実験やめますか人間やめますか
花の大学二年生。
高校生気分も新入生気分もスッカリ抜け、就職活動のことは考えるには、まだ早い、中途半端に暇を持て余した時期だ。
この一年余りでキャンパスライフに慣れ切っていた俺は、朝まで起きてようが昼まで寝ていようが誰にも咎められない、甘美で怠惰な日々を送っていた。
そんなある日、午後の講義をサボタージュして学生街を歩いていると、電柱の張り紙が目に入った。
探偵社のものでも、サラリーマン金融のものでもない。
それは、アルバイト募集の広告だった。
テスター募集
何もしないで稼げます
時給一万円
即日払い可
四時間半毎三十分休憩軽食付
電話はコチラ
これ以上なく怪しい。
真っ当な社会人なら、こんなアルバイトに手を出したりしないだろうが、こちらは刺激に飢えた学生である。
とにかく面白そうなことにチャレンジしてみようという好奇心には勝てない。
電話で呼び出された先にあったのは、駅から少し山手に上がったところにある、ごく普通の雑居ビルだった。
テスターというのは、学術的な臨床試験を体感する人物という意味で、医師免許を持った白衣の姉ちゃんがリーダーだった。
持病の有無とか、トラウマを持ってないかとか訊かれた気がするけど、はち切れんばかりのデカメロンに意識が持っていかれて、半分以上聞き流してしまった。
血液検査をしたり、簡単なペーパーテストを受けさせられたりしたあとは、結果が出るまで、緑茶と茶菓子を食べながら待った。
特に何も問題無かったらしく、細かい文字がビッシリと並んだ契約書類を見せられ、合意なら実験に移るからサインするよう言われた。
一刻も早く稼いで遊びに行きたかった俺は、ろくに読みもせずに名前を書いた。
何もしないで稼げるというのは、本当だった。
だが、正確には、何もしてはいけないという意味だった。
何もしないでいると、ここまで精神が追い詰められるものだと思い知ったのは、あとにも先にも、この時だけだ。
仕事内容は、至ってシンプルだった。
窓もスイッチも無い畳敷きの三畳ほどの和室に入れられ、時間が経つまで部屋の中に居れば良しというものだ。
ただし、天井の照明が消され、手足に分厚いグローブとブーツを装着した状態である。
暗所恐怖症だとか、閉所恐怖症だとかいうわけでなければ、なんてことないんじゃないかと思うだろう?
ところが、これが甘くないんだな。
一切の光が差さない真っ暗な部屋で、手足の触覚を封じられてしまうと、時間の感覚も肉体の感覚も曖昧になっていくんだ。
はじめの四時間半は、このアルバイトで得た金で何を買おうか、どこへ行こうかと妄想を膨らませたり、土日に集まるサークル仲間のことを考えたりして乗り切ったさ。
でも、つぎの四時間半は、自分が何者か疑問に感じたり、社会から取り残された気分になったりして、気が狂いそうになったんだ。
だから、俺は九万円だけ受け取って、実験を降りることにしたんだ。
翌日に、同じ学部のダチにこの話をしたら、みんな興味を持ったんで、広告を見つけた電柱を教えてやったんだ。
だけど、昨夜のうちに剥がしてしまったみたいで、テスター募集の文字は、どこにも無かった。
通話履歴が残ってたから電話してみたんだけど、現在、この番号は使われておりませんという自動アナウンスが返ってきただけだった。
嘘をついてると思われても癪だから、雑居ビルにも行ったさ。
だけど、あの姉ちゃんがいた階はテナント募集中になっていて、窓から見える限り、誰もいないし、何も置かれていない様子だった。
どうせ夢でも見たんだろうとか、その女医は化けたキツネじゃないのかとか散々からかわれたけど、証明しようが無いから、俺は九万円が葉っぱになっていないことだけを確かめて、このことは忘れることにした。
だけど、忘れようとすればするほど忘れられないもので、しかも、そこに気になる噂を小耳に挟んだものだから、忘れたくても忘れられない記憶になってしまった。
あのテスターの中で一人だけ、何日も連続で実験に参加して、百万円以上稼いだ奴がいたっていうんだ。
それで、そいつは今、大学を辞めて山奥の洞窟に篭り、木の実や生魚を食べて生きているとか、いないとか。