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杏郷時代

作者: 森川めだか

杏郷時代

    


「馬鹿だな」と笑った。

晩春。

気付かない間に街が新しくなっていた。

変わらずに掃除し続けてる人もいる。

(ひじり)は故郷に帰って来た。

屍は母の「女性にも教育を受ける権利があるはずだ」を後押しに森口高等師範学校に通っている。

母のお(こん)は故郷で「霊感商法」をやっている。

(ゆき)(つぼ)くん、アウフヘーベン分かるかな?」

「対立する二つの矛盾を・・」

「二つの対立を、だ。その続きは?」

「より近づけることです」

「高みに、で、だ。二つの対立を高みでより近づけること。いいね?」

尾張の国から来た屍は珍しがられた。

森口高等師範学校は島根にある。

男女共学になるという話だ。

座敷で待っていると、お紺はまだ祈禱をしている最中だった。

「君たちも子供に教えるなら子供の気持ちにならないといけないよ。子供たちが何を知りたがっているのか、どんな事に興味を持っているのか。それを高みに近づけることが教師の役目だ。いいね?」

「産めばよろし」お紺の声が聞こえてきた。客は裏口から出る。

襖が開いた。

「来てたんかい」

「今日帰るって言ったじゃない」

お紺はリンを鳴らして亡父に手を合わせる。

座敷から見える祈禱のお部屋には摩訶摩耶夫人の掛け軸が飾ってある。

「ねえ、お母さん」屍は膝を詰めてお紺に擦り寄った。

「私、あの学校辞めたい」

「どして?」

「だって、共学になるんだもん」

お紺は笑い飛ばした。

「女の幸せは子供を産むことだ。産んで育ててその子に負われるまで添い遂げることだ。男なんて」

屍のつかえはもっと別の所にあった。

この頃ずっと一人で飯を食べている。

ぼっち飯と言うらしい。それも陰口で知った。

二つの机をくっつけて食べる飯は侘しい。

皆、ツーピースで隠しているけど腹の底は知れない。

屍はいつも闘う目をしていた。

頭に来る。

佐藤(さとう)()緒里(おり)のように・・。


「色が白いねー」志緒里は始めから関心を示してくれた。

内向的だった屍に島根を案内してくれたのも志緒里だった。

「ここでは、十月のことを神在月って言うんだよ。他のとこでは神無月でしょ? 神さんたちがここに集まって相談するからかみありづき」

「何を相談するの?」

「違かったかな、宴会かな? そもそも屍は神さん信じてるの?」

「だって、うちのお母さん占い師だもん」

志緒里は笑いころげた。

「運命を信じますか?」ちょっと深刻なふりをして志緒里は顔を近づけた。

「運命は信じない」

「何でー」

「嘘だもん」

「自分が自分だったら嘘じゃないよ」

志緒里が逐電したのは神在月の前の晩だった。

志緒里の父は作之助(さくのすけ)、母はのぶ()という。

S字カーブを抜けるとすぐ志緒里の家がある。

作之助は車夫をしていて、八坂神社にも度々連れて行ってもらった。

八坂神社は立派なお社でいつ行っても空いていた。

「ここに神様が集まるの?」

「パンクしちゃうよ」

志緒里は笑った。

志緒里が逐電した頃には上へ下への大騒ぎだった。

学校では、男と逃げたに違いないと嫉妬する向きもあった。

女子校の恐ろしい所だ。自分だけはモテたいくせに他人がそうなると急に批評家ぶる。

知人なら尚更だ。

頭に来る。

共学になると決まって、キャーキャー言ってたのは喜んでいたからか。

いやよいやよも好きのうちか。

屍が故郷に帰る頃には佐藤姓になっていた。

引き取られたのだ。

志緒里の家は豪家だったので、マスオさんがどうしても必要だったのだ。

佐藤屍のアイスキュロスばりの悲劇はここから始まる。

お紺は「家が二つになって良かったじゃないか」と言った。

屍の中では母はお紺だけだったので今でも甘える。

佐藤家は雪壷の家とは勝手が違った。何と言うか運命共同体のようなものでいちいち許可を取らないといけない。

イニシアチブを握っているのはのぶ代の方で作之助は引き揚げ船から戻った時のことを延々と語る機械のようだった。

あやまたず朝な夕なにひがとぼる、佐藤家に移る際にお紺が作ってくれた句だ。

どういう意味か知らないが、あんたの選んだ道は間違っちゃいないよ、という意味だろう。

何が入ってるんだろう、と覗いてみたらルッコラが入っていた。

仕切り直しという意味だろう。

屍は健康優良児だったがただ一つ、夜尿症という欠点があった。

寝小便と言えば可愛いが就寝前に水を控えるほど気にしていた。

屍には志緒里の部屋が割り当てられたが他にも部屋がいくつかありそのほとんどは死んでいた。

行路病者が風葬になるように、志緒里が帰って来ても絶対入れてやらんと豪語していたがヤヌタという男から封書が届いた日から風を入れていた。

送り先は薩摩長州となっており額田(ぬかだ)と汚い字で書いてある。

どこのサツマイモか知らないがかるかんも一緒に入っていた。

やっぱり男と逃げてたんだと新鮮な驚きと共に失楽園は青りんごの家系図。

家系図?

ヤヌタの手紙には長々と家系図まで同封されていた。手紙より多いくらいだ。何せ天照皇大神から始まっているのだから。

送り主である額田ヤヌタの上には、スメラのみことと崩し字で書いてある。

それによるとヤヌタはあの足利尊氏に追放された南の天皇の直系の子孫だという。

私たちはかるかんを食べながら、「偉い人が来た」と話した。

「悪いヤツに騙された」と思っているのは私だけのようだった。

その手紙には志緒里のことは書かれていなかったがかすかに煙草の匂いがした。

そんな男にひっかかったのか。

私が志緒里の身代わりになっているというのに。

かるかんはひとつも天皇の味はしなかった。


「ねえ、何で私まだ佐藤なんだろう?」

手紙を追うように志緒里は帰って来た。ヤヌタと一緒に。

車夫だった作之助はすっかり騙され、のぶ代はシミ抜きに余念が無かった。

「あんたはなよ竹から生まれたんだよ」

「またそういう事」

屍は亡父の記憶がない。

「じゃ、お母さんは物の怪だ」

「そうだよ、母親なんてね物の怪になんなきゃ務まんないよ。あんたも早く家を出な」

屍はあまりイメージが湧かない。

「出戻りになったら許してくれる?」

「子供だけは自分の物にしなよ。あんたは摩訶摩耶夫人様になるんだからさ」

「私のことも占ったの?」

「内々のことはちょっとだけよ」

「お父さんとは上手くやってたんでしょ?」

「あの人はいい人だったから」お紺は思い出したようにリンを鳴らした。

電車は混み合っていた。

島根に戻るのはちょうど神在月になっていた。

「お降りの方は前の方にお詰めください。停まるまで立たないでください。入り口付近は大変混み合いますから中の方へお進みください。座席は譲り合って空いている席が出ないようご協力願います。もうすぐ八坂神社前・・」

詰め合うと隣の席に誰か乗ってきた。

「あれ? 屍ちゃんじゃない?」

この馴れ馴れしい口調はヤヌタだ。

前髪を目元まで垂らし後ろに結んでいる髪型がうるさい。

屍は風林火山のように動かなかった。

「紫禁城行ったことある?」

「私、鹿児島じゃないので」

「鹿児島じゃないよ、中国だよ」

「何かのツアーで行ったんですか?」

「うん、香港ツアー」

香港って中国だっけ?

ヤヌタは自分がどれだけ高貴な生まれかのべつまくなしに野卑た口調で語り始めた。

「あの尊氏の野郎め、死んでせいせいしたよ」

ヤヌタが肩に手を回してきた。

「志緒里より可愛いよね」

「その嘘いつ終わりますか?」

ヤヌタは凍り付いた。

「お釣りは出ませんので・・」

「ここどうぞ」ヤヌタは八坂神社で降りて行った。

頭に来る。

誰かが窓を開けた。

光る風が私をつかまえた。



 志緒里が死んだ。

「赤いスイートピー」という遺書を残して。

私はその時授業を受けていた。何かが横切ったと思ったら泳いでるみたいに斜めに落ちていった。

校舎では伝書バトを飼っている。そこから飛び降りたのだ。

ヤヌタは葬式にも参列しなかった。

もうその頃には知っていたのだが、ヤヌタはおしゃべりな上海娘に乗り換えていた。

志緒里の遺品は携帯電話のみだった。最後の履歴は伝言。

1417にかけてみると「お伝えする内容はございませんトゥルル」

「血の海だ」志緒里はあちこちにちらばっていた。

作之助は嘆き悲しんだ。

志緒里の体は伝書バトのように空に逃がした。

神も仏もあるものか。

神在月の最初の週は頭に来る終わり方だった。

屍はぐい吞みで酒を飲んだ。

ババ抜きをしようと思い立った。

嘘を暴いてやる。

アウフヘーベンで誰が愛されるべきか神に決めてもらおう。

「作之助さん」

「話があるんだが・・」

「その前に、引き揚げ船っていってたけどどこだっけ?」

「いやあ、それは・・」

「嘘でしょう? ずっと前から車夫でしょう? 島根に住んでたら分からないですよね」

作之助は新聞のお悔やみ欄を見ていた。

「のぶ代さん」

のぶ代は作之助の服にアイロンをかけていた。

その目は濡れていた。

のぶ代の服はシミだらけだ。

「何でそんな汚れた服着てるの?」

「これしかないから。私はいいんだよ」

屍は遮光カーテンに仕切られたドレッサーを開けた。

「じゃあこれ何?」

買ってから一回も着てないテラテラした服が下げてある。

「作之助さんが死んでから着る服?」

屍はファーの襟を掴んで引き裂いた。「これもこれもこれも」

息を切らした屍をのぶ代は見ていた。

「いつか志緒里に・・」

「サイズが違うじゃない!」

「あの子も太るから」のぶ代は目を覆った。

「生きてたらね」

屍は頭に手をやって電話をかけた。

「もしもし、お母さん?」

熱はないみたいだ。

「学があるって言ってたけど、お母さんの学ってなあに?」

目を閉じて聞いていた。

「信じたいから来てるんでしょ! 信じたい人しか来ないんだよ!」

受話器をガチャンと置いた。持ち手の花柄の再利用が悲しかった。

これで誰が愛されるべきか決まった。

私だ。

女は答えを決めてから聞くから。


海泣き。

怒涛のごとく怒りや憎しみが悲しみに変わった。

今朝、作之助に話をされた。

私は腹にしか過ぎなかったのだ。

志緒里の種と私の腹で借り腹をするらしい。

スペルマはヤヌタではない作之助のだ。

象徴としての土手。

屍はポークビッツを食べられなくなった。

せっかくのぶ代がタコにしてくれたというのに。

皆、サリバを探している。

屍は空を見た。

「そこにいるんですか?」

屍は夜尿症が収まったことに気づいた。

「佐藤さんどうかしたんですか?」

「私は雪壷です」

屍は鼻をすすって横を向いた。

そんな風に神在月は過ぎていった。


屍はやや緊張して、登壇した。

「皆さんこんにちは、今日一日は先生も勉強させてもらうつもりで頑張ります」

中等科に教育実習に来た。

「皆さんが先生の最初の生徒です」

屍は一人一人の顔を見た。

「我々はどこから来て、どこへ向かうのか」

生徒は屍の目を見ている。

「その答えは21ページにあります。開いて」

「コドモノクニ」を開く音がする。

「みんなで歌いましょう」

春の小川はさらさら流る。岸のすみれやれんげの花に、匂いめでたく、色うつくしく咲けよ咲けよと、ささやく如く

春の小川はさらさら流る。蝦やめだかや小鮒の群に、今日も一日ひなたに出でて遊べ遊べと、ささやく如く

春の小川はさらさら流る。歌の上手よ、いとしき子ども、声をそろえて小川の歌を歌え歌えと、ささやく如く

「皆さんは十月のことを神在月っていうの知っていましたか? 先生は私の先生から教わりました」

教育実習が終わって帰る時、別の教室からも歌声がした。

きらきらひかるおそらのほしよ

まばたきしてはみんなをみてる

きらきらひかるおそらのほしよ

みんなのうたがとどくといいな

きらきらひかるおそらのほしよ

まばたきしてはみんなをみてる

きらきらひかるおそらのほしよ

みんな考える事は同じだな。

帰って、「花とゆめ」を読んでいるとそのまま寝てしまった。

アウフヘーベンを教えるのはまだ早い。

子供は最初からやっていることだ。



 蒼穹の櫻。

木に春雲が映って櫻が咲いてるみたいだった。

ツーピースでは狭いので自分だけ体操服を着ている。

お紺とはあのまま絶縁状態が続いている。

私、お母さんになるんだよ。

病院の窓からもやはり櫻が見える。

生まれた子は男の子だった。

(なり)(あきら)と名付けた。

どういうわけか乳は張らなかった。

今は作之助とのぶ代に預けられている。

屍は茶房で杏仁豆腐を食べた。

八坂神社に立ち寄って木の匂いをいっぱいに吸い込んだ。

帰ると、志緒里がいた。風船のように。

ヤヌタとよりを戻したと言う。

「私、天国に行ったのよ。つまんないから酒ばっかり飲んでたらね、追い出されちゃったのよ」

「あ、そ」

「そしたらあの人ね、だました男がだまされる時はじめて・・」

屍は中座して斉彬に哺乳ビンを温めた。

斉彬はいやいやをした。

ガーベラが咲き終わる頃、まだ乳離れしない内から斉彬は話し始めた。

「この世界を続けるために生まれてきたんだ」斉彬の細かい歯のすき間から吐息が漏れる。

「人生は短いけれど引き金を引け」

屍は斉彬を志緒里に押しつけた。

屍は佐藤家を追い出される形になった。

「エンマさまなんでしょう?」志緒里の言葉に屍はいやいやをした。


共学になる日、屍は退学願いを申し出た。

詰め襟をした男の子が何人か恥ずかしそうに入って来た。一人、女子に愛想を振っている男がいる。

ヤヌタだった。


「もしもし、お母さん? ん、私」

チーンと向こうで音がした。

「ここまで急ぎ足で来たけど、ちょっと疲れちゃった。戻っていい?」

軽く肯くと、涙を拭いた。

屍は斉彬のことを告げずにいた。

「したっけ」


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