真夜中の侍女たち ~紅茶とお菓子に噂をそえて~
朝日が宮殿の高窓から差し込み始めた頃、私たち三人の侍女は一日の務めを始めていた。
宮廷には多くの貴族や王族が住み、彼らの世話をする住み込みの使用人がいる。
中には縁談のチャンスを求めて奉公に出される貴族の娘もいた。
私、エマ・ハートフィールドもそのひとりだ。
小さいながらも領地を持つ男爵家の令嬢である私は、ここで侍女として働きながら、いつか良縁に恵まれることを密かに願っている。
もっとも、それはあくまで父の願いであって、私自身は今の仕事に誇りを持っているのだけど……。
「ソフィア、カトリーヌ様のドレスをちゃんと準備してくれた?」
髪を几帳面に結い上げながら、私は同僚に声をかけた。
「もちろん! 昨日のうちにアイロンをかけておいたわよ」
ソフィアはふふんっと、得意げに茶色の巻き毛を揺らした。
「今日は庭園でお茶会があるから、ライラック色のドレスを用意したの」
商家の娘であるソフィアは、幼い頃から商談に付いて回ったりしていたらしい。
明るく社交的で、いつの間にか宮廷では私よりも顔が広くなっていた。
少し羨ましいと思うこともあるけれど、彼女の明るさには助けられることも多い。
「ライラック? カトリーヌ様のお気に入りね」
ソフィアの話を聞きながら、私はカトリーヌ様の部屋を見回した。
テーブルの上に置かれた薬の小瓶が目に入る。
「また頭痛薬……? 最近、増えてない?」
なんとなく気がかりになった。
カトリーヌ様は最近本当に頻繁に薬を飲んでいる。
静かに本を読んでいたクレアが顔を上げた。
平民の生まれで、小説家を夢見る彼女は、三人の中でも最も若く、物静かな少女だ。
落ち着いた瞳の奥には鋭い観察力が宿っているけれど、いつも本に夢中で仕事をサボりがちなのがたまに傷。
とはいえ、非常に聡明で、たまにドキッとするようなことを言って皆を驚かせたりするので、他の使用人たちからも一目置かれているようだった。
「カトリーヌ様、最近明らかに体調を崩してる。先週の晩餐会も途中で席を外してた」
クレアが手帳を見ながら言った。
「……婚約が決まってからかしら。ん? またその手帳? 何を書いてるの?」
「別に」
クレアはサッとノートを閉じて、エプロンの中に隠した。
私は特に気にせず、薬の小瓶を手に取り眺めた。
何かが引っかかる……。何かおかしい。
でも、これ以上考える時間はない。
朝の仕事に取り掛からなければ――。
* * *
その日の午後、厨房からのお使いで市場まで買い出しに出かけた。
買い物を終えた帰り道、偶然にもカトリーヌ様の婚約者であるアレクサンダー伯爵の姿を見かけた。
「あれは……」
思わず、物陰に隠れてしまう。
悪いことをしているわけではないのに、反射的に身体が動いてしまった。
宮廷では地位の高い方々と直接関わることはあまりないから、つい緊張してしまうのだ。
見ると、通りの角で伯爵が、若い女性から小さな封筒を受け取っている。
女性は平民の服装だけど、その立ち振る舞いにはどこか気品が感じられた。
まるで高貴な生まれでありながら、何らかの事情で身分を隠しているようにも見える……。
女性が伯爵の腕に手を置き、何かを切実に訴えているようだった。
伯爵は困惑した表情を見せ、しばらく会話を続けた後、女性はその場を後にする。
そして、残された伯爵は手に持った封筒を見つめ、まるで決意したような表情でそれを内ポケットにしまった。
「どうしよう、見ちゃった……」
本来なら見るはずのなかった光景を目撃してしまった不安と、カトリーヌ様の最近の様子が脳裏に浮かび、胸がざわついた。
これは報告すべきことなのだろうか?
……でも、誰に?
いや、まだ何も分からない。
まずはソフィアとクレアに相談してみよう——それからでも遅くはないはずだ。
私はそう決めると、足早に宮廷へと戻った。
* * *
「悪いけど今日は残業になるわ」
夕方、ソフィアに声をかけた。
ソフィアが「仕方ないわね」と肩をすくめて見せるが、どこか嬉しそうだ。
この言葉には特別な意味があった。
ソフィアはすぐに理解し、廊下ですれ違ったクレアの耳元で囁いた。
「今夜、いつもの場所でね——」
私たち三人だけの秘密の合言葉。
他の侍女たちには知られていない、私たちだけの小さな楽しみだ。
* * *
宮殿の端に、忘れられた古い客室があった。
掃除は行うことになっているが、この部屋が使われることはない。
しかし夜になると、私たち三人の侍女にとって秘密の集会所となるのだ。
「紅茶を淹れたわよ」
そう言って、ソフィアがスコーンを並べたお皿をテーブルに置いた。
「ソフィアってば、また厨房からもらってきたの?」
少し心配になって尋ねた。
宮廷では物資管理が厳しいから、勝手に持ち出すとまずいことになる。
「ええ、ちゃんともらってきたわよ? ふふっ、お菓子作りの見習いの子が、私に気があるみたいでぇー」
ソフィアはふふんと笑った。
やれやれ、また彼女の「恋愛話」が始まるのだろうか。
「……その話が続くのなら帰る」
大人しく座って本を読んでいたクレアが呟くように言った。
「ちょ、ちょっとクレア! あなたも少しは恋愛に興味を持ちなさいよね!」
「興味無し」
「まあまあソフィア、クレアのこういうところは今に始まったことじゃないでしょ?」
私は笑いを堪えながら、二人の間に入って宥めた。
この二人は、いつもこんな調子だ。
でも、そんな日常の小さな会話が、実は私にとっては大切な時間だったりする。
何とかソフィアを宥めた後、紅茶を一口飲み、ゆっくりと話し始めた。
「実は今日ね……アレクサンダー伯爵が市場の近くで若い女性から封筒を受け取っていたの。二人の様子が…何て言うか、とても怪しかったわ」
「えぇっ⁉ 婚約者なのに浮気ぃ? カトリーヌ様が可哀想じゃないっ!」
ソフィアが大きく目を開いた。
クレアは私の話に興味を持ったのか、静かに本を閉じた。
「……でも、それだけで浮気だとは言えない。どんな女性だった?」
「んー、平民の服装だったけど、立ち振る舞いに……そう! 品があった。そして、何より……」
二人の顔を確かめるように見た後、声のトーンを落として続けた。
「とっても真剣な表情だったわ。何か重要なことを伯爵に頼んでいるように見えたの」
「「「……」」」
三人が同時にスコーンを口に運ぶ。
少しの間、沈黙が続き、私の心の中で様々な可能性が浮かんでは消えていった。
「カトリーヌ様のお体も気になる」
最初にクレアが切り出した。
「そういえば最近、頭痛薬を毎日飲んでいるみたいよね……」
「そうなの?」
ソフィアが驚いた様子で尋ねた。
「……気になることがある」
ボソッと言ったクレアに、私とソフィアが目を向ける。
「その頭痛薬、伯爵の屋敷から届く。『特別な調合』って使いの人言ってた」
クレアの言葉を聞いて、背筋に冷たいものが走った。
「まさか……」
私の声が震えている。恐ろしい可能性が頭をよぎったが、口にするのがためらわれた。
「いやいやいや、私が思うのはー」
と、ソフィアが立ち上がり、フォークを持ったまま部屋を行ったり来たりし始めた。
「アレクサンダー伯爵は二股をかけているわ……。そして今、カトリーヌ様を捨てようとしているのよ!」
「どうして?」クレアが尋ねた。
「先月の晩餐会を覚えてるかしら?」
ソフィアは得意げな表情で、私たちに視線を向けた。
「あの時、伯爵は侯爵令嬢のマーガレット様と随分親しげに話していたわよね?」
確かに、そんな場面があったことを思い出した。
当時は何も思わなかったけれど、今考えると……。
「え、ええ、確かに……」
「見た」
「あの時、私は偶然二人の会話を耳にしたのよ」
「偶然?」
クレアの鋭い返しに、一瞬、言葉に詰まったソフィアだったが、小さく咳払いをして続けた。
「マーガレット様が『あの娘とはいつ別れるの?』と聞いて、伯爵は『もうすぐだ』と答えたわ。きっと、あの封筒には、カトリーヌ様との婚約を破棄する計画が書かれているのよ!」
ソフィアは目を輝かせていた。
彼女の話にも一理あるかもしれないと思いながらも、何か引っかかる感覚がある。
「婚約破棄……」
「さすがにそれは……」
「ほ、ほら、マーガレット様ってちょっと目つきも悪いし、侍女仲間からの評判もいまいちっていうか……」
私はソフィアが慌てて即席で理由を付け足すのを聞きながら、苦笑した。
「でも、それが本当なら、カトリーヌ様の体調不良も説明がつくわね……」思わずため息が出る。
クレアは首を横に振って、小さな口を開いた。
「もっと深刻な可能性がある。これ、政治的な陰謀」
「……政治?」
思わず眉を上げてしまう。
「先週、図書室でアレクサンダー伯爵がヴァレンティン男爵と密談してるのを見た。ヴァレンティン男爵はカトリーヌ様の父上の政敵……」
「えっ……」
思わずソフィアと顔を見合わせた。
「それだけじゃない」
クレアはサッと懐から手帳を取り出した。
「私は最近の伯爵の行動を記録してる。彼は過去一ヶ月で三回、深夜に宮殿を訪れ、カトリーヌ様の父上の書斎の近くをうろついていた」
「なるほど……」
考え込んだ。クレアはいつもこんな風に人々を観察しているのだろうか。
少し怖いけれど、彼女の観察眼には脱帽する。
「なぜ記録しているのかは聞かないでおくわね……」
やれやれとソフィアが額に手を当てながら言った言葉に、内心で同意する。
「エマが見た封筒、きっと政治的な陰謀の証拠が入ってる」
クレアがきっぱりと言う。
「でも、目的は何なのよ? やっぱり浮気じゃないの?」
「伯爵はカトリーヌ様の家を乗っ取るつもりかも。そして……」
「そして?」
ソフィアと一緒に息を呑んだ。
「カトリーヌ様の頭痛薬……あれは毒かも。少しずつ、気づかれないように……少しずつ……」
クレアの言葉に、恐怖が込み上げてきた。
まさか、私たちが仕えるカトリーヌ様が、そんな危険に晒されているなんて……。
「そんな! 縁起でも無い、伯爵はそこまで残酷な人じゃないわよ!」
とソフィアが諫めるように言った。私も同感だが、事実を確かめなければ。
「でも、伯爵の父上、亡くなった前王の側近」
クレアは事実を指摘した。
「カトリーヌ様の父上は現王の側近。権力構造の変化、アレクサンダー伯爵家、多くの特権を失った。復讐の可能性も…」
「ふ、復讐⁉」
ソフィアが悲鳴に似た声を上げる。
あまりに話が飛躍しすぎている感じがする。ここ冷静になるべきだろう。
「二人とも、ちょっと落ち着きなさいって」
割って入り、
「私はもっと単純なことだと思うのよ」と持論を展開することにした。
「単純なこと?」
「そうよ。ねぇ、来週は何の日か知ってる?」
ニコッと笑って二人に問いかけた。
二人が答えを言う前に、言った。
「——カトリーヌ様の誕生日よ」
「あっ!」
ソフィアが手を叩いた。
「忘れてた……」
「きっと、それでカトリーヌ様も最近そわそわしているのよ。伯爵は単に誕生日の贈り物を準備しているだけかも」
私の推理に、二人は少し納得したような表情を見せたが、まだ疑問が残るようだった。
「でも、どうして平民の女性と? 切迫した様子だったって。それに、カトリーヌ様の体調不良は?」
クレアが反論した。
「もしかしたら…」
更なる可能性が浮かんだが、口にするのをためらった。でも、これが一番自然な説明かもしれない。
「カトリーヌ様、妊娠しているのかもしれないわ」
「「えっ⁉」」
ソフィアとクレアが同時に声を上げた。
「朝の吐き気、疲労感、頭痛…すべて当てはまるもの」
そう言いながら、私は自分の推理に確信を持ち始めていた。
「そして伯爵は、カトリーヌ様のために特別な薬——つわりを和らげる薬——を用意しているのかも」
「じゃ、じゃあ、封筒を渡した女性は?」
「薬師の娘かもしれないわ。伯爵は公にせず、民間の知恵を借りたかったとか……」
この説明なら、すべての疑問が解決するような気がした。
「一理ある」
クレアはそう呟いてスコーンを頬張った。
——そうして、私たちは夜通し議論を続けた。
ソフィアは恋愛スキャンダル説を、クレアは政治的陰謀説を、私は妊娠説をそれぞれ熱心に主張し合った。
部屋の中央のテーブルに、カトリーヌ様の頭痛薬の小瓶が置かれていた。
クレアが持ってきたものだ。彼女がどうやって手に入れたかは聞かないでおこう。
「これを調べるべき。もし毒だったら……警備隊に即通報必須」
「でも、毒なんてどうやって調べるのよ?」
「庭師のジョゼフに頼めば、調べてくれるかも。彼は薬草に詳しいわ」
これは良いアイデアだと思った。
ジョゼフは私がよく話す庭師で、薬草の知識が豊富だ。
カトリーヌ様の安全のためにも、まずは確認すべきだろう。
薬の小瓶を巡り、私たちの深夜のお茶会は新たな段階へと進んだ。
今夜は単なる噂話で終わらないかもしれない。
「これ、単なる噂話じゃない……」
クレアが真剣な面持ちで言った。
「カトリーヌ様の命が危険かも」
その時、廊下から足音が聞こえてきた。
心臓が跳ね上がる思いがした。
「誰かいるわ!」
ソフィアが息を呑んだ。
急いでランプを消し、物陰に隠れる。
息を潜めていると、足音は次第に遠ざかり、危険は去っていった。
三人で安堵の息を吐く。
「明日、ジョゼフに薬を見せましょう」
二人がコクンと頷く。
「そして、皆でカトリーヌ様の様子をもっと注意深く観察するのよ」
* * *
翌日、庭師のジョゼフに薬を見せた。
彼は注意深く匂いを嗅ぎ、少量を舌で味わった後、安心した表情を見せた。
「これは上質の薬草を使った頭痛薬だな。特別なのは確かだが、毒じゃない」
「本当に?」
半信半疑だった。クレアの話が頭から離れなかった。
「おいおい、聞いといて疑うのか? ラベンダー、カモミール、それに…珍しいハーブも入ってるな。南の国から来たものだろう。高価なものだ」
「そうなのね、ありがとうジョゼフ、助かったわ」
「ああ、これくらいなんでもないさ」
少し安心したものの、まだ全ての謎が解けたわけではない。
伯爵の真意、カトリーヌ様の体調不良の真の原因、そして市場での出来事——すべてが繋がっているはずだと感じていた。
* * *
翌々日、クレアからの知らせを聞いて驚いた。
彼女がカトリーヌ様の身支度を手伝っていると、突然めまいを起こしたという。
クレアが支えると、カトリーヌは弱々しく微笑んだそうだ。
「大丈夫よ、いつものことだから…」
「いつも、ですか?」
クレアは心配そうに尋ねた。
カトリーヌは一瞬ためらった後、クレアの誠実な目を見て決心したように話し始めた。
「実は私、幼い頃から持病があるの。頭痛だけじゃなくて、発作を起こすこともあるのよ……。父上はそれを弱みだと思って、誰にも知られたくないみたいだけど……」
「じゃあ、あの薬は……」
クレアが言いかけると、カトリーヌは驚いた表情を見せた。
「ああ、伯爵からいただいた薬ね。彼は母上が同じ病気だったから、良く効く薬を知っていたの。私の病気を本当に心配してくれるのは彼だけ……」
カトリーヌの表情が柔らかくなったのを見て、クレアは心の中で「エウレカ!」と叫んだそうだ。
その夜、再び秘密の場所に集まり、それぞれが発見したことを共有した。
真相が少しずつ明らかになっていく。
「伯爵様は悪人ではなかったのね」
ソフィアは「良かったぁー」と胸に手を当てる。
「私の恋愛スキャンダル説は外れたわ」
「陰謀説も間違いだった……」と、クレアが認めた。
「エマの説も残念」
「ええ、妊娠ではなかったけれど、体調不良の理由が分かって良かったわ」
私はそう言った。
赤ちゃんが見れないのは少し残念な気もしたが、カトリーヌ様に危険が迫っていないことが分かって本当に安心した。
「それにしても、伯爵がカトリーヌ様のために特別な薬を用意していたのは本当だったのね」
「でも、マーケットの女性は? 封筒はなんだったの?」
ソフィアがまだ気になる様子で尋ねた。
「ヴァレンティン男爵の子息は医師……もしかしたら、伯爵はカトリーヌ様の治療のために、政敵の息子に協力を求めたのかも」
クレアがそう推測した。
「かもしれないわね」
考え込んだ。謎はまだ残ったままだ。
「でも、マーケットで会った女性は?」
「明日、もう少し調べてみましょうよ」
ソフィアが提案した。
誕生日前日、ソフィアからの報告を聞いた。
彼女は偶然にも、マーケットで伯爵が会っていた女性を見かけたという。
薬草店から出てくるところだったらしい。ソフィアは勇気を出して声をかけたそうだ。
「あの……突然すみません、私、宮廷で勤めております、ソフィアといいます。失礼ですが、あなた様はアレクサンダー伯爵とお知り合いなのでしょうか?」
女性は驚いたが、優しく微笑んだ。
「ええ、私はエリザベスといいます。母が伯爵家の専属薬師だったもので……」
「失礼ついでにもうひとつだけ聞かせてください! 伯爵様に何かを渡されていましたよね……? 数日前に」
「ああ、あれは…」
エリザベスは少しためらった後、続けた。
「伯爵様が特別注文されたものです。カトリーヌ様への贈り物に関わることで」
「贈り物?」
「それ以上は言えません」
彼女は笑った。
「でも、明日には皆さんにも分かるでしょう。では——」
そう言って、エリザベスは会釈をした後、去って行ったという。
すべての謎が解けるのは明日か——そう思うと、胸が高鳴った。
* * *
誕生日の朝、私たち三人はカトリーヌ様の身支度を整えていた。
彼女は今日はとても健康そうに見えた。
「今日は特別な日ですから、この髪飾りはいかがでしょう」
提案しながら、心の中では伯爵からどんな贈り物が用意されているのか、期待に胸が膨らんだ。
「ありがとう」
カトリーヌは微笑んだ。
「伯爵様が今日、特別な贈り物をくれるって言ってたの。何だろう?」
知らないふりをしながら、内心では微笑んだ。
庭園での祝賀会。アレクサンダー伯爵が皆の前でカトリーヌに近づき、小さな箱を差し出した。
「カトリーヌ、お誕生日おめでとう」
カトリーヌが箱を開けると、中には精巧に作られた銀のブローチがあった。
花と蝶のモチーフが施され、小さなアメジストが埋め込まれていた。
「これは……!」
カトリーヌの顔に喜びが広がった。
「ライラック色の宝石……私のお気に入りの色を覚えていてくれたのね! 嬉しいっ!」
「ああ、町一番の銀細工師に特別に作ってもらったんだ」
伯爵は誇らしげに説明した。
「もちろん、デザインは私が考えたよ」
伯爵は皆を驚かせるように、もう一つの箱を取り出した。
「そして、もう一つ贈り物があるんだ」
彼はひざまずき、小さな箱を開ける。
中には美しい指輪が輝いていた。
「——愛している。カトリーヌ、僕と結婚してくれないか?」
場内がどよめく中、カトリーヌは涙を流しながら頷いた。
「はい、喜んで……」
部屋の端で、私たち三人は感動の表情を交換した。
密かに私の目にも涙が浮かんでいた。
* * *
その夜、いつもの秘密の場所で、私たちは興奮した様子で語り合った。
「予想外だったわ~!」
ソフィアは目を輝かせていた。
「まさかプロポーズまでするなんてねぇ! まだ先かと思ってたのに」
「ね~!」
私とソフィアが頷きあっていると、
「あのブローチには秘密がある」と、クレアがぽつりと言った。
「後でカトリーヌ様、教えてくれた。あの指輪、中に薬を入れられるようになってる。これでカトリーヌ様が急な発作に襲われても平気」
「なるほど……」
「ふぅん」
大きく頷きながら、すべてのピースが繋がった感覚に満たされた。
「だから、伯爵はあの薬師の娘に会っていたのね。彼女から特別な薬を受け取っていたのよ」
「あと、マーガレット様との会話も誤解だったわね」と、ソフィアが笑った。
「『あの娘とはいつ別れるの?』って聞いたのは、伯爵の妹のことだったのよ。彼女が宮廷に来ているからって、カトリーヌ様が後で教えてくれたわ」
「私たちの推理、全部間違ってた……」
クレアは照れくさそうに言った。
「でも、楽しかったじゃない」
微笑みながら言った。
私たちの小さな冒険は、カトリーヌ様の幸せという最高の結末を迎えたのだ。
「そして何より、カトリーヌ様は幸せそうだったし」
「次は結婚式よね!」
ソフィアは興奮した様子で言った。
「ええ、きっと素敵な式になるわぁ!」
私たちは夜通し、結婚式の想像を膨らませながら話し込んだ。
お色直しのドレスはどんなデザインになるだろう、花嫁の髪型はどうアレンジしようか、会場の装飾は何色にしよう——。
侍女として実務的なことを考えながらも、まるで自分たちの結婚式のように楽しく話し合った。
いつの間にか、窓から朝日が差し込み始めていた。
「ちょ、ちょっと待って! もう朝なんだけど……⁉」
窓の外を見て、ソフィアが悲鳴のような声を上げた。
「あぁ……やっちゃったぁ……一睡もしてないのに」
「無理……」
クレアが倒れるように椅子に深く沈み込んだ。
「だ、だめよクレア!」
クレアを起こし、手早く食器を片付けながら、
「さぁ、走って! ほら!」と二人を急かした。
「もう、少しだけ眠らせてよ~!」
ソフィアが甘えた声を出す。
「うぅ……無理なのに……」
クレアは目を閉じたまま呟いた。
「早く行くっ! 朝の準備に間に合わないわよ!」
渋々、歩き出す二人に発破をかけながら、朝日に目を細めた。
カトリーヌ様は今日も元気だろうか。
結婚式の準備はいつ始まるのだろうか。
そして何より——新たな噂話が私たち三人を待っている。
でも、今日の私たちは、誰かの噂をするのではなく、カトリーヌ様の幸せを心から祝福する侍女たちでいようと思う。
少なくとも、今朝だけは。