猫令嬢はおうちに帰る
夕刻――。
「本当に怒られたりしませんか?」
「大丈夫よ。晩ご飯までに帰れば」
「それならいいんですけど……」
ああでもないこうでもないと先輩の愚痴を聞いていたら、いつの間にかこんな時間だ
とはいえ、夏の陽はまだ暮れかける気配もなく、店の前は相変わらずの熱気が残っている。
「あたしが好きで話したんだから、あんたは気にしなくていいって言ったでしょ」
「はぁ……」
自分がお茶を出したせいで先輩を長居させ、結果的に怒られることになったら――。
耕平としては気が気でないのだが、先輩はずいぶんさっぱりしている様子だ。と、急に何かを思い出したらしい。
「……それと、今日のことは一応まおには言わないほうがいいわね」
「? そうですね。お茶とお漬物くらいですけど、星川さんも食べたがりますから」
「そうじゃないんだけど……まぁ、それでいいわ。今日のことは二人の秘密よ」
先輩は何やら納得いかなそうだったが、やがて諦めたのか溜息をついた。
星川さんがそこまで食い意地が張っているとは思わないけれども、きっと先輩なりの考えがあるのだろう。
やがて先輩は日傘を開いた。
「それじゃ、今日はお茶をご馳走様。おいしかったわ」
「いえ、お茶くらいしか出せなくてすみません。明日からはちゃんと営業するんで放課後に来てくださいね」
耕平の言葉に先輩はふわっと柔らかな笑みを浮かべたかと思うと、鷹揚に頷き。
「次は甘いものを出してちょうだい」
それだけ言って、小さな歩幅ながらも優雅な足取りで歩き出した。
その後ろ姿が路地の曲がり角に消えるのを見送っていた耕平は、やがて店の入り口近くにある水道場に向かう。
(頑張らなきゃ)
気位が高いのは相変わらずだけど、話を聞けば先輩だって自分とは知らない苦労をしているし、そんな中でもわざわざお店に寄ってくれているのだ。
やっぱり喜んでほしいし、また来てもほしい。そのためにも上達しなければ。
(甘いものか……何にしようかな)
そんなことを考えながら、ホースで水を撒き始めるのだった。
◇
玄関ドアのレバーに手をかけた宮古は緊張しながらそっと手をかけ、慎重に押し下げていく。鍵がかかっていなければ――。
(予定通りね……)
多恵――お手伝いさんの名前――がちゃんと鍵を開けておいてくれたみたいだ。レバーはそのまま下がりロックが外れる感触。またドアが軋まないよう、ほんのわずかに――自分の身体が通れるぶんだけ――隙間を作った宮古はするりと家の中に入り、耳を澄ませる。
「…………」
誰の気配もない。
日傘を他の傘に紛れ込ませて置き、サンダルを脱いだ宮古は玄関に上がり、それを掴んではだしのままひたひたと自室へと向かう――外出用のサンダルは見つからないよう部屋に隠しておくことにしているのだ。
よく磨かれた床はどこを踏むと音が鳴るかもわかっている。
それを慎重に避けながらやがて階段にたどり着き、つま先立ちで上がっていく。
と――。
半分ほど上がったところで、階下で誰かがドアを開ける音。
出てくる足音でわかった――父親が探し回っている。
「……っ」
途端、音を殺しつつ階段をぴょんぴょん駆け上がった宮古は手近な部屋――姉妹の部屋――のドアを開け、するっと入り込んだ。
「…………っ宮古?」
中にいた人物はのんびりと棚を片付けていた。突然の侵入者に驚いたようだが、それが妹だと知ると途端に表情が険しくなる。
「あなた、また逃げ出したでしょっ、お父様が探してたわよ?」
「しーっ! あとで説明するからちょっとだけ匿って……!」
口に指を当てて詰問する姉をかわし、宮古はこそこそとベッドの下に潜り込む。
頭上で姉の溜息が聞こえた。とりあえず匿ってはくれるらしい。
(今日はなかなか楽しかったわね)
ベッドの下で息を潜める宮古はくすくすと控えめな笑い声を上げる。
ご飯は食べ損ねたけど、お茶はおいしかったし、言いたいだけ言って結構すっきりしたし。まおにはちょっと悪かったけど、今日だけだ。
そんなことを考えていると、くぅ、と微かにお腹が鳴る。
(晩ご飯は和食だといいんだけど……)
自分を探す気配が消えるまで宮古はベッドの下で空腹をいなし続けるのだった。




