その派閥に属する十名の者たち」
セバスチャンが静かに、しかしよく通る声で名前を読み上げた。
名を呼ばれた使用人たちが、ビクリと肩を震わせる。
「あなた方には、長年にわたる予算の横領、帳簿の改ざん、そして……ヴォルグ家のご子息、ご息女に対する虐待の容疑がかかっています」
広間がどよめいた。
事情を知らない下働きの者たちが、驚愕の目でマーサたちを見る。
しかし、マーサは眉一つ動かさなかった。
「人聞きの悪い。横領などと……何かの間違いではございませんか?」
彼女はため息をつき、呆れたように首を振った。
「わたくしどもは、亡き前妻様の遺志を継ぎ、お子様方を厳しく、立派に育てようと尽力してまいりました。予算につきましても、必要な教育や環境整備に使わせていただいたはずです」
「教育?」
私が口を挟むと、マーサは鬱陶しそうに私を一瞥した。
「ええ、そうでございます。新しい奥様にはご理解いただけないかもしれませんが、名門貴族の教育とはお金がかかるものなのです」
「そうね。お金はかかるわ」
私はセバスチャンから書類の一部を受け取り、マーサの前に放り投げた。
バサリと散らばった紙片には、架空の領収書や、高価な装飾品の購入履歴が記されている。
「でも、これは教育費じゃないわね。……王都の宝石店からの請求書よ。宛名はあなたの個人名になっているわ」
マーサの表情が、ほんの少しだけ強張った。
「それは……お子様方の将来のために、資産として購入しておいたもので……」
「嘘をおっしゃい!」
私の怒号が響いた。
マーサが目を丸くする。
「資産? ルカ様とリナ様が寒さに震え、空腹で泣いている時に、あなたは自分の首を宝石で飾り立てていたのでしょう! それが『前妻様の遺志』だと言うのなら、随分と歪んだ忠誠心ね!」
「なっ……無礼な! ポッと出の後妻ごときが、わたくしに指図を……!」
マーサが激昂し、本性を露わにした。
彼女にとって、私はただの成り上がり、目障りな他所者でしかなかったのだ。
「控えろ」
カイド様の声が、雷鳴のように轟いた。
彼は立ち上がり、マーサを見下ろした。
その瞳には、もはや慈悲など微塵もない。
「俺の妻に対する侮辱は、俺への侮辱だ。……それに、証拠はこれだけではない」
カイド様が顎でしゃくると、セバスチャンが次の証拠を提示した。
「昨晩、マーサの部屋を捜索させていただきました。床下から、隠し金庫が見つかっております」
「な……!?」
マーサの顔から、ようやく余裕が消え失せた。
「中には多額の現金と、横流しするために抜き取られた屋敷の備品、そして……裏帳簿が入っておりました」
セバスチャンが黒革のノートを掲げた。
それを見た瞬間、マーサの背後にいた数人のメイドが、悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
言い逃れようのない、決定的な証拠だ。
「そ、それは……わたくしのものでは……誰かが勝手に……!」
マーサは狼狽し、必死に弁解しようとする。
しかし、その言葉はあまりにも空虚だった。
「見苦しいぞ」
セバスチャンが冷たく告げた。
かつての同僚に向ける視線は、哀れみと軽蔑に満ちていた。
「私も同罪だ。お前たちの悪事に気づかず、管理を怠った。……だからこそ、これ以上お前たちにヴォルグ家の名を汚させるわけにはいかない」
「セバスチャン……あなた、裏切るの!? 私たちはずっと一緒にやってきたじゃない!」
「裏切ったのはお前だ、マーサ。旦那様の信頼を、そしてあの方々の未来を」
セバスチャンの言葉は重く、鋭利な刃となってマーサを貫いた。
マーサは唇をわななかせ、救いを求めるようにカイド様を見た。
長年仕えてきた情に訴えかけようとしたのかもしれない。
「だ、旦那様……わたくしはただ、魔が差しただけで……今まで尽くしてきた忠誠に免じて、どうか……」
「忠誠だと?」
カイド様は一歩、彼女に近づいた。
その威圧感に、マーサは後ずさり、床に尻餅をついた。
「俺の子供を虐待し、恐怖を植え付け、私利私欲のために食い物にしたことが、忠誠なのか?」
「ひっ……!」
「昨日、ルカが俺を見て土下座をした。……あれは、お前が教え込んだことだな?」
カイド様の声が震えていた。
怒りだけではない。
自分の子供が受けた仕打ちを想像し、腸が煮え繰り返るような思いをしているのだ。
「物を落とせば殴り、泣けば暗い部屋に閉じ込め、父親に助けを求めないように脅しつけた。……そうだな?」
「ち、違います……躾の一環で……少し厳しく……」
「黙れ!!」
カイド様の怒号が、広間の窓ガラスを震わせた。
「躾という言葉で正当化するな! 貴様らがやったことは拷問だ! 幼い子供の心を壊し、親子の絆を引き裂いた万死に値する大罪だ!」
マーサは言葉を失い、ガタガタと震え出した。
彼女の周りにいた取り巻きたちも、顔面蒼白で平伏している。
私はその醜い姿を、冷ややかな目で見下ろしていた。
同情の余地などない。
彼女たちは「氷の辺境伯」の威光を笠に着て、弱者を蹂躙し、贅沢を貪っていた寄生虫だ。
その罪の重さを、今ここで自覚させてやらなければならない。
「セバスチャン」
私が呼ぶと、執事は深く頷いた。
「不正に関与した者のリストは?」
「こちらに。マーサを含め、十一名。……全員、逃れようのない証拠が揃っております」
「そう。……では、続きは地下牢で聞きましょうか」
私が告げると、マーサは絶望に染まった顔で私を見上げた。
「ち、地下牢……? わたくしは貴族の使用人として……解雇ならまだしも、投獄など……」
「勘違いしないで」
私は冷たく笑いかけた。
かつて彼女が、子供たちに向けたであろう嘲笑をそのまま返してやる。
「これは『解雇』なんて生温い処分では終わらせないわ。横領も虐待も、立派な犯罪よ。法の裁きを受けてもらうわ」
カイド様が警備兵たちに合図を送った。
兵士たちが一斉に動き、マーサたちを取り囲む。
「連れて行け。……一人残らずだ」
「いやぁぁぁ! 離して! 旦那様、お待ちください! わたくしは前妻様のために……!」
マーサの絶叫が広間に響き渡る。
しかし、誰も助けようとはしなかった。
事情を知らなかった他の使用人たちも、明らかになった悪事の数々に顔をしかめ、軽蔑の眼差しを向けている。
引きずられていくマーサの背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
胸がすくような爽快感はない。
あるのは、泥沼を歩き終えた後のような疲労感と、人間への深い失望だけだ。
けれど、これで終わりではない。
膿は出した。
次は、その傷跡を塞がなければならない。
私はチラリとカイド様を見た。
彼はまだ、険しい顔で扉の方を睨みつけている。
その拳は白くなるほど握りしめられ、微かに震えていた。
彼自身の戦い――「氷の断罪」は、まだ終わっていないのだ。
法的な処罰を下し、組織を再建し、そして何より……傷ついた子供たちに顔向けできる自分を取り戻さなければならない。
大掃除は始まったばかりだ。
埃一つ残さず、この屋敷をきれいにするまでは。




