猫令嬢は逃げ出したい
◇
休日の昼下がり――。
既に夏本番を迎えつつあり、外はうだるような暑さの中。
外出着に着替えた宮古は大きな玄関の隅でこそこそとサンダルを履いていた。
そして重厚なドアをそっと開けようとしたとき。
「あら、宮古様、どちらにお出かけに?」
「しーっ!」
振り返った宮古は口に指を当て、声をかけてきた人物をたしなめる。
やってきたのはお手伝いの女性だった。彼女は悪びれることもなく、エプロンで手を拭きながらぱたぱたやってくる。
「午後から佐倉先生がいらっしゃいますよね。今日はちゃんとお部屋にいた方がいいんじゃ……?」
「いいのよ、放っておけば。私が頼んだわけじゃないしっ。お茶でも飲んで帰れば?」
家庭教師の名前を出され宮古は思わず歯噛みする――だから逃げ出そうとしているのに。どうせ大学には推薦で入るだけだし、興味のない勉強をさせられるほど苦痛なことはない。
そんな宮古に女性は困った様子だ。
「またそんなこと言って……そろそろ旦那様に外出禁止にされますよ? 本当に心配していらっしゃるんですから」
「それはわかってるけど、私は私の好きなところに行くわ」
宮古の言葉に女性の目がわずかにすがめられる。
ずっと世話をしてきた少女のことなら何でも見通すような目だ。
「……宮古様、最近どこで何を食べてきてるんですか?」
「えっ? どうして――」
「シャツに染みがついていましたよ。お洗濯のときに気づいたので消しておきましたけど。お小遣いもそんなにないでしょう」
「あぅ……」
かなり綺麗に食べたつもりだったのに。やっぱりこの人は誤魔化せない。
宮古はしばらく言いあぐねていたものの。
「いいのっ、私は私の食べたいものを食べるっ。お小遣いの心配ならいらないし、晩ごはんだっていつもちゃんと食べてるでしょ?」
「それはもちろんよくお食べになっていますが……」
「じゃあ、いいじゃない。今あなたは何も見てないし、誰とも話してない。あとで鍵よろしくね」
「はぁ、しょうがないですね……」
そしてこの人は最後にはやっぱり味方をしてくれる。
いつもこっそり出かけたあとはいいタイミングで鍵を開けておいてくれるのだ。
そして今日も日傘をそっと差し出してくれた。
「晩ご飯までには帰ってきてくださいよ」
「うん、ありがとう」
それを手にした宮古はドアを開け、熱気の中に飛び出すのだった。
★
同刻――。
少しでも熱気を和らげようと、耕平が店の前にホースで水を撒いていると。
「おぅ、耕平くん。今日も暑いねぇ」
「あ、斎藤さん。ご無沙汰してます。脚のお加減はどうですか?」
「いやぁ、最近ようやく歩けるようになってね。運動不足解消にちょっと歩いてるんだよ」
「また元気になってうちにも来てくださいよ」
水を止めた耕平は通りがかった男性と何気ない言葉を交わす。
口下手な彼には得意ではないものの、常連客を捕まえておくためには必要なことだ。もちろんそんないやらしい考えだけでなく、こうして声をかけてくれる男性の存在はありがたくもあったが。
と、男性が――誰に聞こえるわけでもないのに――何やら秘密めいた口調になる。
「最近、可愛い常連さんが来てるんだって?」
「? ……あぁ、多分俺の知り合いです」
一瞬、何のことかわからなかったが、耕平はすぐにその存在に思い当たった。
店に来ている常連客から伝わったのだろう。
「耕平くんが胃袋で二人とも捕まえたって評判だよ」
「はははっ、だといいんですけどね。じいちゃんの手伝いをしながら勉強するだけで精一杯ですよ」
「なかなか営業トークもうまくなってきたじゃないか。感心、感心」
そして男性は耕平の肩を叩いたかと思うと。
「それじゃ、頑張ってね」
それだけ言って、少しバランスの悪い足取りで去っていった。
ぺこりと頭を下げた耕平はしばらくぼんやりとその姿を見守っていた。
「…………」
星川さんも先輩もよく来てくれているけれども、実際のところ自分が上達したかどうかはよくわかっていない。祖父に叱られているのは相変わらずだし。
――あれの仕入れ量が多すぎるだの、これの水加減が少なすぎるだの。
自分も必死でやってはいるものの……。
そんなこと考えながら、また蛇口をひねり水を撒こうとしたとき。
「人にかけないように気をつけなさいよ」
その声にはっとして顔を上げると。
「あ、先輩。今日はお出かけですか?」
「……まぁ、ちょっとね。通りがかったから寄ってみたんだけど。今日はお店やってないのかしら?」
いつものベレー帽の代わりに日差しを避けるためのつばのついた帽子。
制服の代わりにシンプルな薄いオレンジ色のワンピース。
あまりごてごてしていないけれども可愛らしい装飾のされたサンダル。
身長に比べて少し大きめの日傘。
明るい色のショートヘアが服装に似合っていて、まさに夏のお嬢さんという感じだ。
「すいません。せっかくなんですけど、今日は店の片付けで臨時休業なんですよ。じいちゃんも出かけてて……」
「……いいわよ、別に。通りがかっただけだし」
そう言うものの先輩は帰る気配もなく、落ち着かなげに日傘をくるくる回している。落胆しているのは耕平の目にも明らかだった。
きっと期待してわざわざ寄ってくれたのだろう。
「よかったら飲み物だけでもどうですか? 暑い中寄ってくれたのにそのまま帰ってもらうのも悪いですし……」
「あら、そう? そこまで言うならお言葉に甘えようかしら」
その言葉を待っていたかのように先輩の表情が明るくなり、そして鷹揚に頷くのだった。




