第1話 歪んだ平穏
ポチャン、ポチャンと、軒先から雪解け水が滴り落ちる音が、静かな朝の食堂に響いていた。
北の地に遅い春が訪れようとしている。
分厚い雲の隙間から差し込む陽射しは柔らかく、窓の外の景色は白一色から、まばらな土の色へと変わり始めていた。
「……おいしいか?」
食卓の上座で、カイド様が不器用に問いかけた。
その声は低く、相変わらず抑揚に乏しいけれど、以前のような氷の冷たさはもうない。
「はい、お父様。とても美味しいです」
ルカが姿勢を正し、模範解答のように答えた。
隣のリナも、コクコクと小さく頷く。
「おいしい……です」
二人はナイフとフォークを使い、音も立てずにオムレツを口に運んでいる。
五歳の子供にしては、あまりにも完璧なテーブルマナーだった。
私は紅茶のカップを口元に運びながら、その光景を眺めていた。
実家との騒動が解決し、私が正式な「辺境伯夫人」として迎え入れられてから一ヶ月。
屋敷の中は驚くほど平和になった。
使用人たちは私に対し、恭しい態度を取るようになった。
子供部屋は改装され、温かい食事と衣服が与えられている。
カイド様は多忙な執務の合間を縫って、なるべく家族との時間を取ろうと努力してくれている。
誰もが羨むような、幸せな家庭の風景。
……のはずだ。
(でも、何かがおかしい)
私はカップをソーサーに戻し、小さく息を吐いた。
胸の奥に、棘が刺さったような違和感がある。
ルカとリナは、私の前では無邪気に笑い、甘えてくる。
けれどカイド様の前では、借りてきた猫のように大人しくなるのだ。
決して目を合わせようとせず、必要以上の言葉を発しない。
まるで、「いい子にしていなければ捨てられる」と怯えているかのように。
「……そうか。なら、もっと食べるといい」
カイド様は満足げに頷き、自分の皿からソーセージを取り分けてやろうと手を伸ばした。
その瞬間。
ビクッ。
ルカの肩が大きく跳ね上がった。
彼は反射的に身を竦め、目をギュッと閉じた。
まるで、殴られるのを予期するような反応だった。
カイド様の手が空中で止まる。
ソーセージを皿に乗せることもできず、彼は呆然と息子の怯えた姿を見下ろした。
「……ルカ?」
「あ、ご、ごめんなさい……お父様……」
ルカは慌てて目を開け、顔面蒼白で謝罪した。
「残さず食べます。だから……」
だから、怒らないで。
言葉にはしなかったけれど、その瞳は雄弁に恐怖を語っていた。
カイド様は痛ましげに眉を寄せ、ゆっくりと手を引っ込めた。
「……いや。無理強いはしない。好きに食べなさい」
「はい。……ありがとうございます」
再び、静寂が落ちる。
カチャリという食器の音だけが、やけに大きく響く。
カイド様の表情が曇った。
彼は気づいているのだ。
自分が「家族」になろうと歩み寄れば寄るほど、子供たちが恐怖を感じていることに。
そして、その理由が自分の過去の振る舞いにあることも。
私はテーブルの下で、ギュッと拳を握りしめた。
違う。
これは単に、「父親が怖い」というだけの反応ではない気がする。
もっと根深い、生理的な拒絶反応。
誰かが植え付けた、強烈なトラウマの匂いがする。
「失礼いたします、旦那様」
食堂の扉が開き、新しいお茶のポットを持った使用人が入ってきた。
執事のセバスチャンではない。
その後ろに控えていた、恰幅の良い中年の女性だ。
白髪交じりの髪をひっつめ、糊の効いたメイド服を着込んだ彼女は、慇懃な所作で一礼した。
この屋敷の古株であり、奥向きを取り仕切るメイド長、マーサだ。
「お食事中、失礼いたします。厨房より、デザートのフルーツが届きましたので」
マーサの声は低く、どこか湿り気を帯びていた。
彼女は私のことなど眼中にないかのように、真っ直ぐにカイド様だけを見ている。
前妻様の時代から仕えている彼女にとって、ぽっと出の後妻である私など、面白くない存在なのだろう。
彼女が一歩、テーブルに近づいた時だった。
「ひっ……!」
短い悲鳴が上がった。
リナだ。
見れば、リナがフォークを取り落とし、ガタガタと震えている。
その顔色は紙のように白く、呼吸が荒くなっていた。
「ヒッ、ヒッ……はぁ……」
「リナ!?」
私は席を立ち、リナのもとへ駆け寄った。
彼女は椅子の背もたれにへばりつくようにして、マーサから距離を取ろうとしている。
その瞳孔は開ききり、焦点が定まっていない。
「やだ……こないで……ごめんなさい……」
うわ言のように呟くリナ。
隣のルカも同様だ。彼はリナを庇うように立ち塞がったが、その足は生まれたての子鹿のように震えていた。
「どうしたんだ、リナ!」
カイド様も立ち上がり、リナに手を伸ばそうとする。
しかし、リナはその手さえも拒絶するように、さらに身を縮こまらせた。
「あらあら、お行儀の悪い」
マーサがため息混じりに言った。
その声には心配の色など微塵もなく、冷ややかな侮蔑が含まれていた。
「せっかくの食事が台無しでございますね。……やはり、甘やかしすぎたのではございませんか?」
彼女の視線が、チラリと私に向けられた。
『躾のなっていない母親』への当てこすりだ。
「黙りなさい」
私はリナを抱きしめながら、マーサを睨みつけた。
「子供が怯えているのが見えないの? 下がって」
「怯える? まさか。わたくしはただ、フルーツをお持ちしただけでございますよ」
マーサは悪びれもせず、薄ら笑いを浮かべている。
その表情を見た瞬間、ルカが「うわあああん!」と泣き叫んだ。
限界だったのだ。
張り詰めていた緊張の糸が、彼女の登場によってプツリと切れてしまった。
「ごめんなさい! もうしません! いいこにします! ごはんぬかないで! くらいところにいれないで!」
ルカの叫び声が、食堂に木霊した。
ご飯を抜く。
暗いところに入れる。
その具体的な言葉に、カイド様の顔色が変わった。
彼はマーサを鋭く睨んだ。
「……マーサ。これはどういうことだ」
低い、地を這うような声。
しかしマーサは動じなかった。
長年この屋敷に仕え、カイド様の「無関心」を利用し続けてきた彼女には、その場の言い逃れなど造作もないことなのだろう。
「子供様の戯言でございましょう。あるいは、悪い夢でもご覧になったのか。……わたくしどもは、旦那様のご命令通り、厳しくも愛情を持って接してまいりましたから」
嘘だ。
私の腕の中で、リナの震えが止まらない。
この反応は、単なる「厳しさ」への反発ではない。
もっと陰湿で、継続的な虐待を受けた者の反応だ。
私は気づいてしまった。
第1部で、私は「子供部屋の環境」は改善した。
食事を温かいものに変え、部屋を暖かくし、メイドたちに薪を運ばせた。
それで解決したと思っていた。
でも、根本的な原因――この子たちをここまで追い詰めた「実行犯」を、私はまだ排除していなかったのだ。
あの時、反抗したメイドたちは氷山の一角に過ぎない。
彼女たちに指示を出し、この「虐待の構造」を作り上げた元凶が、まだ屋敷の中にのさばっている。
「セバスチャン!」
カイド様が叫んだ。
控えていた執事が、青ざめた顔で進み出る。
「子供たちを部屋へ。……マーサ、お前は下がれ。顔も見たくない」
「……かしこまりました。旦那様のご機嫌を損ねてしまったようで、申し訳ございません」
マーサは優雅に一礼し、悠然と退室していった。
その去り際、私に向けられた視線は、勝ち誇ったような嘲笑を含んでいた。
『どうせ証拠などない』と、そう言いたげな目だった。
セバスチャンに連れられ、泣きじゃくる子供たちが退室していく。
扉が閉まると、食堂には重苦しい沈黙が残された。
カイド様はテーブルに手をつき、項垂れていた。
その背中は、戦場で見せる勇姿とは程遠い、迷いと後悔に満ちていた。
「……俺は」
彼が絞り出すように呟いた。
「俺は、あいつらに……何をしてきたんだ」
子供たちの悲痛な叫び。
「ご飯を抜かないで」「暗いところに入れないで」。
それは、父親である彼が知らなかった、屋敷の闇そのものだ。
私は静かに立ち上がり、カイド様の背中に手を置こうとして――止めた。
今、彼を慰めるのは違う気がした。
彼は知らなかった。
執務に没頭し、領地の平和を守ることに必死で、足元の家庭が腐敗していることに気づかなかった。
それは無能ではないかもしれない。
けれど、親としては罪だ。
そして、私も同罪だ。
「今は幸せだからいい」と、過去の傷を直視せず、臭いものに蓋をしていた。
そのツケが、今こうして子供たちを苦しめている。
「カイド様」
私は努めて冷静な声を出した。
「……調べましょう」
彼はハッとして顔を上げた。
「この屋敷で、過去に何があったのか。子供たちが本当は何をされていたのか。……すべて、明らかにする必要があります」
「……ああ。そうだな」
カイド様の瞳に、微かな光が戻る。
それは決意の光だったけれど、同時に深い痛みを伴うものでもあった。
「セバスチャンを呼べ。帳簿と、過去の使用人日誌をすべて持ってこさせるんだ」
彼の声に、かつての冷徹さが戻っていた。
ただし、それは敵に向けるものではなく、己の身内――そして自分自身に向けられた刃のような鋭さだった。
窓の外では、雪解け水がまだ滴り続けている。
春の訪れと共に、隠されていた雪の下の汚泥が、露わになろうとしていた。
私の平穏な日常は、脆くも崩れ去った。
でも、構わない。
偽りの平穏の上で笑うより、痛みを伴ってでも真実を暴き、膿を出し切る。
それが、母親になると決めた私の、新しい契約なのだから。




