第三十三話「感情の奔流」
かなり苦戦しました。
一万文字くらいボツが出来ました…
一日キャロルと一緒にゆっくり休んだハピィだったが、目が覚めるとその夢のような時間は一転し、地獄に戻った。
仕事に行かなきゃと考えただけで憂鬱になり、腹痛を感じる。
何をされるだろうかと考えただけで体が震える。
特に理由もなく一日休んでしまったが、それがきっかけで更にいじめがエスカレートするんじゃないか。
そんなことを考えると動悸が激しくなって蹲りたくなる。
しかし、そんな時、キャロルからもらった宝石、ブルーゾイサイトというらしいが、その宝石の輝きを見るとどこか心に一筋の光が差し込んでいるかのような気持ちになった。
キャロルは心のお守りをくれたのだ、とハピィは思った。心を込めて作ってくれた手作りのお守りだ。
一生大切にするですよ。
ハピィは宝石を握りしめた。
キャロルの温かい心がそこから伝わってくるような、そんな気がした。
もうちょっとだけ、頑張ってみるのです。
ブルーゾイサイトをギュッと握ると、辛い時でも一人ぼっちではないと思えるのだった。
☆
キャロルにプレゼントをもらった日から三日が過ぎた。
ハピィへの陰湿な嫌がらせは全く衰える事はなく、むしろ輪をかけて酷くなっていた。
朝起きるとハピィの下着が破られていたり、メイド服の中に死んだカエルを入れられたりもした。
誰ともわからない相手から、出会い頭に雑巾を顔に投げつけられる事も少なくない。
そんな事が続いて、彼女の心は再び徐々に憔悴していた。
それでも、辛く苦しい時、胸にしまってあるブルーゾイサイトを握りしめると不思議と心が落ち着くのだった。
大丈夫。私は一人じゃないのです。
そう思えば辛い事にも耐えられた。
その日の昼。メイドの食事場にて。
今日も影でコソコソ噂される中、ハピィは一人、隅の方に座って食事をとっていた。
料理番や調理メイドはハピィを見て嫌な顔はするけれど、一応皆と同じ食事は出してくれる。
その日の食事はスクランブルエッグに焼いたベーコン。それにひよこ豆のスープにパンだった。
周りのメイド達の遠巻きな視線が刺さって居心地が悪いので、急いでパンをかじるハピィ。
誰もが近寄りたがらず、避けて通る空間が出来上がっていたにもかかわらず、そんな空気を物ともせず、ハピィの相席に座る一人のメイドが居た。
ふわっとした優しげな笑顔を絶やさないメイド、メアリだった。
「メアリさん…?」
「ハピィさん、ちょっといいかしら」
どうしたのだろうか。
これまではこんな露骨に人に見られている所で話かけてくる事はなかったのに。
…というか、この空気の中よく話しかけて来たですね。
戸惑いを隠せないハピィに対し、メアリはよくわからない質問をした。
「ハピィさん、最近どう?」
「最近…?」
「ほら、辛い事とか」
ハピィは質問の意図がわからず、おうむ返しのような返答をした。
辛い事なんて、毎日、腐るほどある。
一日は辛い事で出来ていると言っても過言ではない程だ。
今だって、わざわざ聞かなくてもちょっと周りを見渡せばわかるだろうに…。
「ハピィさん、なんだか最近おかしいから…病んでるのかなって。私心配で。」
「…私は大丈夫なのです。」
「ほら、やっぱり病んでる!」
「…」
ハピィは不快感を覚えた。
人に向かって病んでるって、そんなのは心配でもなんでもなく、ただの失礼じゃないか。
でも、メアリはこれまでも色々と助けてくれた恩人でもある。
今のは流石に無神経だとは思うけれど、きっと彼女に悪気は無いのだ。
ハピィは最早板についた苦笑いを浮かべた。
悪意にさらされた時、どうしたらいいかわからない時、ハピィはこうやって苦笑いしてやり過ごす癖がついていた。
しかし…
「その顔…。」
「へ?」
「その顔が、気に入らないッつってんのよ!!」
今、誰が喋ったのだろうか。ハピィは周りを見渡した。
よもや目の前のメアリから、あんな低くてドスの効いた声が出てくるとは思わなかったからだ。
しかし、その声は紛れもなくメアリのものであった。
「私、いじめられてて辛いです〜みたいなその顔。
辛いけど頑張ってる私、偉いでしょ?みたいなその顔。
何?悲劇のヒロインぶってるの?」
ハピィは己の耳を疑った。メアリがこんな事を言うはずがないからだ。
次に己の目を疑った。こんな事を言うのがメアリなはずがないからだ。
しかし、ハピィの耳や目は正常で、間違っていたのはこれまでのメアリに対する認識だと気がつくまでには少しの時間が必要だった。
「メアリさん…嘘ですよね…?」
「チッ。もうやめよ、こんな茶番。ストレス溜まるったらないわ。」
別人格に入れ替わったと言われたらハピィは信じただろう。
それほどまでに、目つき、態度、話し方、全てがこれまでのメアリとは異なっていた。
しかし、頭のどこかでは理解してしまっていた。
メアリもはなからこの一連のいじめのグルだったと言う事を。
「ねぇ。最近のあんたの顔なんなの?ヘラヘラしちゃってさ。きもちわるい。」
「…」
「その顔がうざいっていってんだよッ!!」
メアリは突然立ち上がり、ハピィの顔をスープの皿へと押さえつけた。
ガチャン!
皿が割れて、ハピィの顔から血が流れた。
食事テーブルに広がったスープは床に滴り落ちている。
食事場にいたメイド達は特に悲鳴を上げる事も無く、最初から打ち合わせていたかのように無反応である。
「半人の癖に普通の食事してんじゃないわよ。」
髪の毛を掴まれ、机に頭をガンガンと何度も叩きつけられる。
一体何が起こっているのか。
ハピィには全くわからなかった。
あれ程優しくしてくれたメアリと、今ひどい事をしてくるメアリが全く結びつかない。
信じられない。
これがあの優しく話を聞いてくれたメアリだなんて。
「犬は犬らしく、下に落ちたものでも食べてなさいよ。」
メアリはハピィの身体を突き飛ばし、床に転がったパンをハピィの口に無理やり押し込んだ。
呼吸が上手く出来ずにもがく様子を見て、メアリは心底楽しそうに笑った。
どうして…?
目を閉じると、真剣に話を聞いてくれたメアリの姿が思い浮かんだ。
どうしてあの時、私に優しくしたのです。
どうせこんなことになるのなら…
いっその事、初めからこうやって虐めてくれた方がずっとマシだった。
その方がずっと、辛くなかった。
裏切られるのは、辛い。
嬉しかった思い出がある分、余計に。
ハピィに湧いてきた感情は、怒りではなくひたすら深い、悲しみだった。
気がついたら涙が出ていた。
自分の知っていたメアリは死んだ。
いや、最初からいなかったのだ。
それがただ、悲しかった。
「ん?何よ、これ。」
メアリはハピィの首にかかっているネックレスチェーンを引っ張った。
「ぐっ…」
ネックレスを引っ張られた事でハピィの首がしまり、カエルが潰されたような声が出る。
しかし、ハピィにとってそんなことはどうでもよかった。
そのネックレスは、キャロルに貰ったあの大切なプレゼントだったのだから。
「…あら、ネックレス。宝石が付いてるじゃない。
獣人がこんなもの付けてるなんて、おこがましいったらないわ」
「や、やめて!!お願い!!」
メアリはハピィの静止を気にも留めず、ブチっと宝石を毟り取った。
必死に伸ばした手で掴んだのは、飛び散る小さなネックレスチェーンの破片のみ。
キャロルがハピィを思って作ってくれた、大切なプレゼント。
一生大切にすると決めたのに。
それが今、あの人の手の中にある。
「お願い!!返して!」
ハピィは必死だった。
メアリの手に一心不乱に縋り付き、その手の中にあるものを取り返そうとした。
しかし、体格差は如何ともし難く、容易に振り解かれ、床に殴り飛ばされる。
「あんた達、コイツを押さえなさい。」
メアリが一言そう発すると、周りで静観を決めていた人達が数人がかりでハピィを床に取り押さえた。
もがけどもがけど、ハピィの素の力ではどうする事もできなかった。
ハピィの身体能力は高い方だったが、子供が大人に敵う通りはないのだ。
ハピィがもがいているのを尻目に見ながら、メアリは宝石をマジマジと眺め、そして腹を抱えて笑った。
「何よこれ!ちょっと見たことないから変わった宝石かと思えば!
その辺で安く売ってる唯のゾイサイトじゃないの!!」
メアリがそう言うと、周りのメイド達も一緒になって笑った。
ゾイサイト?あんなおもちゃみたいな石を身につけていて、恥ずかしくないのかしら。
そんな声と共に、嘲り見下し、笑う。
…なんで…笑うですか…
キャロルが私の為に用意してくれた…何より大切なプレゼントなのに…
「こんな石ころ、10ギリーにだってならないわよ!
こんなクズ石大事そうに抱えて!!あんたみたいな獣にはお似合いね!」
値段なんてどうだってよかった。
給料も無いのに頑張ってかき集めたお金で用意してくれた、何にも替えがたいキャロルの気持ちだ。
恥ずかしいはずがない。
それを…どうして馬鹿にするですか…
ハピィの心は怒りで燃え上がった。
許せない。
どんないじめだって耐えてきた。
顔に傷をつけられても。
手柄を横取りされても。
尻尾を踏みにじられても。
でも…
彼の気持ちを踏みにじられるのだけは、どうしても我慢ならなかった。
「かえせぇぇぇえええ!!!!」
ハピィは泣き叫んだ。
無意識のうちに魔力循環による身体強化を行い…
自分を押さえている5人のメイドを突き飛ばして、メアリに飛びかかった。
しかし…
「うるさいわね」
メアリは煩わしそうに足を振り上げ、ハピィを蹴り上げた。
倒れ伏すハピィにいやらしい笑みで笑いかける。
「こんなクズ石で熱くなっちゃって、ばっかみたい。こんなのなんの価値もないわよ」
ギリっ
ハピィは自分の犬歯が怒りで削れる音を聞いた。
「クズじゃない!!!私には何より大切なものなのです!!」
「あっそう。じゃ、取り返してみれば?」
メアリは挑発するようにそう言うと、宝石を手の中でもて遊ぶ。
「ガアァァァッ!!」
怒りに身を任せたハピィは、犬歯を剥き出しにして、目を血走らせて再び飛びかかった。
身体強化したハピィならば、大人の兵士だろうと圧倒できる力を発揮しているはずだった。
しかし、結果として、彼女は床に這いつくばる事になる。
何度立ち上がっても、何度向かって行っても、その結果は変わらなかった。
「フーッ!フーッ!」
「あはっ!あはははっ!!
こんな石ころ一つで飼い慣らされちゃって!獣人ってほんと馬鹿で哀れだわ!」
沢山のメイドに取り押さえられるハピィ。
その敵意を剥き出しにした姿はまるで、猛り狂う獣そのものであった。
「あーあ。そろそろ飽きてきちゃったわ。
この石、どうしようかしらね。」
ハピィの目の前で釣り餌のようにプラプラさせるメアリ。
ハピィはそれを口で噛みついて取り戻そうとする。
「そうよ!丁度ここの窓から、池が見えるのよね!」
すっかり頭に血が昇ったハピィだったが、その意味を理解する事は難くなかった。
「フーッ!!フーッ!!」
「あはっ。あんた達、しっかり押さえてなさい。」
メアリはおもむろに宝石を弄んだ後、窓から思いっきり外へ投げた。
ぽちゃん
水に落ちた音を、ハピィは聞き漏らさなかった。
「どけえぇぇぇぇえ!!」
渾身の力で暴れ、メイド達を振り払う。
ハピィはそのまま窓まで走って行き、躊躇う事なく窓から飛び降りた。
流石の衝撃に、メイド達は窓に張り付いて下を見た。
まさか自殺でもしたのか思ったのだ。
二階の窓からであったが、獣人の身のこなしは幼子であっても身についていたようだ。
生まれ持った感覚で、落下の衝撃を足をクッションにして和らげたハピィは、池へと走っていく。
そしてメイド服のまま、少し濁った池の中へと飛び込んだ。
「ぷっはっはっは!!無様ねぇ!汚い獣が水浴びしてるようにしか見えないけど!」
二階から笑う声が聞こえるが、ハピィにはそんな事はどうだってよかった。
無くしてしまった。
大切に毎日磨いていた、キャロルのプレゼントを。
一生大切にすると誓った、あのプレゼントを。
ハピィは時間も忘れて何時間も水の中を探したが、透明な青色であるあの宝石が見つかる気配は全くなかったのだった。
☆
怒りが収まってくると、次に罪悪感と悲しみが押し寄せてきた。
ハピィの目から涙が溢れる。
私がしっかり管理しないから…
怒りと悲しみ、そして喪失感。
身体中びしょびしょで、声を出さずに泣いているハピィに身体を覆うほどの大きなタオルがかけられる。
「泣いているのか。」
いつか聞いたような声。
涙に濡れた目で声の方を見上げると、一週間ちょっと前に出会った獣人の男が立っていた。
「…あなたには…関係ないのです。」
ハピィは目を伏せた。一人にしてほしい。
そんな意味を込めたつもりだった。
獣人の男は唸るように言った。
「関係は、ある。オレ達は仲間だからな。」
仲間。
その言葉は心の支えを失って孤独なハピィにとって、以前より魅力的に感じるフレーズだった。
「見ていた。全部。」
突然頭をタオルでわしゃわしゃと乱暴に拭かれた。
男の声は、僅かに震えているようだった。
怒りだろうか、悲しみだろうか。
彼はそんなハピィの気持ちの一端を理解してくれている。
そんな気がした。
「そうですか。」
「ああ。」
日が沈んでいくのを二人で眺める。
沈黙が苦では無いのは、キャロル以外では初めてかもしれないと、ハピィは思った。
「惨めですよね。大切な物を笑われて、我も忘れて飛びかかって…結局、何も出来ずに失って…」
自嘲するハピィに、男は間髪入れずに答える。
「そんな事はない。お前は立派だった。」
「立派…?」
「そうだ。」
一呼吸置いて、男はハピィの目を見た。
「お前は理不尽を理不尽として受け入れる事なく、立ち向かった。
誰にでもできる事じゃない。
お前は強いメスだ。」
またメス呼ばわりですか…
少し嫌な気はしたものの、以前よりは嫌じゃない自分がいた。
ハピィはずっと気になっていたけれど、誰にも聞けなかった事を男に聞いてみる事にした。
「あの…どうして、あの人達はあんな酷い事をするですか…?」
「それはっ…」
男は何故だか少し吃った。
ハピィにはそれが、何かを逡巡しているように見えた。
そして、思い切ったように男は答えた。
「お前がいじめられているのは、ただ獣人だからという理由。それだけだ。」
それだけ?とハピィは思った。
「…獣人だから?そんなふざけた理由で…」
「そうだ。そんなふざけた理由なんだ。」
男の声は、どこまでも低く、心の奥底に響くようだった。
だから、と男は続けた。
「自分を責めるな。お前は一ミリだって悪くない。」
きっと、慰めようとしてくれたのだろう。
しかし、ハピィは悲しくなった。
これまでずっと、何処かでいつかはわかって貰えると思っていた。
仕事が出来るようになれば、見習いから卒業出来れば、失敗しなくなれば。
しかし、それは全くの見当違いだったのだ。
いじめられていたのが獣人という理由だけなら、生まれた時からここでいじめられるのは決まっていたのか。
純粋な悪意、獣人を下等と見做し、優越感に浸る為に…
私は虐められていたというのですか…
「じゃあ、私の今までの努力は何だったのですか?
…これじゃ私、馬鹿みたいです。」
「…それは…。」
男は言い澱んだ。
再び、二人の間に沈黙が流れる。
暫く続いた沈黙を破ったのは、男の方だった。
「…もう一度、考えてくれないか。
前に頼んだあの事。オレは今日、その為にここに来たんだ。」
「…」
男は自分を利用しようとしている。そんな事には気付いていた。
でも同時に、この人は心の底から心配し、労ってくれている。
それもわかった。
不器用な人なのです。
ハピィはそう思った。
「傷ついたお前に付け入るようで気が引けるが…。
大切な事なんだ。わかるだろ?」
「…それを正直に自分から言うですか?普通。」
「仲間だからな。」
ハピィはクスッと笑った。
騙されて、いびられて、人間不信になりかけていたハピィだったが、この人の言葉は信用出来る。
そんな気がした。
ちょっとした気の迷いだ。
こんな人達と一緒にいられたなら、そんな淡い願望だ。
ハピィは僅かに、首を縦に振った。
男は自分で頼んだ癖に目を丸くして、少年のようにくしゃっと笑った。
「オレの名はマルコ。お前は?」
「ハピィなのです。」
☆
男が去って行った。
ハピィはトボトボと部屋へと戻る。
やってしまった。
ハピィはあまりの罪悪感で心が潰れるかと思った。
いざ冷静になってみて、如何に自分がとんでもない事に加担しようとしているかを理解してしまったのだ。
ハピィはクーデターの一員に数えられてしまった。それも、とても重要な役回りだ。
こんな事して、ただで済む筈がない。
失敗して捕まれば、王への反逆罪で死など生温いとされる程の拷問にかけられる事は間違いない。
しかし、今更降りることもできない。
ハピィの動きを期待して、多くの獣人が命を賭けるのだから。
一体どうしたら良いですか…?
ハピィは今すぐ死んでしまおうかとすら思った。
部屋の扉を開けると、いつも通り、キャロルが机の上で勉強していた。
「ハピィ、お帰り。今日は早かったね。」
振り返り、声をかけられる。
それだけで、ハピィはもう限界だった。
「き、キャロルぅ!ううっ…」
「は、ハピィ!?どうしたんだ、何かあったのか!?」
「私…私っ…」
何から言えば良いのか、ハピィにはわからなかった。
感情が洪水のように渦を巻いて、ハピィの心をかき乱していた。
これまで虐められていて、辛かった事。
キャロルがくれた大切な宝物を無くしてしまった事。
とんでもない悪行に加担しようとしている事。
言いたい事は沢山ある。
ハピィには最早それを黙っている理由など無かった。
ここで吐き出してしまわなければ、壊れてしまうと思った。
ハピィはキャロルに縋り付いて声を出して泣いた。
キャロルはハピィの頭をゆっくりと優しく撫でながら、ハピィが喋れるようになるのをじっと待つのだった。
次からやっとキャロルの視点に戻ります。
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