第2話 剥がれた嘘
私は分厚い革表紙の帳簿を、バンと音を立てて机の上に広げた。
インクと古紙の匂いが舞い上がる。
カイド様の執務室には、普段とは違う種類の緊張感が漂っていた。
机の上には、過去五年分の「奥向き」に関する出納帳が山積みになっている。
これらはすべて、セバスチャンに命じて書庫の奥から引っ張り出させたものだ。
「……奥様。これほど古い記録まで遡る必要が、本当にあるのでしょうか」
傍らに控えるセバスチャンが、困惑したように声をかけた。
彼の手には、まだ埃をかぶったままの帳簿の束が抱えられている。
「あるわ。むしろ、これでも足りないくらいよ」
私はページを捲る手を止めずに答えた。
視線は数字の羅列を追う。
日付、費目、金額、承認印。
整然と並ぶ文字は、一見すると何の問題もない、完璧な会計記録に見える。
けれど、私は知っている。
この数字の裏にある「現実」を。
「セバスチャン。昨年の冬、子供部屋に支給された『薪』の量はどれくらいだと記憶している?」
「は……確か、暖炉二つ分を一日中焚けるだけの量を、毎日運ばせていたはずです。帳簿にもそのように記載がございます」
セバスチャンが該当箇所を指し示した。
そこには確かに、『最高級白樺薪・三十束』と記され、相応の金額が計上されている。
私は冷たく笑った。
「そうね。書類上はね」
脳裏に蘇るのは、私が初めてあの部屋に入った時の光景だ。
冷蔵庫のように冷え切った空気。
火の気のない暖炉。
薄い毛布一枚で身を寄せ合い、震えていたルカとリナ。
「でも実際には、薪なんて一本もなかったわ」
「なっ……」
セバスチャンが息を飲む。
「私がメイドたちを脅して運ばせるまで、あの子たちは凍えていたのよ。それなのに、ここには『毎日三十束』と書いてある。……この差額はどこへ消えたのかしら?」
「そ、それは……現場のメイドたちが、運ぶのを怠ったのでは……」
「怠慢で済む話ではないわ。物が消えているのよ」
私は次のページを捲った。
食費の項目だ。
『滋養強壮のための特製スープ・食材一式』
『仔牛のフィレ肉』
『新鮮な果物』
素晴らしいメニューだ。
これだけのものを食べていれば、あんなに痩せ細るはずがない。
実際に出てきたのは、油の浮いた冷たい残り汁と、硬いパンだけだったのに。
「衣服費も見てちょうだい。『正絹の肌着』『羊毛のコート』……あの子たちが着ていたのは、サイズも合わないツギハギだらけの古着だったわ」
私の指先が震える。
寒さからではない。
体の奥底から湧き上がる、どす黒い怒りのせいだ。
これは、ただの「無関心」や「手抜き」ではない。
明確な悪意を持って行われた、組織的な犯罪だ。
カイド様は執務に忙殺され、家政に関してはメイド長であるマーサに一任していた。
セバスチャンもまた、領地経営という「外」の仕事にかまけて、「内」の管理をマーサに丸投げしていた。
その隙を、彼らは突き、食い物にしたのだ。
主人の目が届かないのをいいことに、子供たちの分を極限まで削り、その予算を懐に入れていた。
「……ありえない」
セバスチャンの顔から血の気が引いていく。
彼はようやく事態の深刻さを理解し始めたようだ。
「私は……マーサからの報告書を信じて……毎月、決裁印を……」
「ええ。あなたは信じた。そして、確かめもしなかった」
私は厳しい口調で告げた。
セバスチャンは有能な執事だ。
だが、その有能さは「主人の命令を忠実に実行する」という一点に特化しすぎていた。
カイド様が子供に関心を持たなかったから、彼もまた、子供部屋を優先順位の最下位に置いたのだ。
「申し訳……ございません……」
セバスチャンが膝をつき、床に手をついた。
その背中は小さく震えている。
「謝罪は後で結構よ。今は事実を固めるのが先」
私は感情を押し殺し、さらに調査を進めた。
ページをめくるたびに、嘘が剥がれ落ちていく。
玩具の購入費。
家庭教師への謝礼。
医師による定期検診費。
すべて架空だ。
そんなものは存在しなかった。
子供部屋には壊れた積み木しかなかったし、誰も教えに来なかったし、医者が来た形跡もない。
特に酷いのは、ここ数年の記録だ。
カイド様が遠征で長く不在にする時期ほど、支出の額が跳ね上がっている。
主人がいない解放感から、気が大きくなっていたのだろう。
「……ふざけないで」
ギリリ、と奥歯を噛み締めた。
あの子たちが、「パパは怖い」「ご飯を抜かないで」と泣いていた夜。
この屋敷のどこかで、マーサたちはこの金で豪遊していたのか。
あるいは、私腹を肥やして貯め込んでいたのか。
許せない。
絶対に、許さない。
第1部で、私は実家の家族と決別した。
外敵は排除した。
でも、本当の敵は足元にいたのだ。
家族のふりをして、主人の顔色を窺いながら、弱者を食い物にする寄生虫たちが。
ガチャリ。
執務室の扉が開き、カイド様が入ってきた。
彼もまた、顔色が悪い。
手には、別の調査報告書を持っているようだ。
「……どうだ、エレナ」
カイド様の声は低く、重かった。
彼は床に跪いているセバスチャンを一瞥し、そして私の手元にある帳簿に視線を移した。
「真っ黒です」
私は短く答えた。
「過去五年間、子供部屋に関する予算の七割以上が、使途不明……いえ、虚偽の記載によって横領されています」
「七割……」
カイド様が絶句する。
「物品の購入記録と、現物の在庫が一致しません。納入業者の伝票も、おそらく偽造されているか、業者と結託している可能性があります」
私はペンを取り、特に悪質な箇所に赤丸をつけたページを彼に示した。
「見てください。昨年のリナ様の誕生日に、『特注のドレス』と『宝石付きの髪飾り』を購入したことになっています。……あの子が着ていたのは、袖の擦り切れた木綿の服でした」
カイド様が帳簿を受け取り、その指先が白くなるほど強く紙を握りしめた。
「……俺は」
彼は呻くように言った。
「俺は、金さえ出していれば……不自由はさせていないと、そう思っていた」
「ええ。あなたは金を出しました。十分に」
私は容赦なく言った。
ここで彼を慰めてはいけない。
彼には、自分の罪の形を直視してもらわなければならない。
「でも、届いていなければ意味がありません。あなたは関心を持たなかった。確認もしなかった。だから、彼らはあなたを『金蔓』として扱い、子供たちを『人質』にしたのです」
「……っ」
カイド様が苦しげに顔を歪める。
その表情は、剣で斬りつけられるよりも深い痛みを感じているようだった。
「俺の責任だ。……あいつらが怯えるのも、当然だ」
彼は書類を机に置き、両手で顔を覆った。
「俺が……地獄を作っていたのか」
部屋に重苦しい沈黙が流れる。
セバスチャンは床に額を擦り付けたまま動かない。
カイド様は己の愚かさに打ちのめされている。
男たちが二人、悔恨に沈んでいる。
けれど、後悔だけで終わらせるつもりはない。
それでは、傷ついた子供たちの心は救われない。
「カイド様」
私は静かに呼びかけた。
「後悔するのは、すべてが終わってからにしてください」
彼は顔を上げ、私を見た。
その瞳には、まだ迷いと動揺が残っている。
「今は、辺境伯として為すべきことをしてください。……この屋敷の膿を、出し切るのです」
「……ああ」
カイド様の瞳に、鋭い光が宿り始めた。
氷の辺境伯と呼ばれた男の、冷徹な理性が戻ってくる。
ただし今度は、その冷徹さを悪に向けなければならない。
「セバスチャン」
「は、はい……!」
主人の呼びかけに、執事が弾かれたように顔を上げた。
「お前の処分は後で言い渡す。……今は、最後の奉公だと思って働け」
「……仰せのままに。この命に代えましても」
セバスチャンの目にも、決死の覚悟が浮かんでいた。
「マーサを始め、関与したと思われる使用人全員を大広間に集めろ。逃がすなよ」
「警備兵を配置し、屋敷の出入りを封鎖いたします。ネズミ一匹たりとも逃しはしません」
セバスチャンが一礼し、風のように部屋を出て行った。
残された私たちは、再び帳簿に向き合った。
これは証拠だ。
彼らを断罪するための、動かぬ証拠。
一つ一つの数字が、子供たちの涙と痛みの結晶に見える。
「……エレナ」
カイド様がポツリと呟いた。
「君が来てくれなければ、俺は一生、このことに気づかなかったかもしれない。……子供たちが死ぬまで、俺は『立派な父親』気取りでいたかもしれない」
その声の震えに、私は胸が締め付けられる思いがした。
彼もまた、被害者の一人なのかもしれない。
信頼していた使用人に裏切られ、愛する機会を奪われていたのだから。
でも、同情はしない。
大人は自分の行動に責任を持たなければならない。
「気づけたのですから、まだやり直せます。……痛みを伴いますけれど」
「構わん。どんな罰も受ける覚悟だ」
カイド様は力強く頷いた。
その横顔には、もう迷いはなかった。
私は窓の外を見た。
雪解け水はまだ滴っている。
けれど、その下にある黒い土は、新しい芽を育むための準備を始めているはずだ。
嘘は剥がれた。
真実は白日の下に晒された。
あとは、裁きを下すだけだ。
私は帳簿を閉じ、深く息を吸い込んだ。
戦いの鐘は鳴った。
これは、愛する家族を守るための、私たち夫婦の初めての共同戦線だ。




