第1話 初夜の通告
「最初に言っておくが、君を愛することはない」
開口一番、投げつけられた言葉はそれだった。
重厚な扉が閉ざされた執務室。
分厚い絨毯が敷かれているはずなのに、足元から冷気が這い上がってくるような気がする。
私の目の前には、書類の山に埋もれるようにして座る一人の男。
この広大な北の地を統べる主、カイド・ヴォルグ辺境伯だ。
漆黒の髪に、凍てつくような青い瞳。
整ってはいるが、血の通っていない彫像のような美貌。
王都の貴族たちが彼を「氷の辺境伯」と呼び、忌避する理由がわかった気がした。
もっとも、彼が恐れられている一番の理由は、その類稀なる武力と、容赦のない冷徹さにあるのだけれど。
私はゆっくりと息を吐き出し、姿勢を正した。
王都から馬車に揺られること十日。
体は悲鳴を上げていたけれど、ここで崩れ落ちるわけにはいかない。
「……承知いたしました」
私の返答が意外だったのか、カイド様の手がわずかに止まった。
顔を上げ、値踏みするように私を見る。
「意味がわかっているのか?」
「はい。この結婚は、契約上のものですから」
私は淡々と告げた。
感情を殺すのは得意だ。実家での生活で、嫌というほど身についた技術だった。
「私の実家、フォレス男爵家の借金を、辺境伯様が肩代わりしてくださった。その対価として、私がここに差し出された。違いますか?」
「……間違ってはいない」
カイド様は短く答え、手元の書類に視線を戻した。
ペンの走る音だけが、広い室内に響く。
まるで、これ以上の会話は無駄だと言わんばかりの態度。
普通のご令嬢なら、この扱いだけで泣き出してしまうかもしれない。
初夜どころか、歓迎の言葉ひとつないのだから。
けれど、私は違った。
胸の奥底で、安堵の息をついていた。
(よかった。話が早くて)
もしも彼が、好色で粘着質な老人だったり、暴力を振るうような人物だったらどうしようかと、来る道中ずっと胃が痛かったのだ。
けれど目の前の彼は、私に興味がないだけ。
無関心。
それは私にとって、最高の待遇だった。
「君の部屋は用意してある。西棟の二階だ」
カイド様は顔も上げずに言った。
「生活に必要なものは揃っているはずだ。不足があれば執事に言え。俺は多忙だ。屋敷のことに口を出すつもりはないし、君にかまっている時間もない」
「はい」
「俺の執務室と、東棟への立ち入りは禁止する。それ以外なら、敷地内を歩くことくらいは許可するが……」
そこで一度言葉を切り、彼は冷ややかな瞳で私を射抜いた。
「逃げようなどとは考えるなよ。君の実家との契約には、違約金の条項も含まれている」
「逃げません。帰る場所などありませんから」
即答すると、彼はふん、と鼻を鳴らした。
「そうか。ならばいい」
会話は終了したらしい。
彼は再び書類の山と格闘し始めた。
退室を促す言葉すらない。
私は静かに一礼し、踵を返した。
重い扉を開けて廊下に出ると、そこには年配の執事が控えていた。
白髪をきっちりと撫でつけた、隙のない老紳士だ。
「エレナ様でございますね。ご案内いたします」
執事の態度は礼儀正しいが、その目には一切の温かみがなかった。
ああ、ここでもか、と思う。
王都での私の悪評は、この最果ての地にも届いているらしい。
『稀代の悪女』。
『贅沢三昧で実家を傾けた浪費家』。
『継母と義妹を虐げる傲慢な娘』。
全部、嘘なのに。
継母のマリアと、その連れ子の義妹が散財したツケを、すべて私になすりつけた結果だ。
父は新しい妻の言いなりで、私の言葉になど耳を貸さなかった。
弁明しても無駄だと悟ってからは、私は心を閉ざし、言われるがままに生きてきた。
そして最後は、借金のカタとして売られた。
まるで家畜のように。
「こちらでございます」
案内されたのは、本邸から少し離れた西棟の一室だった。
扉が開かれると、ひやりとした空気が肌を撫でる。
「……ここが、私の部屋ですか」
広さは十分にある。家具も、古めかしいが一級品だ。
けれど、どこか寒々しい。
長らく使われていなかった部屋特有の、埃っぽい匂いが微かに漂っている。
「旦那様のご指示により、こちらの部屋を用意させていただきました。最低限の荷解きは、使用人に命じておきます」
執事はそれだけ言うと、深く頭を下げた。
「夕食は食堂にご用意いたしますが、いかがなさいますか」
「……結構です。長旅で疲れましたので、今夜は休みます」
「かしこまりました。では、ごゆっくり」
執事が去り、扉が閉まる。
カチャリ、と無機質な音が響いた。
私はようやく、大きなため息をついた。
張り詰めていた糸が切れ、その場にへたり込む。
「はあ……疲れた」
ドサリとベッドに倒れ込むと、少し湿気たシーツの感触がした。
天井が高い。
窓の外には、王都では見たこともないような深い針葉樹の森が広がっている。
空はどんよりと曇り、今にも雪が降り出しそうだ。
(これが、私の新しい牢獄)
そう思うべきなのだろうか。
愛のない結婚。
冷酷な夫。
敵意を含んだ使用人たち。
そして、実家という名の足かせ。
絶望的な状況だ。
普通の貴族令嬢なら、枕を濡らして嘆く場面だ。
でも。
「……ふふ」
乾いた笑いが漏れた。
視界が滲むこともない。
むしろ、胸の奥から奇妙な高揚感が湧き上がってくるのを感じていた。
私は仰向けになったまま、天井に向かって手を伸ばす。
「最高じゃない」
誰も私を殴らない。
誰も私に、「金を出せ」と怒鳴り散らさない。
継母のヒステリックな声も、義妹の嘲笑も、ここにはない。
あるのは、静寂と、無関心だけ。
(愛されなくていい。期待されなくていい。ただ、静かに暮らせるなら)
私には、前世の記憶がある。
日本という国で、保育士として働いていた記憶。
子供たちの笑顔に囲まれ、忙しくも充実していた日々。
事故で呆気なく終わってしまったけれど、あの頃の私は、確かに自分の足で立っていた。
今の私には、あの頃のような自由はない。
けれど、少なくとも地獄のような実家よりはマシだ。
「食事と寝床が保証されたニート生活、ってことよね?」
カイド様は言った。
「屋敷のことに口を出すつもりはない」と。
つまり、目障りなことさえしなければ、私はここで好きに生きていいということだ。
衣食住は保証されている。
夫は帰ってこない。
これ以上の好条件があるだろうか?
「よし」
私は勢いよく上半身を起こした。
頬を両手で叩き、気合を入れる。
「まずは、この部屋の掃除からね」
窓枠の隅に溜まった埃を見て、私は腕まくりをした。
生活魔法の出番だ。
魔力は少ないけれど、掃除くらいならなんとかなる。
誰かのためじゃない。
私が、私らしく生きるために。
窓を開けると、冷たい風が吹き込んできた。
頬を刺すような寒さだったが、王都の淀んだ空気よりも、ずっと清々しく感じられた。
ここが私の、新しい戦場だ。
絶対に、平穏な生活を手に入れてみせる。
そう決意して、私は生活魔法の小さな灯りを指先に灯した。
まさかその「平穏」が、この屋敷に隠された秘密によって、すぐに打ち砕かれることになるとは知らずに。




