前編
玄関の扉を開けると、沈み始めた赤い日差しが差し込んだ。
青年は眩さに目を細める。
家路へつく子供たちの賑やかな声が、少しだけ肌寒い風に乗り耳へ届いた。見れば、敷石の上に長く伸びた影が、まるで人形劇のように踊っている。
今夜は特別な夜だ。
遊び終えたあとの家への足取りも、今日だけは軽くなろう。
空を見上げれば沈む日を追うように、村の奥にそびえる山の頂で細い三日月がぼんやりと輝いていた。じわじわと夜が迫っている。交じり合う赤と青の狭間は紫色に滲み、雲が渦巻く。
山あいを撫でるように吹き抜けた風に足元を冷やされて、ぶるりと身が震えた。
「すっかり秋も深まったな」
「ええ。ついこの間まで夏だったのにね」
振り向けば、妻が青年の上着を手にして微笑んでいた。
「それだけじゃ寒いでしょう」
「悪い、助かるよ」
「あとこれも」
上着と一緒に、薄紙に包まれた軽食を手渡された。ほんの少し端をめくってみると、朝の残りのバケットにハムと野菜が挟んである。
「ごめんなさい。チーズもあればよかったんだけど」
「いや、これで十分だよ。夕食までには戻るし」
さっきから、コトコトと煮込まれているパンプキンシチューの匂いが鼻先をくすぐる。切らしたチーズの代わりに、今夜は青年の好物を用意してくれているらしい。妻のシチューは絶品だ。今にも鳴りそうな腹の虫を抑え、上着に袖を通して騎士の証たる剣を腰に差す。
「エレノア様によろしくね」
「ああ、わかったから。奥に居ろって。身体が冷えたら大変だ」
「これくらい平気よ。さあいってらっしゃい」
薄着のまま玄関から身を乗り出す妻を気遣えば「心配性ね」と呆れたように笑われた。
「私よりも、あなたこそ気を付けてね。特に今夜は、怪物だらけだもの」
「ははっ。確かにそうだ」
妻につられて笑ってから、青年は家をあとにする。
それでも後ろ髪を引かれる思いで振り返ると、玄関の横に飾られた大きなカボチャの横で、妻はそれに負けないくらい大きなおなかをさすり手を振っていた。
この村の奥に広がる森には、ハロウィンの魔女がいる。
Halloween
Halloween
Happy Halloween♪
バケットを齧りながらいつもの道を進むと、弾むような歌声が聞こえた。毎年この日になれば村中に響くお決まりの歌。魔女を敬う気持ちを込めて、誰もがこの歌を口ずさむ。
他がどうかは知らないが、この地では、豊作をもたらすハロウィンの魔女にみなが敬意と感謝を抱いている。
おいしそうな夕食の匂いが漂う家々を見渡せば、その玄関先や庭には、青年の家と同じくたくさんのカボチャが飾られていた。どれも丁寧に目・鼻・口とくり抜かれて、各々個性豊かな表情が並んでいる。中身をくり抜いた空洞にはキャンドルが立てられて、内側から淡い光を放つカボチャのランタンが村中を飾りたてる。
青年は村の奥へ奧へと進んで行った。
次第に敷石から砂利道、最後にはただの山道を、慣れた様子で迷うことなく黙々と。
最後のひと口を頬張った頃、辺りはすっかり闇に包まれていた。日没はまだのはずだが、空を覆い隠すように枝を伸ばした木々に光は遮られ、この森はいつでも夜のような闇を纏う。紅葉で赤く色を変えた葉は闇色と混ざり合い、まるで血のような赤黒さで青年の頭上を覆いつくした。
ふと、前方でゆらゆらとおぼつかない灯りに気が付く。
おや。と眉根を寄せた青年に向かって、右へ左へとよろけながら山道を歩いてきたのは、横にランタンの灯りを掲げた宙を漂うカボチャだった。
訝しく思いしばし眺めていたのだが──近づくにつれて、暗がりの中カボチャの下に生える腕と足の姿形がハッキリと浮かび上がる。
近づいてくるのは、くり抜いた大きなカボチャを頭に被り、ランタンの灯りを手にして歩く少年だった。
「あ、騎士様だ」
「こんな時間まで何をしているんだ」
「へへっ、見てよ。いいだろこれ! 魔女ばーさんに貰ったんだ」
「失礼だぞ。エレノア様と呼びなさい」
「ばーさんがいいって言ったんだから、いいだろ」
青年の小言をあっさり流して、少年は頭のカボチャを自慢する。三角の右目に丸い左目、口元は右上の歯が欠けたなんとも個性的な顔をしたカボチャだった。
「もう夕食だろう。早く森を出るんだ。道はわかるな?」
「だーいじょうぶだって! 騎士様は心配性だなぁ」
妻と同じことを子供にまで言われてしまい、青年のなんとも言えない複雑な心情は険しく寄った眉根に現れた。
その間にも少年はカボチャの重みに頭を揺らしながら、村へ向かって再び山道を歩きだす。
「じゃあな騎士様ー」
ランタンの灯りが遠ざかり、消えるのを見届けてから、青年はさらに山道を進んだ。
次第に周囲は靄のような薄く紫に色づいた煙に囲まれ、同時に甘い匂いが立ち込める。世にある全ての甘味を煮詰めたような甘ったるさと、それでもどこか人を惹きつけるような蠱惑的な魅力を持つ不思議な香り。
魔女の住処が近いのだ。
靄をかき分けるようにして歩いた先に、その建物は姿を現す。
煙突が角のように二本突き出した三角屋根に、ズラリとカラスが並ぶ家。「カァ」と鳴く声が合唱のように響く。
屋根は板が一枚一枚、赤・青・緑・黄色……と、カラフルに塗られていた。主の趣味なのだろう。
蔓が伸びた壁はオレンジ色。その中に浮かび上がる真っ黒な玄関扉。
庭の畑には野菜だけではなく様々な薬草が生い茂り、家と畑は黒い板の柵にぐるりと囲まれている。正面の柵の一部には木板が取り付けられ、簡素な門となっていた。
鬱々とした薄暗い森の中に、突如として現れるあまりにも目立つ建物。
いつもランタンが吊り下げられている門の外灯が、今の時期はカボチャのランタンになっている。怒るように吊り上がった目とニイッと裂けた口元がいかにも生意気そうだ。
青年が門に手をかけると、横のカボチャがぐるりと顔を向けた。
「よう騎士様! 今日も時間ぴったりじゃねーの! お前は本当に真面目だなー」
ゲハゲハと笑うようにランタンが揺れる。訪ねて早々、無礼な言い様に青年はジトリと目を眇めた。
「まったく、今年のジャックは口が悪い。今夜くらいは大人しくしていたらどうだ」
「なーに言ってんだよ! 今夜だからだろ!? 今年はエレノアも気合入ってっからな、おかげで俺も気合入れて作られたもんでテンション有り余ってんだわ!」
みなぎるパワーを表すように、吊られたジャック・オ・ランタンはより一層ガッタンガッタンと跳ねるように揺れる。
しかし、青年は訝しそうに表情を変えた。
「気合が入っている?」
「欲しい菓子があるんだとよ」
どういうことだと尋ねかけたが──口を開くよりも先に、森の奥から飛んできた黒い群れが嵐のような勢いで青年に襲いかかった。
「なっ、なんだ!?」
バサバサという羽ばたきが幾重にも重なり視界を奪われる。あまりの勢いに腕で顔を覆うが、腕に何かがバシバシとぶつかってはまた飛んでいく。
薄眼で正体を伺えば、それは数えきれないほどの蝙蝠だった。
まるで一つの大きな黒い塊がぶつかるように飛んでくる。飛び去った群れを呆然と見送ると、彼らはカラフルな屋根の縁や庭の枯れ木の枝に次々とぶら下がった。
よくよく周囲を見れば、玄関前には門番よろしく黒猫が腰を下ろしていたし、二本の煙突は左右それぞれ緑と紫の煙を吐き出して、屋根は数十羽のカラスが占領している。
「揃い踏みだな」
「だから言ってんだろ」
カボチャをくり抜いただけであるはずのジャック・オ・ランタンの顔が、ニヤリと笑ったように思えた。
「今夜のハロウィンは特別なんだ」
門を抜けて黒い玄関扉の前に立つと、腰を下ろしていた黒猫がツイッと金色の瞳だけを向けてきた。
『こんばんは騎士様』
「こんばんはジブ。エレノア様はいるかい?」
『ええ、もちろん。どうぞお入りになって』
艶やかさを余韻に残して、ジブはゆったりと気品を感じさせる仕草で立ち上がり道を開けた。真っすぐと伸びた尻尾からは気高ささえ伺えるのに、彼女の声は妖艶な女性を思わせる。
「ありがとうレディ」
『どういたしまして』
柄にもなく、こちらまで紳士然とした動作と言葉使いになってしまうのも致し方ない。
扉をノックをすると、中から「いるよ」と声がした。それを確認してからギイと軋む扉を開けると、ジブがするりとしなやかな身のこなしで滑り込む。続いて足を踏み入れた瞬間、青年の身体中から汗が噴き出した。
室内は茹だるような暑さだった。
屋根の煙突へつながる二つの竈には、それぞれ大鍋が置かれてぐつぐつと煮えたぎっている。外から見えた緑と紫の煙はこれだったらしい。
「悪いねぇ、少しだけ待ってておくれ」
中にいたのは背を向ける銀髪の魔女。彼女がこの家の主だ。
言われるがまま、青年は部屋の中央に置かれたテーブルのイスに腰かける。あまりの暑さに、たまらず腕を捲って机上を見やれば、小難しそうな分厚い本が高く積み重なり、様々な呪文や魔法陣の描かれた羊皮紙が乱雑に散らばっていた。
この家は壁際の本棚にも、本だけではなく瓶詰にされた蛇や蜥蜴、多種多様な薬草が並んでいる。すべて魔術とやらに使うのだろう。
「お気遣いなく。これも仕事ですから」
「おや、そういえばそうだったのう」
堅苦しい返答に、魔女は背を向けたまま大きく肩を揺らして笑った。
彼女は青年がこの家に足を踏み入れてから、白塗りされた壁に向かって一心不乱になにやら書き込んでいる。その指には木炭が握られ、計算式のような呪文のような──どちらにせよ、青年には到底読み解けない文字の羅列が次々と描かれていった。壁が木炭の炭色で埋まっていく。
ぐるりと部屋の中を見渡せば、全ての壁が同じような有様だった。
「エレノア様こそ毎日毎日……ついに壁が埋め尽くされましたね」
呆れると同時に、ここまでくると言葉では言い表せない迫力を感じる。
「いつも、一体何を熱心に書いているのですか?」
問えば、魔女はようやく振り向いた。
「気になるかい?」
「これで気にならない訳がないでしょう」
キョロキョロとしていたら、額の汗をぬぐった魔女がもう一度大きく肩を揺らした。
しかしその恰好は、どうにも魔女に見えない軽装だった。
黒いタンクトップに、生足を存分にさらけ出した短いスカート。その端が乱雑にほつれているところを見るに、適当に短く切り揃えたのだろう。
だが、それがいやに似合っているのだ。
「素晴らしいだろう。今日のために書き上げたワシの力作だ」
ふふんと得意気に胸を張る。その姿はなんとも美しい。
ハロウィンの魔女エレノアは、口調は老婆そのものだというのに、外見は年若い美女だった。銀色の髪は絹糸のように艶やかに輝き、エメラルドグリーンの瞳はガラス玉のように透き通っている。肌にも瑞々しいほどの張りがある。
青年が初めて彼女と会った日から十数年。その姿はわずかも衰えていない。
「……十ヵ月かかった」
感慨に浸る声も、聞き入ってしまうほど耳触りが良い。
「これはのう、人生そのものなのだよ」
「人生……?」
心なしか慕情を灯した瞳で、白い指先が壁の文字を撫でる。だがその説明はあまりに抽象的で、青年は首を傾げた。
「ここなど特に苦労したが、この仕上がりは完璧だと思わないか」
「はあ……」
ついっと壁の一部を指されて聞かれても、曖昧な返事しか出てこない。どれも同じような文字の羅列にしか見えなかった。それよりも、青年にはうっとりと目を細めた魔女の横顔の方が、何よりも完璧に思えて目が離せない。
「そういえば、村の子供が遅くまでお邪魔していたようですみません」
「ん? ああいや、こちらこそすまんかったな。こんな時間まで引き留めてしもうた」
「いえ、ご迷惑でさえないのならば……」
頭を下げたら、ふっと噴き出すような吐息が聞こえた。顔を上げると、クツクツと喉を鳴らし身体を震わせる魔女の姿が目に入る。
「おぬしからそのような殊勝な言葉が出てくるとはな。おかしなものよ」
言いながら、魔女は青年の向かいの椅子に横座る。顔を向き合わせ、組んだ長い両脚はテーブルの外に投げ出された。愉快そうに目を細め、赤い唇が弧を描いている顔は美しかった。
「幼き頃、ここに散々入り浸っていたのはどこの誰だったか」
「まるで雛のようについて回っていたわ」
黒猫のジブがヒラリとテーブルに飛び上がり、艶めかしい声色で魔女に追随した。
青年は堪らず「う」と声を詰まらせる。二人にからかわれては多勢に無勢。青年は居心地の悪さに視線を泳がせた。
「あの生意気な子供が騎士になって戻ってくるとは、さすがのワシも驚いたものよ」
「ふふっ。紳士な仕草も随分と板についてきたもの。素敵よ」
相手の動揺に気付いていながらも、なお容赦ない主従に対し、いたたまれなくなった青年はついに頭を抱えた。
「もう、いいじゃないですか昔のことは……! 今日もなにも問題はないですね!?」
「ないな」
「なら良かったです!」
「騎士様も難儀だねぇ、こんな魔女のご機嫌伺いなんて」
「これも立派な職務ですから!」
半ば投げやりとも言える騎士の言葉にも、魔女は面白そうにニマニマとするばかり。
「さて。では今日の仕事はもう終わりかい?」
「エレノア様が問題なく過ごされているのを確認できたなら、俺の一日の仕事は終わりです。ということで、本日の騎士業はこれにて閉店です!」
言うなりバタンと卓上に突っ伏した。
仕事が終わってしまえば、これまでの騎士然とした態度ももはや必要ない。先の言葉通り、この魔女には騎士になる以前の子供の頃を全て知られている。
「なんだい、せっかくの騎士様が生意気な子供に逆戻りじゃないか」
「いいんです。今日はもう閉店したんですよ」
「そうかい。では茶にしようかの」
呆れながらも可笑しそうな吐息を落として、魔女は腰を上げると棚からグラスを取り出した。そしてキッチンに置かれていたガラスポットを手に取り、中身を注ぐ。
「久しぶりに、ポテトパイもいかがかな。昔よく焼いてやっただろう」
青年の前にグラス置いて、魔女が尋ねる。ゆるりと首を振って「いえ」と返した。
「道すがら軽く食べてきたので。それに──」
今夜は、パンプキンシチューなんですよ。と、心躍るまま口にした。
「……なるほど、それでは腹を空かせて帰らんとのう」
ふっ、と笑みをこぼした魔女が、再び向かいに座って頬杖をついた。
グラスを手に取ると、ひんやりと冷たい温度が嬉しい。相変わらず暖炉の炎が燃え盛っている部屋ではこの上なくありがたかった。……たとえ、その中身が謎の紫色をしていてもだ。
様々な薬草を調合して煮出している魔女のもてなしは、毎回色が違う。見たこともないほど鮮やかな青色だったときばかりはさすがに躊躇したが、今や慣れたものだった。味も毎回異なり毎度なかなか独特な風味だが、それも慣れた。
「夫人の調子はどうだい?」
「あ、それはもう、おかげさまで」
自然と声が弾んだ。グラスの中身をひとくち喉に流し込むと予想以上の苦味が広がったが、そんなことは気にならないほどの高揚で青年の頬は染まる。
「ずっと臥せっていたんですけど、エレノア様が調合してくれた薬草を煎じたらすっかり」
言えば、魔女の口元がニイッと笑んだ。
「それは良かった。今が大事な時期だからねぇ」
「そうなんですよ。もうそろそろかな、とは思っているんですけれど」
「すぐだよ」
「え?」
笑みを形作ったままの口からサラリと流れ落ちた言葉に、青年はきょとんと目を見開く。
「それも男の子だ」
「あの、そんなことまでわかるんですか?」
目の前の魔女はただただ目を細めた。
どうにも嫌に喉の渇きを覚えて、手にしたグラスを煽った。ゴクリと大きな音が鳴る。この冷たさが今は心地いい。相変わらず室内は熱気に包まれているのだから。背筋を伝い落ちる汗も、きっとそのせいに違いない。
「しかしのう……」
机上に積み重なる本を一冊手に取り、ページを捲りながら──まるで感傷に浸るような魔女の吐息が、薄い唇からこぼれた。ペラリと乾いた音がする。
「おぬしが騎士になって戻ってきただけではなく、結婚すると言ったときは驚いたものよ」
「ええ、そうね」
優雅に寝そべりすっかりくつろぐジブが、からかうような流し目を送ってきた。とたんに、青年の顔は熱くなる。
「久しい再会を喜ぶ間もなく玄関先で叫びおって」
「いや、だって、とにかく早くエレノア様に報告したくて」
「若いわねぇ」
「ジブ、やめてください」
確かに若さゆえの勢い余る行動だったと自覚している。青年は耐えきれず顔を覆った。それでも、愉快なものを見るようなジブの視線が手の甲に突き刺さる。
「だがね、ワシは嬉しかったよ」
思わぬ言葉に顔を上げると、見惚れるような微笑みを浮かべる魔女がいた。
「……あ、ありがとうございます」
青年はこの魔女が好きだった。
誰よりも豊富な知識を持ち、ときに厳しく捉えどころのない人だが言葉の端々に優しさを添えてくれる。昔からこの魔女の住処は青年にとってとても居心地のいい空間だった。
だからこそ、騎士団に入団して早々『国にとって重要人物の一角である魔女の監視』という、他人から見ればおそらく至極面倒臭いのだろう、誰もやりたがらない任務を引き受けたのだ。
今回の対象である魔女がハロウィンの魔女であること、自分の故郷である村が勤務地になることを思えば、悩む必要など何ひとつなかった。
「あの、ところで──」
青年の尊敬を一心に集める魔女だが、今年のジャックがどうにも釈然としない物言いをしていたのが、やけに気になった。
「エレノア様は、今年はなにか欲しいものがあるのですか?」
「……どうしたんだい?」
「ジャックが、エレノア様には欲しいお菓子があると」
言えば、ああ。と声をこぼして魔女は一度小さく天を仰いだ。
「まったく。今年のジャックには困ったものよ」
ため息をひとつ落として、呆れたように愚痴を吐く。
「ワシもまだまだだねぇ。力が入りすぎてしまったのか、どうにも煩い奴になってしまったのう」
不機嫌そうにむすっと頬を膨らませながらも、問うた内容を否定しなかった。
「なんですか? 欲しいものって」
傍目に見て、叡智に溢れ誰よりも美しいこの魔女に足りないものなどなにもない。そんな彼女が求めるものとは、いったいなんなのだろう。と興味が湧く。
「気になるのかい?」
そう言って、魔女は空いた青年のグラスにあの紫色をした茶を注ぐ。お礼を言ってからひとくち口を付けた。しかし汗が出る。暑い。奥の竈は変わらず炎を躍らせ、鍋の中身は煮えたぎっている。頭がクラクラする。
「おぬしは良く知っているはずだよ」
「俺、が……?」
しかし思い当たることなど何もない。それよりも、考えようにもなんだか頭が上手く回らない気がした。熱気のせいだろうかと額をぬぐえば、手の甲にじっとりとした汗の感触。
「あの、エレノア様、ちょっと暑、くて──」
「この日をずっと待ち望んでいた」
額に大粒の汗を浮かべた青年とは対照的に、魔女はガラスのような瞳を蕩けさせる。涼やかな美しさを纏う魔女が、初めて見せる表情。だがすでに青年には、その声すら一枚膜を隔てたように、ぼんやりとしか聞き取れなかった。
次第に視界が霞んでいく。
「まあ、騎士様どうしたのかしら」
ジブが、クスクスと金色の瞳を三日月に細めた。大丈夫だと答えようとするけれど、朦朧とした意識の中では口元すらおぼつかない。
そんな中、目の前の魔女が口を開いた。
「魔女と交わした約束はね……たとえ幼子だろうとも、それは契約なのだよ」
その言葉の真意を問う間もなく、青年の視界は黒く塗り潰された。