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【第5章開始!】「愛はない」と言われた契約妻ですが、子供たちを愛でるのに忙しいので旦那様は空気として扱います  作者: 月雅
第2章

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第1話 歪んだ平穏



 ポチャン、ポチャンと、軒先から雪解け水が滴り落ちる音が、静かな朝の食堂に響いていた。


 北の地に遅い春が訪れようとしている。

 分厚い雲の隙間から差し込む陽射しは柔らかく、窓の外の景色は白一色から、まばらな土の色へと変わり始めていた。


「……おいしいか?」


 食卓の上座で、カイド様が不器用に問いかけた。

 その声は低く、相変わらず抑揚に乏しいけれど、以前のような氷の冷たさはもうない。


「はい、お父様。とても美味しいです」


 ルカが姿勢を正し、模範解答のように答えた。

 隣のリナも、コクコクと小さく頷く。


「おいしい……です」


 二人はナイフとフォークを使い、音も立てずにオムレツを口に運んでいる。

 五歳の子供にしては、あまりにも完璧なテーブルマナーだった。


 私は紅茶のカップを口元に運びながら、その光景を眺めていた。

 実家との騒動が解決し、私が正式な「辺境伯夫人」として迎え入れられてから一ヶ月。

 屋敷の中は驚くほど平和になった。


 使用人たちは私に対し、恭しい態度を取るようになった。

 子供部屋は改装され、温かい食事と衣服が与えられている。

 カイド様は多忙な執務の合間を縫って、なるべく家族との時間を取ろうと努力してくれている。


 誰もが羨むような、幸せな家庭の風景。

 ……のはずだ。


(でも、何かがおかしい)


 私はカップをソーサーに戻し、小さく息を吐いた。

 胸の奥に、棘が刺さったような違和感がある。


 ルカとリナは、私の前では無邪気に笑い、甘えてくる。

 けれどカイド様の前では、借りてきた猫のように大人しくなるのだ。

 決して目を合わせようとせず、必要以上の言葉を発しない。


 まるで、「いい子にしていなければ捨てられる」と怯えているかのように。


「……そうか。なら、もっと食べるといい」


 カイド様は満足げに頷き、自分の皿からソーセージを取り分けてやろうと手を伸ばした。

 その瞬間。


 ビクッ。


 ルカの肩が大きく跳ね上がった。

 彼は反射的に身を竦め、目をギュッと閉じた。

 まるで、殴られるのを予期するような反応だった。


 カイド様の手が空中で止まる。

 ソーセージを皿に乗せることもできず、彼は呆然と息子の怯えた姿を見下ろした。


「……ルカ?」


「あ、ご、ごめんなさい……お父様……」


 ルカは慌てて目を開け、顔面蒼白で謝罪した。


「残さず食べます。だから……」


 だから、怒らないで。

 言葉にはしなかったけれど、その瞳は雄弁に恐怖を語っていた。


 カイド様は痛ましげに眉を寄せ、ゆっくりと手を引っ込めた。


「……いや。無理強いはしない。好きに食べなさい」


「はい。……ありがとうございます」


 再び、静寂が落ちる。

 カチャリという食器の音だけが、やけに大きく響く。


 カイド様の表情が曇った。

 彼は気づいているのだ。

 自分が「家族」になろうと歩み寄れば寄るほど、子供たちが恐怖を感じていることに。

 そして、その理由が自分の過去の振る舞いにあることも。


 私はテーブルの下で、ギュッと拳を握りしめた。

 違う。

 これは単に、「父親が怖い」というだけの反応ではない気がする。

 もっと根深い、生理的な拒絶反応。

 誰かが植え付けた、強烈なトラウマの匂いがする。


「失礼いたします、旦那様」


 食堂の扉が開き、新しいお茶のポットを持った使用人が入ってきた。

 執事のセバスチャンではない。

 その後ろに控えていた、恰幅の良い中年の女性だ。


 白髪交じりの髪をひっつめ、糊の効いたメイド服を着込んだ彼女は、慇懃な所作で一礼した。

 この屋敷の古株であり、奥向きを取り仕切るメイド長、マーサだ。


「お食事中、失礼いたします。厨房より、デザートのフルーツが届きましたので」


 マーサの声は低く、どこか湿り気を帯びていた。

 彼女は私のことなど眼中にないかのように、真っ直ぐにカイド様だけを見ている。

 前妻様の時代から仕えている彼女にとって、ぽっと出の後妻である私など、面白くない存在なのだろう。


 彼女が一歩、テーブルに近づいた時だった。


「ひっ……!」


 短い悲鳴が上がった。

 リナだ。


 見れば、リナがフォークを取り落とし、ガタガタと震えている。

 その顔色は紙のように白く、呼吸が荒くなっていた。


「ヒッ、ヒッ……はぁ……」


「リナ!?」


 私は席を立ち、リナのもとへ駆け寄った。

 彼女は椅子の背もたれにへばりつくようにして、マーサから距離を取ろうとしている。

 その瞳孔は開ききり、焦点が定まっていない。


「やだ……こないで……ごめんなさい……」


 うわ言のように呟くリナ。

 隣のルカも同様だ。彼はリナを庇うように立ち塞がったが、その足は生まれたての子鹿のように震えていた。


「どうしたんだ、リナ!」


 カイド様も立ち上がり、リナに手を伸ばそうとする。

 しかし、リナはその手さえも拒絶するように、さらに身を縮こまらせた。


「あらあら、お行儀の悪い」


 マーサがため息混じりに言った。

 その声には心配の色など微塵もなく、冷ややかな侮蔑が含まれていた。


「せっかくの食事が台無しでございますね。……やはり、甘やかしすぎたのではございませんか?」


 彼女の視線が、チラリと私に向けられた。

 『躾のなっていない母親』への当てこすりだ。


「黙りなさい」


 私はリナを抱きしめながら、マーサを睨みつけた。


「子供が怯えているのが見えないの? 下がって」


「怯える? まさか。わたくしはただ、フルーツをお持ちしただけでございますよ」


 マーサは悪びれもせず、薄ら笑いを浮かべている。

 その表情を見た瞬間、ルカが「うわあああん!」と泣き叫んだ。


 限界だったのだ。

 張り詰めていた緊張の糸が、彼女の登場によってプツリと切れてしまった。


「ごめんなさい! もうしません! いいこにします! ごはんぬかないで! くらいところにいれないで!」


 ルカの叫び声が、食堂に木霊した。


 ご飯を抜く。

 暗いところに入れる。


 その具体的な言葉に、カイド様の顔色が変わった。

 彼はマーサを鋭く睨んだ。


「……マーサ。これはどういうことだ」


 低い、地を這うような声。

 しかしマーサは動じなかった。

 長年この屋敷に仕え、カイド様の「無関心」を利用し続けてきた彼女には、その場の言い逃れなど造作もないことなのだろう。


「子供様の戯言でございましょう。あるいは、悪い夢でもご覧になったのか。……わたくしどもは、旦那様のご命令通り、厳しくも愛情を持って接してまいりましたから」


 嘘だ。

 私の腕の中で、リナの震えが止まらない。

 この反応は、単なる「厳しさ」への反発ではない。

 もっと陰湿で、継続的な虐待を受けた者の反応だ。


 私は気づいてしまった。

 第1部で、私は「子供部屋の環境」は改善した。

 食事を温かいものに変え、部屋を暖かくし、メイドたちに薪を運ばせた。

 それで解決したと思っていた。


 でも、根本的な原因――この子たちをここまで追い詰めた「実行犯」を、私はまだ排除していなかったのだ。

 あの時、反抗したメイドたちは氷山の一角に過ぎない。

 彼女たちに指示を出し、この「虐待の構造」を作り上げた元凶が、まだ屋敷の中にのさばっている。


「セバスチャン!」


 カイド様が叫んだ。

 控えていた執事が、青ざめた顔で進み出る。


「子供たちを部屋へ。……マーサ、お前は下がれ。顔も見たくない」


「……かしこまりました。旦那様のご機嫌を損ねてしまったようで、申し訳ございません」


 マーサは優雅に一礼し、悠然と退室していった。

 その去り際、私に向けられた視線は、勝ち誇ったような嘲笑を含んでいた。

 『どうせ証拠などない』と、そう言いたげな目だった。


 セバスチャンに連れられ、泣きじゃくる子供たちが退室していく。

 扉が閉まると、食堂には重苦しい沈黙が残された。


 カイド様はテーブルに手をつき、項垂れていた。

 その背中は、戦場で見せる勇姿とは程遠い、迷いと後悔に満ちていた。


「……俺は」


 彼が絞り出すように呟いた。


「俺は、あいつらに……何をしてきたんだ」


 子供たちの悲痛な叫び。

 「ご飯を抜かないで」「暗いところに入れないで」。

 それは、父親である彼が知らなかった、屋敷の闇そのものだ。


 私は静かに立ち上がり、カイド様の背中に手を置こうとして――止めた。

 今、彼を慰めるのは違う気がした。


 彼は知らなかった。

 執務に没頭し、領地の平和を守ることに必死で、足元の家庭が腐敗していることに気づかなかった。

 それは無能ではないかもしれない。

 けれど、親としては罪だ。


 そして、私も同罪だ。

 「今は幸せだからいい」と、過去の傷を直視せず、臭いものに蓋をしていた。

 そのツケが、今こうして子供たちを苦しめている。


「カイド様」


 私は努めて冷静な声を出した。


「……調べましょう」


 彼はハッとして顔を上げた。


「この屋敷で、過去に何があったのか。子供たちが本当は何をされていたのか。……すべて、明らかにする必要があります」


「……ああ。そうだな」


 カイド様の瞳に、微かな光が戻る。

 それは決意の光だったけれど、同時に深い痛みを伴うものでもあった。


「セバスチャンを呼べ。帳簿と、過去の使用人日誌をすべて持ってこさせるんだ」


 彼の声に、かつての冷徹さが戻っていた。

 ただし、それは敵に向けるものではなく、己の身内――そして自分自身に向けられた刃のような鋭さだった。


 窓の外では、雪解け水がまだ滴り続けている。

 春の訪れと共に、隠されていた雪の下の汚泥が、露わになろうとしていた。


 私の平穏な日常は、脆くも崩れ去った。

 でも、構わない。

 偽りの平穏の上で笑うより、痛みを伴ってでも真実を暴き、膿を出し切る。

 それが、母親になると決めた私の、新しい契約なのだから。


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