悪魔少女の素直な気持ち
シエラちゃんが婚姻届受理証明書とやらを持って帰って来た翌日の朝、俺は仕事へ行く時間を少しずらして市役所へとやって来ていた。
――お父さん、お母さん、俺は知り合って間もない、手も繋いだ事が無い子と知らない内に結婚した事になってたよ……。
市役所の外へと出た俺は、青々と広がる空を見上げた。
昨日シエラちゃんに渡された婚姻届受理証明書というのは初めて見たが、どうも婚姻届けを出した夫婦には希望によって発行してもらえる物らしい。そしてこれは通常なら発行までに数日を要するらしいのだが、シエラちゃんはいったいどうやって即日発行をしてもらったんだろうか。
「もしかしてシエラちゃんて、かなり良い家のお嬢さんだったりするのか?」
シエラちゃんが単独で婚姻届けを出せた理由も分からないが、市役所で確認した限りでは、しっかり俺とシエラちゃんは夫婦になっていた。
しかしこれはどう考えてもおかしい、常識では考えられない事態だ。これはもう、一般常識では考えられない権力が働いたとしか俺には思えない。
「帰ったら聞いてみるか……」
謎だらけの事態を前に不安になる中、俺はトボトボと歩いて職場へと向かった。
× × × ×
今日の仕事を終えて自宅の玄関前まで帰って来ると、妙に焦げ臭い臭いが周囲に漂っている事に気付いた。
――何だこの臭いは?
酷い臭いを感じながら戸を開けると、更に強い焦げ臭が俺の鼻を刺激した。
「なっ! 何じゃこりゃ!?」
開いた戸のすぐ近くにある小さな台所のシンク内を見ると、そこには真っ黒に焦げた鍋がいくつか入っていた。
「お帰りなさい。先生」
「ただいま――って、そうじゃなくて! これはどういう事?」
「奥さんは料理をして旦那さんの帰りを待つ――ってネットに書いてたからそうしようと思ったんだけど、上手くいかなかったの」
「そうみたいだね、見事に……」
この状況で火事にならなかったのは、不幸中の幸いと言えるのかもしれない。
「まあとりあえず、シエラちゃんは台所での料理禁止ね」
「分かった」
「それじゃあ、ここを片付けたら晩御飯を作るから」
「それなら大丈夫、お湯を入れるだけで作れる魔法の食料を買って来たから」
そう言うとシエラちゃんは、部屋の中にある小さなテーブルの上を指差した。
「ああ、カップ麺を買って来てたんだ」
「うん、魔界には無い物だからちょっと驚いた」
普段からポーカーフェイスなシエラちゃんが驚いたと言っても、今一つその表情が想像できない。
それにしても、シエラちゃんの悪魔設定がいつまで続くのか分からないけど、現代日本でカップ麺の一つも食べた事が無いとは驚きだ。これは本当にどこかの凄い家のお嬢様って線も考えられる。
「今お湯を入れるね」
「その前にちょっと聞きたい事があるんだ、シエラちゃん」
「何?」
「昨日シエラちゃんが持って来た婚姻届受理証明書だけど、あれってどうやって貰って来たの?」
「あれは私の能力を使っただけだよ?」
――権力!? やっぱりシエラちゃんって、かなり良い所のお嬢さんってわけか……。
「な、なるほど、でもさ、そういう権力って、こんな事に使うべきじゃないと思うんだよね」
「先生が私を追い出そうとするからだよ、だから能力を使っただけじゃない。先生、もしかして嫌だった?」
「えっ!? あ、いや、そのぉ……」
声のトーンを暗くしてそんな事を言われると、俺としても返答に困る。正直な事を言えば嫌ってわけじゃないんだけど、未だはっきりとした素性が分からないシエラちゃんへの警戒を解く事ができない。
「えっとそのぉ……嫌って事は無いけど、シエラちゃんが気の毒と言うか何と言うか……」
「私が気の毒? 何で?」
「だってほら、俺とシエラちゃんて歳の差もあるし、わざわざ俺みたいなオッサンを旦那にする必要はないと思うんだよね」
「歳の差が気になるの?」
「普通は気にすると思うけど? 特にシエラちゃんみたいな若い子は」
「私は別に気にしない」
「いや、でもさ、わざわざこんなオッサンを選ぶ必要は無いと思うよ?」
「私は先生がいいからそうしたの」
「えっ!?」
その言葉を聞いた俺は、不覚にもかなりドキッとしてしまった。
今までまともに女性と付き合った経験が無いからというのもあるが、女性に直球でこんな事を言われた事が無かったのが一番の原因だろう。
「えっとあの……俺がいいって、どういうところがいいの?」
「先生は食べ物をくれた優しい人だから」
「へっ? あ、ああ、なるほど、そういう事ね……」
想像していた答えと違っていた事に落胆を隠せなかったが、それでもどこか安心した気持ちはあった。
「でもね、一番の理由はあの時に先生が声を掛けてくれたからだよ。だから先生、これからもよろしくね」
なかなか変わる事の無い表情を変え、シエラちゃんは小さく微笑んだ。
「あ、ああ、よろしく……」
「うん、それじゃあ、すぐにお湯を入れるね」
シエラちゃんの微笑みを前についそう答えてしまったが、シエラちゃんの素性が分からない以上、今はこの方がいいのかもしれない。
俺は諦めにも似た感情を抱きながら、カップ麺にお湯を注ぐシエラちゃんの対面へと座った。