猫令嬢はろくでなしの魔法にかかるー②
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目の前の業務用コンロには二つのフライパンが置かれていた。それらの火加減を慎重に調整しつつ、耕平は耳を澄ませる。
表面は綺麗に焼けているし、あとはタイミングさえ間違えなければ――。
ピリ、とタイマーが鳴り始めた瞬間。
(……っできた)
すべての口の火を止め、それぞれのフライパンから焼き上がったそれをお皿にぽん、ぽん、と乗せていく。
「ぉぉ~……」
星川さんが嬉しそうな声を上げるのが聞きながらも、綺麗に重なった生地にバター――少しいいやつ――を乗せ、メープルシロップ――こっちだってちょっとお高い本物だ――を上からかける。
最後にフォークとナイフをお盆に乗せて――。
「お待たせしました。完成しましたよ、ホットケーキ」
先輩の前にことりと置いた。
「メープルシロップは足りなかったらそこのを使ってくださいね」
「ぁぅ……っ」
それを目にした途端、先輩がわずかに緊張するのがわかった。しかもわずかに顔を背けるような。それでいて目はホットケーキを凝視している。
奇妙な反応をいぶかしんでいると。
「ずるい! 私も食べたいのに!」
相当期待していたのだろう、星川さんが機嫌の悪そうな声を上げ始めるが。
「ごめんね、一気に二人分は作れないんだ」
一枚ずつ焼いては重ねていったらどんどん冷めてしまう。一人分を同時に作るにはこれしかないのだ。
「三段重ね、ちゃんと作るから」
そして今度はフライパンを三つの口すべてに置き、また慎重に火加減を調整して温め始めた。
◇
一方、宮古は目の前に置かれたホットケーキをじっと見つめていた。
(うぅ……とうとうできちゃったのね……)
二段重ねのホットケーキは絶妙な焼き加減で、ふわふわと湯気が上がっている。
その上に乗ったバターはじわじわ溶けだし、シロップと一緒に混じりながら生地の上を広がっていく。
うっとりするような光景だ。
よく焼けた生地とシロップ、バターが混ざり合う匂いも強烈に胃袋を刺激する。
(でも、でも……これを食べたら……あたしっ、こいつに……)
完全に篭絡されてしまう。そんな確信があった。
それなのに、胃袋はもう篭絡されたがっている。これを食べたら二度と引き返せないとわかっているのに。
「どうしたんですか? せっかくだから熱いうちに食べてくださいね」
「早く食べなよ。そらが頑張って作ったんだから」
キッチンの向こうで期待を込めてこちらを見る少年と、隣で頬杖をついて不機嫌そうにこちらを見るギャル。その視線に逆らえず、渋々フォークとナイフを取る。
「……わかってるわよっ、食べればいいんでしょ、食べればっ」
半ば苛立ちまぎれにナイフを生地に入れると、微かに沈み、切り分けた部分がもちっと柔らかく形を取り戻す。絶妙の弾力だ。
(うぅ……こんなのおいしいに決まってるじゃない……っ)
そして切り分けた一部にフォークをさして持ち上げると、シロップとバターがとろりとこぼれ落ちた。口の中によだれがあふれる。
これを食べたら最後だ。
(くぅぅぅ……お父様、お母様、姉さん達、ごめんなさい……っ)
半ば諦めにも似た感情を覚えつつ、宮古はそれを口に入れた。
途端、口の中にあふれる生地の香ばしさと風味、シロップの甘さ、濃厚なバターのこく、もちもちの生地だって自分好みだ。
「んぐ……んっ、んぐ……むぐ……」
そしてまだひと口目も飲み込まないうちに次をナイフで切り分け、また口に詰め込む。
そしてまたひと口――。
もう自分でも止められなかった。
「どうですか? 気に入ってもらえましたか?」
「…………」
その言葉に、宮古の手が止まる。
次の瞬間、ぶわっ、と目から涙があふれ出た。
「くっ……ひっく、っく……」
「先輩?」
「……………………おいしい」
敗北宣言は嗚咽に震えていた。
それなのに、手は止まらない。泣きながらまた切り分け、口に運んでいく。
「泣くほどおいしいんだ?」
「むぐっ、んぐ……悔しくて泣いてるのよっ、おいしいけどっ」
自分でもわけのわからない感情だった。
涙が出るほど悔しいのに、おいしくて、諦めにも近い投げやりな感情が渦巻いている。
「えっ、あの、気に入らなかったら作り直しますから……」
少年は本当に心配そうにこちらを見ている。
自分が何をしたのかもわかってないのだ。
(このろくでなし……)
今ならまおが口にしていた言葉がわかってしまう。
『食べた人間を夢中にさせてしまうような――』
苦労しているのも見せず、こっそり試行錯誤して、時々探りみたいな料理を出して、気づかないようにじわじわかけていたのだ――この食べ物に。
「うっ……くっ、ひっく……んぐ、えぐっ……こんなの、たかがんぐ、小麦粉とか、牛乳とか、卵を混ぜるだけじゃない……むぐ、ひっく、あといろいろ」
「えぇ、本当にそれだけですから……殻とか入っちゃいましたかね」
「ホットケーキミックス買えば、ひっく、あたしだって、作れるんだから」
「本当に作り直さなくていいですか?」
「いい……」
少年は相変わらず心配そうに、こちらとフライパンを交互に見ている。
きっとこのお店にきたときからこうなると、あたしの運命は決まっていたのだ。
そんな感情の昂りのまま、夢中でホットケーキを食べ続けた。
☆
(泣くほどおいしいのかな……?)
その横に腰かけるまおは妙な気分でその様子を見守っていた。
確かにそらのつくるご飯はおいしいけど、泣くほどのことなんてそんなにない。
第一、食べれば嬉しいとか楽しいとか、そっちの方が先だ。
(……オムライスのときは泣いちゃったけど。あれは特別だし……)
何しろあれはそらが頑張って作った『魔法の――。
瞬間、妙な予感がざわっと背筋を駆け上がってくる。
(あれ? それって……)
「はい、お待たせ。星川さんには約束通りの三段重ねだよ」
「……っ!」
しかし、目の前にとん、と皿が置かれた途端、もう意識はそちらに集中していた。
皿の上には三段重ねのホットケーキが湯気を立てている。シロップも、バターも溶けかけていて、いい匂いがしてくる。
「冷めないうちに食べてね」
「ん、いただきます!」
宮古が泣いていても、私の前にはホットケーキがあるのだ。
難しいことは食べてから考えればいい。早くも思考を食欲に支配されたまおはフォークを手に取るのだった。




