第10話 本当の契約
(この暖炉の火を見ていると、ここに来たばかりの日を思い出すわ)
私は執務室のソファに座り、パチパチと燃える炎をぼんやりと見つめていた。
継母マリアたちの襲撃事件から、一週間が過ぎた。
王都からの早馬によれば、フォレス男爵家の爵位剥奪と、鉱山送りは正式に決定したそうだ。
カイド様の迅速な根回しと、提出された証拠の数々が決め手となったらしい。
これで、私を縛り付けていた過去の鎖は完全に断ち切られた。
実家の借金も、私という人質も、もう取引材料にはならない。
すべてがきれいに片付いたのだ。
窓の外を見れば、北国の遅い春を告げるように、雪解け水が軒先から滴り落ちている。
子供部屋からは、ルカとリナの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
屋敷の空気は穏やかで、使用人たちも以前のような冷ややかな視線を向けてくることはない。
完璧なハッピーエンドだ。
……そう、完璧すぎる。
だからこそ、私は不安で胸が押しつぶされそうになっていた。
「待たせたな」
書類仕事を終えたカイド様が、デスクから立ち上がってこちらへ歩いてきた。
その顔色は良く、以前のような険しい表情は影を潜めている。
彼は私の向かいのソファに腰を下ろし、静かに私を見つめた。
「呼び出してすまない。……大事な話がある」
その言葉に、私は膝の上で拳を握りしめた。
来た、と思った。
私は元々、借金のカタとして売られてきた「契約上の妻」だ。
愛のない政略結婚。
カイド様は最初、「君を愛することはない」「屋敷のことに口を出すな」と言っていた。
でも状況は変わった。
実家は消滅し、借金の回収は鉱山労働という形で強制執行されることになった。
つまり、私がここにいる「人質としての価値」はもうなくなったのだ。
「実家の件については、報告の通りだ。奴らが君に干渉することは二度とない」
「はい。……本当に、ありがとうございました」
私は深く頭を下げた。
感謝してもしきれない。
彼のおかげで、私は自由になれたのだから。
「それで……今後のことだが」
カイド様が懐から一枚の紙を取り出した。
見覚えのある、厚手の羊皮紙。
私と辺境伯家の間で交わされた「婚姻契約書」だ。
心臓が冷たくなるのを感じた。
(ああ、やっぱり)
用済みになったのだ。
実家との縁が切れた今、悪評まみれの元男爵令嬢を、辺境伯夫人の座に置いておくメリットはない。
彼は真面目な人だ。
だからこそ、けじめをつけようとしているのだろう。
手切れ金を渡されて、「好きに生きろ」と言われるのかもしれない。
それは私が望んでいた「自由」なはずだ。
誰にも縛られず、平穏に生きる。
そう願っていたはずなのに、どうしてこんなに胸が痛むのだろう。
「この契約書には、『フォレス男爵家の債務履行完了まで、娘エレナを辺境伯家に留め置く』とある」
カイド様は淡々と言った。
「だが、債務の回収方法は変更された。よって、この契約の前提条件は崩れたことになる」
「……そう、ですね」
私は震える声で同意した。
泣いてはいけない。
笑顔で感謝を伝えて、潔く去らなければ。
それが、彼と子供たちに対する最後の誠意だ。
「短い間でしたが、お世話になりました。ルカ様やリナ様と過ごせた時間は、私にとって宝物です」
私は立ち上がりかけ、精一杯の強がりを言った。
「ご安心ください。慰謝料などはいただきません。衣食住を保証していただいただけで十分ですから。……荷物をまとめる時間を、少しだけいただけますか?」
「……は?」
カイド様が目を丸くした。
そのポカンとした表情は、氷の辺境伯にあるまじき間の抜けたものだった。
「何を言っているんだ?」
「え? ですから、契約終了に伴う離縁の話ではないのですか?」
「誰がそんなことを言った」
彼は呆れたように溜息をつき、契約書をひらひらと振った。
「俺が言いたいのは、こんな紙切れにはもう意味がないということだ」
彼はそのまま、契約書を暖炉の火の中へ放り込んだ。
「ああっ!?」
私が驚きの声を上げる間もなく、羊皮紙は炎に包まれ、あっという間に灰へと変わっていく。
法的な効力を持つ重要書類が、ただの灰燼に帰した。
「カ、カイド様……何を……」
「これで契約は破棄された」
彼は満足げに頷き、まっすぐに私を見据えた。
その青い瞳には、燃え盛る炎のような熱が宿っていた。
「エレナ。俺は不器用で、言葉足らずな男だ。君を不安にさせたなら詫びる」
彼はゆっくりと立ち上がり、私の前まで歩み寄ると、片膝を床に突いた。
まるで、騎士が姫に忠誠を誓うように。
「俺には、君が必要だ」
直球すぎる言葉が、私の胸を貫いた。
「子供たちの母親としてだけではない。……俺の妻として、君に傍にいてほしい」
彼は私の手を取り、その甲に額を押し付けた。
手のひらから伝わる彼の体温が、熱いほどだ。
「最初は金で買った関係だった。愛することはないと告げた。だが、君はそんな俺の冷徹な心を溶かし、屋敷に温かい光を灯してくれた」
彼の声が、少しだけ震えている。
「君がいない生活など、もう考えられない。ルカもリナも、そして俺も……君がいないと駄目なんだ」
涙が溢れた。
我慢していた堤防が決壊したように、ポロポロと滴り落ちる。
「……ずるいです」
私は泣き笑いのような顔で言った。
「そんなふうに言われたら、断れるわけがないじゃないですか」
「断る権利など与えないつもりだがな」
カイド様は顔を上げ、悪戯っぽく口の端を吊り上げた。
そんな表情もできるようになったのかと、私は驚きつつも愛しさを感じた。
「これは新しい契約だ。期限なし、違約金なし。……死が二人を分かつまで、俺と共に生きてくれ」
それは、どんな甘い言葉よりも私の心を満たしてくれた。
私は彼の手を両手で包み込み、深く頷いた。
「はい。……喜んで」
カイド様が立ち上がり、私を強く抱きしめた。
逞しい腕の中に包まれる安心感。
ああ、ここが私の居場所なのだ。
ようやく、本当の意味で家に帰ってきたような気がした。
その時だった。
「ママ! パパ!」
バタン! と勢いよく扉が開かれた。
驚いて体を離すと、そこにはルカとリナが立っていた。
背後には、止めきれなかったセバスチャンが苦笑いを浮かべている。
「どうしたんだ、二人とも」
カイド様が照れ隠しのように咳払いをすると、リナがトコトコと走ってきて、私の足にしがみついた。
「セバスチャンがいってたの。ママとおはなしがおわったら、おいわいするって」
「おいわい?」
私が首を傾げると、ルカもやってきて、もじもじしながら言った。
「……エレナ、いなくならないよね? ずっとここにいるよね?」
どうやら、二人は私が実家に連れ戻されるのではないかと、まだ不安だったらしい。
私はしゃがみ込み、二人の頭を撫でた。
「ええ。いなくならないわ。ずっと一緒よ」
「ほんとう?」
「本当よ。パパとも、ちゃんと約束したから」
私がカイド様を見ると、彼は優しく微笑んで頷いた。
「ああ。エレナは今日から、本当の家族だ。誰にも文句は言わせない」
「やったー!」
リナが歓声を上げ、ルカもパッと顔を輝かせた。
二人は代わる代わる私たちに抱きつき、執務室は一気に賑やかになった。
「こら、執務室では静かにと……まあ、いいか」
カイド様は苦笑しつつも、リナを抱き上げて高い高いをした。
リナのキャッキャという笑い声が天井に響く。
ルカは私の手を握り、「あのね、今度折り紙教えて」と甘えてくる。
かつて氷のように冷たく、静まり返っていたこの部屋が、今はこんなにも温かい。
私は幸せを噛み締めていた。
「セバスチャン」
カイド様が執事を呼んだ。
「はい、旦那様」
「今夜は宴だ。料理長に伝えろ。子供たちが好きなものを、山ほど用意させろと」
「かしこまりました。……パンケーキも、山積みにさせましょう」
セバスチャンがウインクをした。
あの厳格な執事まで、こんなに砕けた態度を見せるようになるなんて。
私の「秘密の改革」は、想像以上の成果を上げたようだ。
その夜の食卓は、笑顔と美味しい料理で溢れていた。
カイド様は子供たちの話に不器用ながらも相槌を打ち、リナの口についたクリームを拭いてあげたりしていた。
ルカは「僕が一番食べるんだ」と張り切り、カイド様と競争のようにお肉を頬張っている。
私はワイングラスを傾けながら、その光景を眺めていた。
実家から売られ、絶望の中で辿り着いた北の地。
最初はただの「ニート生活」を目指していたはずだった。
でも手に入れたのは、それよりもずっと価値のあるもの。
愛する夫。
可愛い子供たち。
そして、心から安らげる居場所。
「エレナ」
ふいに名前を呼ばれ、隣を見るとカイド様が私を見ていた。
その瞳は、もう氷のように冷たくはない。
春の湖のように、穏やかで深い愛情を湛えていた。
「……ありがとう」
彼が小さな声で言った。
何の感謝かは、聞かなくてもわかった。
私も微笑み返し、テーブルの下で彼の手をそっと握った。
「こちらこそ。……あなたに会えて、本当によかったです」
窓の外では、雪解け水が新たな季節の訪れを告げている。
私たちの本当の人生は、まだ始まったばかりだ。
これからは夫婦として、家族として、どんな困難も乗り越えていけるだろう。
契約書はもうない。
けれど、私たちの心に刻まれた約束は、決して消えることはないのだから。
(完)
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