夢想の探索家
1.
あるものに対して、危険と魅力を同時に感じることがある。
一見その二つの印象は相反し、同時に感じること自体矛盾を孕んでいるようにも思えるが、その実例を挙げることは容易い。例えば、嵐の夜、視界を埋め尽くす鋭角の雨を、乱暴な轟音とともに引き裂く眩い稲妻であったり、周囲の空間ごと魂を引きずり込まれるような大胆な迫力を滲ませる絵画であったり、あるいは、圧倒的なカリスマと煽動を以て多くの人々に遮眼革を着けさせる指導者であったり・・・。
とにかく、そういう一見矛盾しているようにも思える、危険と魅力とを同時に醸し出すものは実際に存在していて、そしてその一例として、今、目の前にあるこの古い装丁の書籍も挙げられるのであろうと僕はひとり確信している。
見たこともない文字と、上手いとは言い難い挿絵で埋め尽くされたそれに、故知れぬ危険を感じつつも、ある意味魅了され手に取ってしまったのは、実際のところ数時間前の僕自身であるのだ。
2.
明後日の学会に使う資料の確認をするために研究室を訪ねた僕を迎えたのは、そこら辺の学生二人分はあるガタイの教授ではなく、小太りの壮年と痩せぎすな中年の二人の男だった。
「おや?あなたは、ここの学生さんですね。もしかして、教授のゼミ生とか?」
小太りの男がよれた手帳を片手に、僕の爪先から頭の先までじろじろと観察する。
「ええ、そうですが。そういうあなた方は・・・」
「こりゃ失敬。我々は傘岡市警の者です。」
小太りが軽く頭を下げたのを見て、部屋中をキョロキョロと眺めていた痩せぎすがようやく僕の方に顔を向ける。首だけ会釈すると今度は本棚の方に向かい、ギョロギョロとその大きな目玉で教授の蔵書を端から端へ走査し始めた。小太りが提示した警察手帳は、刑事ドラマなんかで見るそれにそっくりだったので、一応の体裁を保つことにした。
「初めまして。僕は教授のゼミ生の倉根進といいます。それで、今日はどのようなご用でここに?」
小太りは、待ってましたと言わんばかりにバラバラと音を立てて手帳を捲る。
「いやね、こちらの大学総務から教授に捜索願が出されていましてね。」
は?捜索願?つまり、行方不明ってことか?あの教授が?まさかそんな。
動揺する僕を一瞥して、小太りは手帳を更に捲る。
「どうやら、5日ほど前から無断欠勤されていたらしく、心配したご友人が自宅を訪ねたが、不在と。そんで我々にお声がかかったと。まあ、そういうことですね。」
教授が行方不明であるという予想が、小太りの一言一言によって現実に近づいてくる。
「ご友人や大学から教授の携帯に何度もかけているのですが、何度かけても音信不通でしてね。つかぬことをお伺いしますが、倉根さんが最後に教授にお会いしたのはいつ頃か、覚えてらっしゃいますかね。」
淡々と流れ出る小太りの声が途切れたことで、自分が質問を受けていることに気付いた。
ここ最近は研究室にも顔を出していなかったから、教授を見かけるとしたら定例のゼミだろう。
「最後に会ったのは、・・・たしか1週間前のゼミだったような・・・」
「教授に何か変わったところは?」
「いえ、特にありませんでした。」
機械的に答えた後に、1週間前の記憶を呼び起こす。いつも通りのメンツ。いつも通りのプレゼン。いつも通りの部屋。いつも通りの・・・いや、あの時ひとつだけ違和感を感じたんだった。雑多な資料に埋もれて尚、異様に目を惹かれる古本。たしか教授の机に置いてあったはずだ。
何かブツブツと呟く小太りに気付かれないように、教授の机に目をやる。くしゃくしゃに折れ曲がったコピー紙の束に、装丁のほつれた専門書。違う、あれはもっと何世紀も前の発掘品のような異質な古さだった。
「すみません、僕、資料の確認に来たんで。そこ、少し失礼します。」
教授の机の側に突っ立っている二人に、そこから退くよう目配せする。
「こりゃ失敬。それでは私どもはこれで失礼しますね。ほら、ここの裏山で学生さんが亡くなったとかで。ついでにそっちも調べるよう言われてるもんでね。それじゃあ、何か思い出すようなことがあれば、いつでもご連絡くださいね。」
明日もこのくらいの時間にお邪魔しますのでね。そう言いながら小太りが差し出した名刺を受け取り、ギョロ目を連れて研究室から出ていくのを見送る。二人の足音が遠ざかるのを確認してから、机の上の紙の山に手を突っ込む。
どうしてこうも散らかるのか。立派な本棚があるんだから、キチッとファイリングしてそっちに片付ければいいのに。心の中で愚痴をこぼしつつ山のような資料と専門書を掻き分けていると、ようやく目的のものに辿り着いた。白い紙の束に埋もれた茶色い紙の塊。明らかに場違いな古さの本。
タイトルは、・・・何語だ?読めない、というか見たことのない文字が並んでいる。パラパラと捲ってみると、子供が描いたような、しかし何かのスケッチのような緻密さが見て取れる奇妙な挿絵が目に飛び込んできた。そしてその隙間を埋めるように表紙のものと同様の文字が敷き詰められている。
なんだこれは。恐らく、何かを説明しているのだろうが、文字が読めないのはともかく、挿絵がそのいずれも自分の記憶と一致しない。
まるで、異世界の記録を読んでいるような、奇妙な感覚に陥る。転倒しそうな時の無意識な足の踏ん張りにも似た反射行動のように、ふと、窓の外が暗くなっていることに気付く。
あの刑事が嘘を言ってなければ、当分教授には会えないだろうし、今日のところは帰ろう。そういえば、明後日の学会はどうするんだろうか。ひょっこり教授が戻ってくるかもしれないし、一応準備しといた方がいいのかな。とりあえず、必要そうな資料はまとめておこう。
教授の机からめぼしい資料を取り分けて、研究室に備え付けのコピー機へと突っ込む。ガタガタと振動するコピー機に寄りかかり、頭上で不規則に点滅する蛍光灯を眺める。教授は一体どこに行ったのだろうか。フィールドワークに重きを置く人だったけど、2日以上留守にするときは必ず研究室のメンバーに連絡をしていた。一度などは、フィールドワークに出向いた離島から調査の延長を伝えるためだけに、助教授はおろか研究室所属の学部生一人ひとりにまで直接電話を寄越したこともあった。
教授にまつわる出来事を懐かしみながら印刷が終わるのを待っていると、ふと視界の端にあの古本がちらついた。蛍光灯が点滅する。
刑事の話によると、あの本を見かけた1週間前のゼミの、遅くとも2日後から教授は行方不明になったということになる。もしかしたらあの本に教授の行方のヒントが隠されているかもしれない。
教授も今いないわけだし、少しくらい借りても問題ないだろう。それに、純粋に中身が気になる。あの真面目な教授が失踪する理由になったくらいだから、よほどの事が書いてあるのかもしれない。読みたい。僕のほかには誰もこの部屋にいない。気になる。少し読んで、明日また研究室に来て元に戻せばいい。知りたい。警察も誰もこの本に気付いていない。欲しい。明日には押収されるかもしれない。読みたい。今しかない。取れ。手に取れ。
3.
気が付くと、アパートの自室にいた。薄暗い6畳の部屋に心臓の音が響く。締め切った窓から差し込む街灯の明かりに、ずしりと重い手元が照らされる。あの本だ。
教授の私物を無断で持ち出した後悔など、この本を手に入れた喜びに比べれば酷く軽薄な感情だった。ついに読める。これは僕のものだ。
震える手で表紙を捲ると、そこには見たこともない挿絵と見たこともない文字が散らばっていた。
日本語や英語ではまずない。ラテン語でもヒンディー語でもない。読めない。翻訳以前に何語かすら分からない。分からないのだが、なぜかページを捲る手は止まらない。
自分の植物学の知識に微塵もかすらない奇妙な植物の挿絵が唯一、本の理解を助けていた。おそらくこれは図鑑の類だろう。しかし、読み進めるうちにこの本が純粋な植物図鑑ではないことに気付いた。
依然として文字は判読不能だが、あるページから挿絵の内容が明らかに変わった。温泉かプールのようなものや、星座を見るときの早見表のようなもの。どうやら、項目ごとにそれぞれのテーマについて説明しているらしい。
がしかし、その挿絵さえも意味不明だ。いっそ子供の落書きだと言ってくれた方が納得がいく。そもそもこの本は、第三者が読んで理解できるような代物ではないのかもしれない。少なくとも今の僕に理解できないことは確かだった。
結局内容を理解できないまま最後のページまで目を通したころには、流れっぱなしになっていた汗が冷えた寒さで全身が震えていた。
その日は軽くシャワーを浴びて、何も食べずにそのまま寝た。ただ、眠りに落ちるその瞬間まで、枕元のあの本から目が離れることはなかった。
4.
寝覚めにコーヒーを飲み意識が鮮明になった頃合いに、ようやく昨日のことを思い出し後悔した。
なんてことだ。なんてことをしてしまったんだ。教授の私物を持ち出すなんて。しかも、教授が行方不明になったきっかけかもしれない本だ。もしも昨日の警察にバレたらめんどくさいな。手がかりを持ち出したとかでなにか罪に問われるかもしれない。逮捕なんてされたら退学しないとなのかな。植物学者になる夢どころかこの先の人生もダメになっちゃうのかもな。やだなぁ。確か、あの刑事たちは昼過ぎにまた研究室に来るとか言っていたな。今からならまだ間に合う。今すぐ研究室に返しに行こう。
例の本を肩掛け鞄に突っ込んで、大学への直通バスが出ている傘岡駅へと走る。踵を潰したスニーカーを、靴飛ばしの要領で蹴飛ばしそうになりながらも駅の南側、高架下の商店通りまでようやく辿り着いた。こんなに走ったのは久しぶりだ。脇腹と両の脚が悲鳴を上げる。
仕方なく道端に座り込み息を整えていると、大学生風の女性が目の前を横切った。見覚えのない顔だ。学生全員の顔を覚えているわけではないが、なんとなくウチの大学とは雰囲気が異なる。駅からも近いここら辺はいわゆる学生街というやつだ。おそらく三角大学とかの学生だろう。
息も整ってきたところで、ふと焼き鳥の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。女学生の手に提げられているビニール袋には、焼き鳥串のイラストと「焼き鳥 三宅」の文字が赤いインクで印刷されていた。
そういえば昨日の昼から何も食べてないんだった。自然と先ほどの女性を目で追ってみると、彼女は数メートル先の建物に吸い込まれていった。
目線を上げた先の錆びついた看板には「古書店 真珠堂」の文字が読み取れる。こんなところに古本屋があったのか。
古本屋と焼き鳥という奇妙な組み合わせに好奇心が湧き始めたが、尚も肩掛け鞄の中で息を潜める例の本の存在感に、わずかな好奇心の萌芽は踏みにじられた。
いや、あの老舗具合だと、古本に詳しい店員がいてもおかしくはない。もしかしたらこの本の正体、せめて何語で書かれているのかくらいは分かるかもしれないな。そもそも、あの刑事はこの本の存在に気づいていないんだ。わざわざ急いで返しに行く必要もないだろう。
いや待てよ。あの刑事が気づいていないからこそ、今のうちに返しに行くべきじゃないのか。理解できないなりに最初から最後まで読んだんだ。あの気の迷いみたいな好奇心も収まっている。それに、教授の行方の手がかりなら専門家の警察に渡した方が賢明だ。
古本屋に向いていた足を駅の方へと向ける。
古びた商店の並びを横目にいくらか歩くと、数十メートル先のコンビニから、見覚えのある2人組が出てくるのが見えた。トレンチコートを羽織った小太りと、ビニール袋を両手で抱えて大きな目玉をギョロつかせる痩せぎすだ。やばい。とっさに、踵を返しさっきの古本屋に飛び込んでいた。
店の敷居をまたいでようやく冷静になる。何がやばいんだよ、警察にこの本を渡すんじゃなかったのか。自分で自分を叱責する。しかし、しょうがない、せっかく古本屋に来たんだから、この本について尋ねてみよう。実際のところ、好奇心は収まったにしても、修士にまでなったのに古本の一冊さえ読み解けない自分に悔しさは感じていたんだ。
「すみませーん」
古本屋独特の、紙とインクの鄙びた空気に満たされた店内に入ると、所狭しと立ち並ぶ本棚の隙間から奥のレジカウンターに佇む人影が見えた。先ほどの女学生といちゃつきながら焼き鳥片手に湯呑をすすっている青年はここの店主だろうか。
客入りも少ないのだろう。緩み切った表情で歓談を続ける二人は、一応客である僕の来店に気づいていない。
床に直に置かれた古本の山を蹴飛ばさないように気を付けながら、本棚の隙間へと潜り込んでいく。
5.
「あのー、すみませーん」
数日ぶりに聞く来客の声に一瞬驚いて、ろくに噛んでいない鶏モモをそのまま飲み込んでしまった。喉の違和感を緑茶で流して、この店にとっては珍しい一見さんに向き直る。
踵を潰したスニーカーに履き慣れた様子のジーンズ、買ったときは白色だったであろう灰色のYシャツには肩から大きな鞄を提げている。なんとなく、クシャっと丸めた古紙のような印象の青年だ。
「はい、いらっしゃい。本日はどのような本をお探しで?」
「いや、すみません。買い物ではなく、少しお尋ねしたいことがありまして。」
周囲を見回して他の客がいないことを確認すると、青年は鞄から分厚い古本をゆっくりと取り出した。
「知り合いから譲り受けたものなのですが、この本について何かご存じではありませんか?」
本の表紙を見た瞬間、頭の中の警報アラームが喚いたが、目の前の青年に動揺を気づかれないように、緑茶を一口飲んで気を落ち着ける。
失礼します。と断りを入れ本を手に取ると、青年の様子が一瞬変わった。普段ならば気づけなかったであろう僅かな変化であったが、しかしその一瞬に常世のものではない何かの気配を感じ取った。いや、感じ取ってしまった。拳を固く握って手の震えを抑える。あくまで平静を装いながら応対を続ける。
「ふむ、これはどなたから?」
「私の所属するゼミの教授からです。ああ、申し遅れました。私は大洲大学理学部植物科学科修士の倉根といいます。」
「これはどうもご丁寧に。古書店真珠堂、つまりここの店主の真樹と申します。なるほど、学生さんでしたか。となると、その教授先生も植物が専門だったり?」
「ええ、その通りです。」
口では軽く会話しつつも、倉根青年の鋭い視線は、ページを捲る僕の手に追従している。
蛇ににらまれた蛙、あるいは、看守に囲まれた囚人のような気分だ。湯呑に手を伸ばすことさえ憚られる重い空気に、一石を投じる思いで口を開く。
「植物専門の教授からということですし、恐らく、植物学に関するものでしょう。ほら、このページの挿絵なんて植物そのものじゃあないですか」
「しかし、私の記憶ではこのような植物は見たこともないのですよ。そもそもこれはスケッチと説明文のようですが、それにしては読ませる気のない書き方というか、読めない文字というか。・・・そのあたりで頭を悩ませていまして」
当たり障りのないことを言って探りを入れるつもりが、修士の洞察力を見せつけられるだけで、徒労に終わった。
これは、ある程度の結論を与えないと帰ってくれそうにないな。
どうやって、目の前の青年を言いくるめようか思案していると、ある予感が芽を出した。もしかしたら、上手くいくかもしれない。
ぺらぺらとページを捲るフリをしつつ、本の開き具合に偏りがないか調べる。すると、開き癖のついたあるページに、明らかに新しく書き加えられたであろう数字のメモ書きが見つかった。20桁ほどの数字が2桁か3桁ごとに丸や点で区切られている。ふと、最近読んだミステリ小説を思い出す。丸、上付きの点、下付きの点。この順番だと緯度経度が鉄板だな。
しかも、上数桁がこの数字だと日本のどこかのはずだ。
この青年の挙動不審な態度。学期の切り替わりでもないこの時期に大学教授がこんな希少な本を手放す理由。おそらく、この学生が教授から譲り受けたというのも嘘だろうな。常連の噂じゃ数日前から大洲大学に刑事が出入りしてるそうだし、大方この本を譲ったという教授が何かに関わってしまったんだろうな。そしてこの座標が、現場というところか。真相は定かではないが、この学生と教授が関わってしまったモノは、少なくともそっちの類だろう。いや、”こっちの”と言った方が客観的には正確か。いずれにせよ、触らぬ神に祟りなし。この学生さんには悪いが、こちらに飛び火しないうちに教授の元へ行ってもらうとしよう。
「うーむ。これは教授から頂いたものとのことですし、新種の植物とかじゃないんですか?おや、この数字は何でしょうかね。ひぃふぅみぃ、20桁に度、分、秒を表す記号となると、ふむ、緯度経度なんてのはありきたりですかね。」
演技に心得はないので、昨日見たドラマの俳優を必死に思い出しながら、できる限り自然な仕草でメモが書かれたページを倉根青年に示す。瞬間、目を見開き、明らかに動揺する倉根青年。ぶつぶつと何かを呟いた後、ひったくるように本を手に取り、肩に提げていた鞄に突っ込んだ。
「くれぐれも、あ、いや。・・・とにかくこの座標は僕が調べますので。すみません、少し急がないといけないので失礼します。それでは。」
6.
嵐のように立ち去る倉根青年の背中に、お気をつけてー、と形だけの挨拶を投げて、深いため息とともに胸を撫で下ろす。
と同時に背後から聞きなれた声がかかる。
「いいんですか?」
「え、何が?」
振り向きながら、アルバイトの陰山蛍が用意してくれた温かい湯呑を受け取る。
「何がって、あの学生さん、明らかにおかしい様子でしたよ。それこそ、危険なモノに首を突っ込みそうな。」
「ああ、やっぱり気付いた?流石だねえ。実はあの本知ってるんだよね。僕。」
「え、じゃあなんで、あんな初めて見るようなフリしてたんですか」
「いやね。あの本、その界隈じゃかなり有名で、今じゃwebからダウンロードできるくらいなんだよね。そんなものを敢えてあんな立派な装丁で、しかも見た感じオリジナルに近い年代の代物を一介の大学教授が持ってて、あろうことかそんな希少なものがその価値を知らないような学生の手に渡っちゃってるなんて、怪しすぎるんだよね。」
両手で湯呑を包み込んで、緊張からか血の気の引いた指先を温める。
「怪しいってあの学生さんがですか?」
「いや。強いて言うなら、その状況そのものが怪しいんだ。関わったら無事でいられるかどうか。」
「それじゃなんで帰しちゃったんですか。今からでも追いかけて警告してあげないと。」
今にも走り出しそうな陰山ちゃんの腕を掴む。彼女は反射的に抗議の表情でこちらを振り向くが、「陰山ちゃん。」静かにそう言って首を横に振ると、掴んだ腕から力が抜けるのが分かった。
この件は我々の手に負えない。僕の無言の意図を察した彼女は、ため息とともに店の奥へと足を向けた。
ごめんね。誰へのものとも取れない謝罪をこぼした僕は、スイッチが切り替わったように陰山ちゃんの方を振り返る。
「焼き鳥のおかわり頼むよぉ。」
先ほどの緊張感から一変して、いつものように気の抜けた僕の声に肩の力が抜けたのであろう陰山ちゃんは、めんどくさそうに台所から顔を覗かせる。
「はいはい、今用意しますから、いい加減業務再開してください。資料の整理まだ終わってませんよね。」
はーい、とすっかりいつもの調子に戻った陰山ちゃんに気の抜けた声を返す。
先ほどの学生がもたらした形容しがたい不安感からか、なかなか喉を通らない鶏皮を、温くなったお茶で無理矢理流し込んだ。
7.
古本屋でUターンした僕は、アパートの自室に駆け込むとノートパソコンが立ち上がるまでの数秒でやっと息を整えた。
鞄から本を取り出しつつ、地図検索の入力窓に、古本屋で見つけた20桁ほどの数字を入力する。
エンターキーの押下と同時にブラウザが示した場所は、意外なことに大洲大学の裏山であった。
入力ミスかと思い今一度確認したが、間違いなくメモ通りの座標だった。
もしかして、教授は本当に新種の植物を探しに裏山に?しかし、新種なんてそんな簡単に見つかるもんじゃないしな。
ましてや、大学の裏山なんて、学部生の時にグループワークで散策したくらいだ。それじゃあ、他の何かがあるのか?
悶々としながらも、数時間後、太陽が南から西へ方向転換する頃に、僕の足は大洲大学裏山の山道を踏みしめていた。
ここに教授がいるかもしれない。無事連れ帰れたら学会にも間に合うし、例の本を持ち出したことも見逃してもらえるだろう。新種や本については帰ってからでも問題ない。
グループワークで何度となく歩いた山なのに、道に迷ってしまった。大学の裏山で遭難なんて笑い話にもならない。一旦落ち着こう。山道から外れたのは数十分前だ。木に寄りかかって、ペットボトルに残った水をあおる。西の空の太陽が眩しい。
今日はもう引き返すべきか。いや、山といっても大きいものではないし、ここから大学の棟も僅かだが見える。いざとなれば大学に向かって歩けば大丈夫なはずだ・・・。
更に奥へ奥へと進んでいくと、大きな岩の手前に、不自然なほどに積まれた枯れ枝を見つけた。ふと、研究室で例の本を手に取った時と同じ、好奇心にも似た感覚がフラッシュバックする。蛍光灯の点滅のように目の奥に火花が散った。
なんであの時のことを思い出すんだ?そう疑問に思った時には既に、僕の手は枯れ枝を退けていた。
大量の枯れ枝が隠していたものは、人がふたり通れるくらいの大きさではあるが、れっきとした石造りの門であった。恐らく一般的にはトンネルの入り口と形容するべきであろう形状であったが、僕は直感的にそれが門であると感じていた。
鼓動が早くなり、目の奥の火花が大きくなる。気温はそれほど高くはない。水分も適度に補給している。論理的な思考では、問題ない、ただのトンネルだ。と判断しつつも、僕の足は少しずつ門へとにじり寄っていく。
門に手をかけた瞬間、奥の方へと吸い込まれるような感覚に襲われ、反射的に足の筋肉が硬直した。
大丈夫だ。穴に落ちるわけじゃない。何かあればすぐに戻ればいい。大丈夫だ。進め。この先に教授がいるかもしれない。行け。ここで引き返したらただの散策で一日潰したことになる。行くしかない。中が気になる。知りたい。進め。行け。
ふと、指先に痛みを感じた。いつのまにか、鞄越しにあの本を力いっぱい握りしめていたのだ。鞄の方に目線を下げると、僕の足が既に門の内側を踏んでいることに気づいた。
ほら、なんてことはない。せっかくここまで来たんだから、少し奥の方を調べてから帰ろう。いつの間にか硬直の解けていた足で奥へと進む。
門の中は当然真っ暗で、自分の足音だけが石壁に反響する。しかし、長時間の登山に疲弊した体には至極心地よい冷気だけが感じられていた。もっと、もっと涼しいところへ。僕の足は自然と暗闇の奥へと動き続けた。
数分、いやもしかしたら数時間歩いたかもしれない。もつれてきた足に気づいた僕はごつごつとした壁に寄りかかり座り込む。
いつの間にか荒くなっていた呼吸を落ち着け目を閉じると、前後左右、上下の感覚すら曖昧に歪んでいく。心地よいマーブル柄にたわむ平衡感覚に、不思議と吐き気は感じない。
右往左往に踊り狂う座標軸に身を任せていると、遠くの方に細く輝く一点の光が見えてきた。少しずつ近づいてくる光源に、どこか懐かしい暖かさを感じていると、いつの間にか門の外まで戻ってきていた。
門の中とは一変、木々のざわめきや小動物の鳴き声に安堵する。
そうか、中は真っ暗だったから、気づかないうちに方向を誤って、入り口に向かって歩いていたのか。太陽はまだ輝いている。門をくぐって一時間もたっていないというところか。
結局、新種どころか教授の痕跡も見つけられなかったし、今日のところは帰ろう。例の古書店の近くにあった焼き鳥屋で軽く夕飯にしようか。
来た道を下へ下へと歩いていると、不自然に甘い香りが鼻をくすぐった。なんだこれは。駅前の繁華街ならまだしも、大学裏の山奥でこんなわざとらしい甘味料みたいな匂いがするなんて。
さてはうちの学生がチューハイの飲みさしなんかをポイ捨てしたな。植物学者の端くれとしては許しがたいが同じ大学のよしみだ。拾って学内のごみ箱にでも捨てていってやるか。
匂いをたどって脇道にそれていくと、そこに匂いの元があった。しかしそれは空き缶などではなく。きわめて有機的な、いや植物的なものだった。
しかし、こんな形状の、こんな匂いを放つ植物など、どんな専門書でも見たことがない。いや、どこかで見た覚えがある。これは、例の本にあった挿絵にそっくりだ!
震える手で肩に提げていた鞄から本を取り出す。目当てのページを探すうち、僕の目は、目の前の植物から1ミリも外れることはなかった。
これだ!目の前の見たことも聞いたこともない新種の植物にそっくりな挿絵が、このページに描いてある。教授はこれを探しに来たんだ!もしかしたらこの近くに教授がいるかもしれない。
いや、教授どころか、この本に描いてある他の新種の植物も見つけられるかもしれない!大学に帰ったら教授と一緒に論文にまとめよう!生態を調べるためにゼミの皆で実験もしないといけないな!
輝かしい将来に胸を膨らませながら、浮足立つ僕は時間も忘れて山の奥へと歩みを進めた。
8.
数日後、古書店「真珠堂」
閑古鳥の鳴く店内を横目にレジカウンターで新聞を読んでいると、紙面の隅の方にふと目を引かれた。
【行方不明の大学生、同学教授とともに死体で発見される。】
少し読んでみると、大洲大学の裏山にある廃トンネル内で、こないだの彼と教授の二人が、壁にもたれて座り込む形で衰弱死していた、というような内容が書かれていた。
「あーあ、やっぱりその類だったかあ。まぁ、骨拾われただけ幸運だったんかねえ」
諦観にも似た感傷に浸っていると、見覚えのあるビニール袋を提げた陰山ちゃんが店内に侵入してくるのが見えた。
「陰山ちゃんさあ、日本茶には甘味が一番だとは思わないかい?」
「ええ、日本茶といえば甘味でしょうね。特に和菓子。」
「うん。そこまで分かっているんなら、その手に提げているビニール袋は何だい?」
「焼き鳥ですけど。」
「いやあの、それは分かってるんだけど、そういうことじゃなくてね?」
「さあ、店長。温かいうちに食べちゃいましょう。」
これ以上ないほどの手際で緑茶とともに差し出される焼き鳥。
「さあ、どうぞ」
「ああ、うん。ありがとね。」
焼き鳥と緑茶の奇妙な取り合わせにツッコミを入れることすら無粋と言わんばかりの笑みを向けられ、否応なくモモ串に手を伸ばす。半分涙目になりながら、程よく弾力のあるモモ肉を咀嚼する。
「うん、今日の焼き鳥も美味しいね・・・。」
「ちょうど焼き立てだったんですよ。おかわりもあるんでたくさん食べてくださいね。」
口内に残った甘ったるいタレを緑茶で流し込んで、陰山ちゃんに見えないように、読んでいた新聞をゴミ箱に突っ込む。
まあ、食べ飽きた焼き鳥も無いよりゃマシか。
地に足のついていない安堵を感じつつ、2本目の串に手を伸ばした。
完
察しの良い方はお気づきかもしれませんが、この作品はロバート・W・チェンバースの「黄の印」と、ハワード・P・ラヴクラフトの「セレファイス」をリスペクトしています。両作品とも上質の狂気を味わえる名作ですので強くお勧めいたします。