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8.彼は死者に掴まれかけて


「お久しぶりです。元気してました?」


「うん。そこそこかな。レネーは?」


「私ももちろん元気です、ええ」


リーネは予定の時刻より少し遅れて来た。俺が持ち手無沙汰に耐えかねて、待ち合わせ場所であるエンジの小屋の周囲をランニングしていた所に、リーネが話しかけて来た形だった。エンジは小屋の中で一足先に休んでいた。

時刻は午後6時ほど。冬夜の様相を呈する、銀粉を散らした濃藍色硝子細工の寒空の下で、出会ったにしては、互いの挨拶は明るく弾んでいる様に思えた。

リーネは羊を連想させる白いモコモコとした防寒着を身に纏って、其れに顔を埋めていた。腰から垂れ下がった丸い飾りが、彼女の可愛らしい仕草に合わせてゆらゆらと揺れ映えていた。


「大会調子良かったみたいだね。配信で見たよ」


「見てたんですか!?なんか気恥ずかしいですね。全3回で3着2回に4着1回、周りがそんなに速くなかったってのもあると思うんですけど、我ながら結構いいと思うんですよ」


普段より一層、明るい笑顔を浮かべるリーネ。

今回の結果が満足いくものだった様で此方も安心した。彼女にコーチの代わりをしてもらっている身としては、彼女の成績が下がってしまうのではと思っていたが、其れは杞憂らしかった。


「うんおめでとう。本当凄いと思うよ。俺じゃ敵わない」


「そんな事ないですよ!きっとツァガナさんならすぐに....あれ直前に湯浴みしました?石鹸の匂いがしますけど」


歳下の小動物的な少女の活躍は、後輩や我が子の活躍の様に思えて思わず頰が緩んだ。其の際に、心の底から湧いた賞賛に自分に染み付いた卑屈さが混ざってしまう。

リーネは其の卑屈さが気に入らなかった様で、ぐいっと身体を前に、此方側に突き出して頰を膨らませて。其の途中で、此方の身体から香る芳香に意識が向いたらしかった。


「ああちょっとね。結構汚れちゃったから。あの恥ずかしいから」


「あぁっ、すみません!あれですよね匂いって結構恥ずかしいですよね。デリカシーなさすぎでしたね」


リーネは急いで身を引いて、たははと笑った。此方の方が恥ずかしく思っているはずなのに、彼女の方は顔を赤くしている様に思えた。

彼女は誤魔化す様に腕を振ってから、腕で顔を隠して、こっそりと彼女自身の身体をクンクンと嗅いでいた。俺は其れに気づくと、何気なく顔を背けて宵闇を眺めた。


「んんっ失礼しました。えっとお土産買って来たんです。美味しい伝統お菓子なんですって。お話でもしながらどうですか?」


「あ、え、うん。じゃあ、外じゃ拙いし家にでも行こうか、カタハテさんの家だけど」


「はい!....ツァガナさん、エンジちゃんは呼ばないんですか?」


歩き出そうとする俺を呼び止めて、リーネはエンジの小屋をちょこんと指差して首を傾げた。俺は頰を掻きながら言い淀んだ。


「んー、ちょっとあってね。それも食べながら話すよ。お菓子はエンジでも食べられる?」


「はい。そのように調べて買って来ました。栄養バランスは良くないですけど」


「じゃあ、明日にでも渡しておくよ。今はきっと俺と一緒は嫌がるよ」


俺は苦い顔をしながら小屋から視線を外した。俺はじっと黙って腰に張り付いていた“装備”をノックすると、エンジへの伝言を頼んだ。“装備”が赤橙の光を仄かに纏って浮遊し、小屋の中に入っていくのを見届けると、釈然としない顔をするリーネの手を引いて、半ば強引に家へ向かった。





「ただいま帰りましたー」


「お帰り。今日は若干遅かったうぉう!これはご息女様!?」


間延びした声で家の中に帰宅を知らせると、珍しく医療用の外骨格を外し、簡素な車椅子に収まったカタハテがドアの隙間から廊下に首を伸ばして出迎えてくれた。

ボサボサとした癖っ毛を其の儘にしているせいか、普段よりもだらし無く歳を重ねた様な印象を受けた。そう言えば今日は久々に何もない日だと言っていたか、と俺は今朝の朝食際の会話を思い出した。

玄関に入り身体をずらして、背に隠れる形になっていたリーネをカタハテと対面させる。するとカタハテは鶏の首を絞めた様な奇怪な悲鳴を上げた様だった。余程焦ったのか、車椅子をドア枠に何度もぶつけながらカタハテは廊下に出てきて、リーネを歓迎した。


「何その変な呼び方。レネー、リビングはこっちだよ」


「カタハテさん、エルフォルト家が苦手ですからね。お邪魔します」


「嗚呼はいどうぞごゆっくり」


俺は其のカタハテの奇行には大して気を配らず、スタスタと廊下を進んでリーネをリビングへと誘導する。リーネは廊下の奥で表情を固めているカタハテに軽く会釈をすると、苦笑いと微笑みの中間の様な、仕方ないですね、といった表情でリビングのドアをくぐった。

リーネの後ろについてリビングに入ろうとすると、未だ廊下で石像と化していたカタハテが小声で俺を呼び止めた。

何度見ても彼の表情は、演技くさく思えるほど、粗相をしない様にと緊張して冷や汗を垂れ流すものだった。


「ちょっとツァガナ君。人を呼ぶなら先に一言通すなり何なりあるでしょ。というかレネーって愛称だよね。仲良くない?そういうあれ?」


「すぅぐ色恋沙汰に持ってく、これだからおじさんは。人呼ぶ件については以後気をつけます。それでカタハテさんもリビング入ってくださいよ。レネーがお土産買ってきてくれたんです。一緒に頂きましょうよ」


カタハテは口を閉じたまま口角を大き横に伸ばして、如何にも同席は嫌だ、といった感じだった。


「大の大人が何畏まってるんですか。レネーは善い子ですから大丈夫ですよ。はい、レッツコミュニケーション」


俺は苦笑混じりにため息を吐くと、カタハテの車椅子の後ろに回り込んで、無理やりカタハテをリビングに押し入れた。

リビングに押し入れられる前は、飄々としたカタハテらしくなく駄々を捏ねたが、リビングに入る、つまりリーネの視界に入る頃にはまた彫像の様に身体を固め直していた。

抵抗がなくて楽だなー、なんて思いながら俺はカタハテをリビング中央のテーブルに配置した。

リーネは一足先にテーブルに付き、お土産であるお菓子を広げている様だった。

俺はカタハテの横の席に腰を下ろした。一方にカタハテと俺、反対にリーネと、テーブルを挟んで所属ごとに分かれた形だった。

リーネは何処かやりにくそうな、眉を顰めた不満げな顔をしていた。


「そう言えば夕食まだだよねきっと。お菓子だけで夕食にするのは何だし。3人分くらいはありますよね?カタハテさんいつもサバっと作りますし」


「まぁあるけどさぁ。リーネさん?はそれで良いんですか?お家に連絡などは?」


「友達の家にお邪魔すると伝えてあるので大丈夫ですよ」


リーネは「対策済みです」と自慢げに胸を張った。其れに対してカタハテは、嗚呼望み絶たれた、と悲しげにしていた。俺は、一緒にいることが一体何れだけ嫌なんだよ、と内心で突っ込んだ。


「じゃあ持ってくるよ。今日のメニューは何にしたんですか」


「魚ベースのお鍋だよ」と言いながらカタハテは素早く車椅子を動かそうとする。俺は其れよりも先に「取り行かせるとそのまま逃げそうなので俺が取ってきます」と釘を刺して、席を立った。



ツァガナが席を離れキッチンに向かった後、カタハテと2人っきりになった私は、何か話さなければ、と話題に思い悩んだ。けれど、同世代以外との話題など大してレパートリーもなく、口を開けずにいた。

そんな私の友人の親といる様な気まずさを察したのが、カタハテが先に沈黙を破った。彼は、ボサボサの頭を押さえながら此方とは目を合わせずに口を開いた。


「ツァガナのコーチ役ありがとうございます。リーネさんもお忙しいでしょう。負担になってはいませんか?」


相変わらず他人行儀で丁寧な、距離感を感じる口調だった。其れに対して別に何とも思わない。寧ろカタハテが星彩に来た頃に比べれば、随分人らしさが優しさが戻ってきた様に思った。


「いえいえ、そんな全然。大丈夫です。私が好きでやってる事なんですから。負担だなんて。それに私もまだまだ未熟ですし、手探りの指導になっているのが申し訳ないくらいで」


「そんな事ないですよ。ツァガナもリーネさんとの良く楽しそうに話してくれています」


私の事を楽しそうに話してくれているのだ、と思うと、抑えるのが難しい程自然と顔がにやけて、朱に染まってしまう。私はテーブルの下で強く手を握って、平常心平常心、と感情の制御に努めた。


「練習、の話はツァガナさんが戻ってきてからにして。その、カタハテさんツァガナさんにあまり自分の事をおしゃってないんですね」


1度会話が始まってしまえば、自然と会話に関する記憶が呼び起こされて、話題が浮かぶ。私は其の中で最も疑問に思っていた事を掴み取った。

カタハテは一瞬驚きを顔に出した後、交渉を行う時の様な精悍な顔つきをした。石像の様に固まる彼はもう近くにいない様に思えた。


「どうしてそう思いますか?ツァガナから何か聞かれましたか?」


「いえ今の所は何も。ツァガナさんに初めて会った時に、カタハテさんの人種について口を漏らしてしまって、その時のツァガナさんの反応を見て気がつきました。明らかに驚いていましたから。それからはそういう話題は避けてきたんですけど」


「確かに、隠していない、といえば嘘になりますね。いつまでも黙っているつもりではないんですけれど。でも、もう少ししてから伝えた方がいいと思うんです。あまり立て続けに問題をぶつけるのは酷ですから」


「そうですか。それじゃあ、カタハテさんが選手だった頃の事も伝えてないんですね?」


「はい。過去の話は大体人種の話に繋がってしまいますから。エルフォルト家からの支援を見事無駄にした話もしていませんね」


「引け目、ですか?エルフォルト家を怖がる理由は。それにしても大袈裟な気がしますけど。態と大きくリアクションを取ってます?」


「そうですね。星彩に来た頃は目的を遂行するだけのプログラムなんて言われてしまいましたから。リハビリの一環です。単純にリーネさんのお父様の人柄が本当に苦手なのも理由にありますけどね。事情を知らないツァガナからしたら、エルフォルト家を異常に忌避する変なおじさんですね。私は」


カタハテは力の抜けた顔で、何とも情けない、と肩を竦めて見せた。「本当ですね」と私は口に手を当ててくすくすと笑った。


「今のカタハテさんとツァガナさんはよく似ていますね。具体的には言えないですけど、雰囲気が。ナムルマティアの方ってみんなそんな感じなんですか?」


「いえ、寧ろ私たちは珍しい方で。でも確かに似てるかもしれませんね。今となっては性格も境遇も。小さい頃一緒に過ごしていたからかもしれませんね。彼が覚えているかは怪しいですけれど」


「成る程」と私は表面的に頷きながら、唾液を飲み込んだ。

理由を尋ねる機会が訪れたと思って緊張したのだ。カタハテがツァガナを馴染みもない地の、接点のなかった競技に招いた、その理由を。

ツァガナに恋をしなければ、きっとそんな理由など私にとって些細な事だっただろう。私が星彩に来た頃のカタハテを知らなければ、大して気にもならない事だっただろう。

けれど、現実はそうじゃない。私は以前のカタハテを知っているし、ツァガナが愛おしくてたまらなかった。

故に私は、心の中で自分の頰を強く叩き挟んで気合を入れて、何気なく其の場の流れに沿う様に其れを尋ねた。


「やっぱり境遇も似てるんですね。じゃあ、それじゃあ、もしかして、ツァガナさんを態々騎翼走に招いたのは、貴方の代役にするためなんですか?」


空気が変わるのが分かった。体感温度が氷の中に突き落とされた様に下がって、皮膚の表面がピリピリと凍えていく。

カタハテも変わっていく。以前の彼に戻っていく。星彩に来た頃ばかり、州内に戻って来たばかりの頃のプログラムと言われた彼が其処には居た。

生物的な暖かさがボロボロと彼の肌から剥がれ落ちて、無機質な冷たい炎が姿を現していく様だった。目は触れたものの熱を吸い尽くしてしまう沼の様に深く濁って、見開かれていた。

ひたすらに無表情だった。己の心をとうの昔に刺し殺したばかりに、蝋人形の様にのっぺりと冷えてしまった、生気のない顔だった。


私は幸運にも其の様子を端的に表現する言葉を持っていた。 恐らく其れは執念だった。

其れもツァガナの様な感情を元にする執念ではない。そういう執念は、ツァガナの瞳の様に燃え盛るものだった。

彼の場合は、きっと使命を元にする執念だった。生まれた時から存在理由として教え込まれた様な、他人から強制され、いつの間にか自分の全てに成り代わってしまった様な、そんな冷徹な執念だった。

そんな執念だけが彼の身体を満たしていた。


あまりの剣呑さに私は口を吃らせた。先程の言葉を口に出そうと思ってから、此の様な空気に呑まれる事は覚悟していた。故に此処で口を閉ざす訳には行かなかった。

此処で怯えた様子を見せてはダメなのだ。もしもの時のために、私の首から垂れ下がったゼヘが防御機構を待機させてくれている。今聞かなくてはもう機会がないかもしれない。

私は浅く2、3回息を吸って、意を決した。


「そうなんですね?ツァガナさんはやっぱり利用される為に呼ばれたんですね?」


カタハテは咀嚼する様に深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐いて答えた。其の動きは思慮深いというより計算高いという言葉の方が良くにあった。


「犯罪に巻き込もうって訳ではないですよ。第一そうであったら、私はとっくにこの州国家を追放されているでしょうし。“装備”は悪意や害意には頗る敏感ですから」


「わ、分かっています。だから事の善悪は心配していません。けれど、それがツァガナさんを苦しめないとは限りません。私はただツァガナさんにこれ以上苦しんで欲しくはないんです。大変な事に巻き込まれて欲しくはーーーー


ーーーーこれはナムルマティアの問題だ。もう我々には時間がない。誰かに負担がかかってもやるしかないんだ」


カタハテは私の言葉を遮る様に言葉を重ねた。其の声は決して乱暴なものではなく、けれど覚悟をし終え変わる余地がないといった声でもあった。唯、冷静で鋭い無機質な声だった。

私は其の声の所為で尚更彼を信用できなかった。否定しないという事はツァガナが苦しむという事だろうか。一瞬彼はもう人の心がないのではないかと想像してしまう。此処で感情的になってくれた方が余程信用できただろう。

私はカタハテの気配に押されて緩みそうになる弱い心を締め直して、涙声をかき消した。


私は、以前の彼を知っている。過去の全ては知らないが、確かに数年前の彼なら知っていた。彼は目的があって星彩に来た。ナムルマティアの文化革命という目的だった。

彼は其の為ならば自分を使い潰す事も厭わなかった。寧ろ自分という存在は、其の目的を叶える機材だという様に振舞っていた。

そうならば、代役のツァガナもそんな姿勢を強いられてしまうのだろうか。そんな事を見逃す事も、ましてや認める事などしたく無かった。


「尚更認められません」


「別に君に認めて貰う必要はないよ」


カタハテは強く私の意志を切り捨てる様に言った。所詮部外者の言葉だと、取り合わなかった。

私は其の態度が信じられなくて、感情共有で無理やり、カタハテの思考を掠め取った。

一瞬だけ見えた心象は屍体の海に立つカタハテだった。血塗れで傷だらけで、其れなのに嘆く事も泣く事もしないで、ずっと何かを探し続けていた。

私は其の光景を深く理解などはしないで、直感から来る感情と共に声を張り上げた。


「っ!貴方の目は、良くツァガナさんに似ています。赤くて、二重で、睫毛がとても長くて。でも決定的に違います。ツァガナさんの目は鮮やかな赤橙です。燃えるみたいに、意志があります。泣き腫らした赤さを隠した活気の目です!でも貴方は違う。貴方のは鉄錆の血色です!多くの祖先の死骸の中に目覚めて、その恨みつらみを一身に背負って、今も亡者に縋り付かれている様な!どす黒い酸化した血の色です!」


「嗚呼、良くこちらの事情を知った風に言うと思ったら、こちらの思考を読んだのか」


カタハテは一瞬動物の威嚇の様に歯茎を剥き出しにしたが、すぐに冷たい表情に戻って落胆した様に言った。

私は許可なく他人の心を覗いた罪悪感と、言い様のない悲しさから、顔を下に向けて「少しですけど」と呟いた。

何があっても冷静に努めようと思っていた心が何処へか流れていってしまって、泣けてしまう。声がふやけていって、鼻をすする涙声になってしまう。

其れでもまだ言っておきたい事があった。どうしても放って置けない事をカタハテは思っていたから、せめて其の事に異を唱えておきたかった。

私はもうカタハテの顔が見れなくて、ポタポタと頬を伝う涙で床を濡らしながら、手で覆ったまま地面に向かって叫びあげた。


「貴方は最悪、ツァガナさんがどうなってもいいと思ってるんですね。伝統解体という大義に為なら仕方ないって。ならやっぱり危ない。きっとツァガナさんも同じ事を思ってしまう。他人を巻き込むぐらいなら、そんな事、貴方自身の足が折れた時に諦めるべきだったんですよ!」


「諦められるか!一族を諦められるかッ!人1人で一族が変われるなら安いだろう!本家も分家も無くして、健全な社会になって!このまま変われずに外に出たら、迫害でまた大勢死ぬぞ!それなのに州内でぬくぬくと生きてきた部外者が諦めろなんてッ!」


カタハテは其の時今回初めて感情を露わにした。噛みつく様な獣の声だった。いや実際に身体を前のめりにして吼える様は噛みつき其の物だった。何処にそんな力があったのだろうか、彼は金属製の車椅子の肘掛を捻じ曲げる程、手を握りしめていた。

カタハテの剣幕と怒声を前に私の弱りかかっていた威勢はポキリと折れて、ひっと悲鳴を漏らして頭を抱え込んだ。

ゼヘが待機状態にしていた防御機構を対人モードで起動して、向日葵色の薄膜を展開して私を包み込んでいく。


「何喧嘩してるんですかッ!リーネ下がって、大丈夫?カタハテさんもらしくないですよ大声あげるなんて」


其の直後だった。エプロン姿でヘッドフォンを首に掛けたツァガナがリビングに飛び込んできて、私とカタハテの間に割り込んだ。


6-3(加筆済み、未推敲)



時は幾許戻って、カタハテが気まずい空気を察して沈黙を破った頃、俺はキッチンでため息をついていた。


「茹でてないし、煮込んでない。だから率先して立とうとしたのかカタハテさん」


理由は単純で鍋が作りかけで放置してあったからだった。出汁は取ってあったし、几帳面なのか大雑把なのか、切り終えられていた具材はまとめて金属製のトレーに入れられていた。ただ仕上げというか、具材を順番に投下して煮込むという工程が一切やっていない。

鍋を持って行くだけを想像していた俺は、とんだ不意打ちに心を折られかけたが、落ち込んでいても仕方ない、と炊事用衣類棚からエプロンを引っ張り出した。


「えっと。卓上の熱源機器はないのか。煮込みながらみんなで突っつくのは無理だな。んー時間もないし圧力鍋でちゃちゃっとにちゃうか。15分いや20分目標くらいで頑張ろう」


“装備”に20分間のタイマーを頼んで、エプロンの腰紐をキュッと締める。手を念入りに洗って、希釈を利用した殺菌を重ねれば、料理の準備は完璧だった。

料理は苦手ではない。寧ろ家事全般は、姉のヴェーヌァが“お側付き”に出てからは俺の仕事であり、得意な部類だった。

母親は俺産んだ直後に亡くなってしまったし、父親は家にいる事の方が珍しくなるくらい何処かへ出かけてしまって、時たま夜家に帰ってくるだけだった。そんな環境では自分で家事をするしかなく、故に家事が得意にならざる終えなかった、という方が正しいかもしれない。今回のような鍋料理では料理の得手不得手など些末ごとかもしれないが。

カタハテのお膳立てもあってか、俺がやる事自体はかなり少なかった。材料を煮えにくい順に入れ重ねて、蓋を閉めれば、万が一に備えて火力を確かめる事だけが俺の仕事になった。

カタカタと震える鍋蓋を淡々と眺め続けるというのは、堪え性のない自分には酷く苦痛だった。時々圧力調整口から漏れる湯気を見ては食材の茹で具合に想いを馳せる事ぐらいしか変化もない。

数分もする頃には、鍋を正面に捉えながらも、背中を冷蔵庫に預けて、座り込んでうなだれていた。

すると、料理途中に何処かへ浮遊して行ってしまった“装備”がヘッドフォンを其の身に掛けて帰ってきた。


「ツァー暇そうにしてらっしゃいますねー?」


「青年期真っ盛り、多感な時期だからな。持ち手無沙汰っていうのは苦手だ」


「じっとしてられないのはご自身元来の性格だと思いますけどね。そんなツァーにこれです。へっどふぉーん!せっかくですから音楽でも聴きましょう。一族にいた頃は、こういう文化に触れる機会がある数少ない人でしたのに走ることばっかりで。だからリーネ様とのSNSで話題に困るんですよ。ほらこのバンドとか如何です?流行りのものから」


そう言って“装備”はヘッドフォンを此方に投げ渡した。俺はめんどくさそうにしながら其れを掴み取ると、取り敢えず勧められるままに頭につけた。音楽を聞いていても鍋は見てられるし、退屈しのぎには丁度いいか、と意識を耳に分け与えた。


「あ、この曲好き。どこの?」


「ははーん。やはりヴェーヌァ様とは姉弟なのですね。心響音色ってバンドの姉妹グループ、今売り出し中かつ人気上昇中の伝心葉ノ音ですって。へーデビュー曲が映画の主題歌なんですって凄くないですか?憧れますねー」


「はいはい憧れる憧れる」


”装備“が垂れ流す情報をほとんど処理せず乱雑に捌く。”装備“はそんな此方の態度に意も返さずにつらつらと下らない情報を喋り続けた。

”装備“は持ち主との円滑なコミュニケーションの為お喋りなAI型が多いのだが、其の中でも俺の”装備“がよりお喋りになったのは、恐らく独りぼっちになった俺を寂しがらせない為だろう。

ナムルマティアは正確に言えば州国家に属していないので、州国民全員が持つ必要がある”装備“を、ナムルマティア全員が持っているわけではない。寧ろ”装備“を持っているナムルマティアは本家のごく一部、州国家との合流を認める派閥だけだった。

俺が”装備“を持っているのは、まだ幼く脚が速かった頃、本家の一員として”装備“を受け取った時の名残だった。

当然俺が走れなくなって本家の資格を失った時”装備“は取り上げられそうになったのだが、一度受け取った”装備“は例外を除いて持ち主から取り上げる事は出来ないという、自治権を持つナムルマティアにも適応される州国家の法によって其の難を逃れて、今に至る。

考えれば”装備“とはもう15年近くの付き合いになるのだと思うと、感慨深かった。


「ちょっと待って今の声って!?」


ぼんやりとしていた意識が急速に晴れていく。大音量で流れる音楽の裏に張り上げた泣き声を聴いた気がしたのだ。ヘッドホンを横に広げて耳を澄ますとやはり泣き声は確かにあって、しかもその声はリーネのものだと気づいた。


「嘘っなんかあったのか!?」


俺は地面を蹴り飛ばす様に立ち上がって、キッチンを飛び出した。


息を上げて、リビングに飛び入ると、リーネとカタハテが対峙しているのが見えた。カタハテは此方に背を向けていて表情が読めないが、リーネは顔を押さえて嗚咽を漏らしているのがよく分かった。

リーネは彼女の特有の向日葵色の薄膜で身体を覆っている。何か恐ろしい事があったのか、“装備”の防御機構まで使っている所を見てしまったならば、一先ず何方の味方になるかなど決まった様なものだった。

俺は2人の間にあるテーブルを押し退ける様にして、リーネを庇う様に2人の間に割り込んだ。


「何喧嘩してるんですかッ!リーネ下がって、大丈夫?」


最初の声は2人に自分の存在を知らしめる様精一杯つんざく様な声を上げた。リーネを背で押して距離を受けるように促し、彼女を刺激してしまわぬように囁く様に背中越しに声をかけた。

彼女は力なく何度も頷くと涙を手で拭いながら「違うんです、違、うんです」とポツポツと言っている様だった。

俺には其の言葉の意味が分からなかったが、今は其れよりも気にする事があると、顔を正面に向けてカタハテと相対した。


「カタハテさんもらしくないですよ大声あげるなんて」


其の口調は何が起こったかも知らないくせに、カタハテの大人気のなさを責める様だった。出来るだけ公平であろうという意思はリーネの怯えた姿で思考から吹き飛んでしまって、俺はカタハテを睨見つけた。

そして其の時ようやく俺は彼の異変に気付いた。俺は絶句した。其所に居たカタハテは自分が良く知る人物だとは思えなかった。

光のない目だった。魂の抜け落ちた身体に執念だけが残って、体を突き動かしている様な奇怪さが其処にはあった。到底真面な人が纏える雰囲気ではない。

脊髄を舐め啜られる様な悪寒が背筋を伝って脳に突き刺さって、視線が震えてしまった。


「本当に、カタハテ、さん?生きてるの?」


思考を介さずに恐怖が口を動かした。過去に執着して今を生きていない自分が言えた事ではないと分かってはいたが、そう呟く他なかった。

カタハテは何も言わない。唯真顔のまま目を見開いて此方を見つめ続けている。ひたすらに不気味だった。


「ごめ、んなさい。私帰ります。ほんと、ほんと、ごめん、なさい」


背後にリーネがか細い声を絞り出して、俺の脇をすり抜けてリビングを飛び出していく。呼び止める暇もないくらい、此の場を逃げ出す様に駆け出したあっという間に背は遠のいていく。

手を伸ばしても彼女は掴む事は出来ない。俺は其の背にある日のシューテの姿を幻視した。幼心では感じ取れず、感じ取れるほど物心が育った頃には、関係が壊れてしまっていた、其の後悔が目の前の恐怖から身体を解放した。


「か、カタハテさん。帰ってきたら、事情聴きますから」


得体の知れない何かに出会って竦んでいた身体の感覚が復帰して、現実感が増していく。

リーネを追わなけば、と過去の後悔が耳元で囁いた。俺は其の声に押されて、彼女に続いてリビングを飛び出した。

リビングには肌寒い寒さだけが残った。其の中でカタハテは微動だにせず、俺たちがいた位置を見つめ続けていた。




リーネは、星空が見下す牧場を出口に向かって飛び続けている。翼を振るう度向日葵色の鱗粉が舞い散って、光の軌跡を描いた。

俺はそんな彼女に追い縋ろうと大地を蹴り続けた。


「レネーっ、リーネ!」


名前を呼んでも返事はなく、飛ぶ速さに変化はない。一種のパニックだろうか、此方の声などまるで耳に入っていない様だった。

ある程度脚が傷つく事を許容すれば、いつまで経っても彼女に置いていかれることはない。ユーフェマティアは瞬間的にも長期的にも其処まで速い人種ではなく、反対にナムルマティアは速さに呪われた人種であるのだから、其れはある意味当然の事だった。

けれど其れはあくまで大地がある事が前提で、走る事ができない場所を飛ばれたりしたら、其の時点でもう彼女には追いつけなくなる。其れに、出来れば、早く落ち着かせてあげたいから。


「装備ッ!落下の衝撃吸収やれる!?」


「それって跳びついて無理やり止めるって事ですか?」


切羽詰まった声に、“装備”は速やかな理解を示した。伊達に長年ともに過ごしたわけでは無かった。


「そう!ゼヘともシステム同期して、干渉し合わない様にね!」


「せくはらー!」


「言ってる場合かこのバカッ!」


叱咤に対して“装備“は赤橙の光は吐いて答えた。希釈に使う為幻想が引き抜かれて、一瞬心が鎮まれば、準備完了の合図だった。“装備”が大規模に赤橙の霧を、星雲の様に周囲に広げた。


「絶対リーネに怪我させないでくれよ!」


リーネの真後ろにつけて、大地を踏みしめる。前方ではなく上方へ身体を持ち上げるべく、脚を駆けた割れる様な痛みなど気にせずに、俺は脚を振り抜いた。

今回伸ばした手は、確かに彼女に届く。其れが俺は無意識に涙が溢れるほど嬉しかった。




「痛いとこない?怪我とかは?翼とか、俺見ても分かんないから、大丈夫そう?」


「はい、だいじょうぶ、みたいです。はい」


腕がリーネに届いたからといって、都合よく脚から着地できるわけもなく、俺とリーネは半ば倒れこむ様な形で地面に墜落した。

予期してなかったわけではないし、そういう時の為に”装備“に希釈をしてもらったのだが、其れでも、最もそつなくこなしたかった、と思う自分がいた。

もし、そつなくこなせれば、彼女が怪我をしていないか、此処まで心配することもなかっただろう。


「本当に大丈夫そう?」


「本当ですよ」


俺とリーネでは体構造に差異がある。男女差という事ではなくて、此の場合は人種差だった。

俺には翼はないが、彼女にはある。俺には蹄に似た部位があるが、彼女にはない。何よりナムルマティアは骨格が頑丈な方であったが、飛行の為に物理的な軽量化が進んだユーフェマティアは骨格が比較的脆いらしかった。

そういう訳で自分が大丈夫だからと言って、彼女が大丈夫な保証はなかった。

また、彼女の性格からして、もし何かあっても黙っていそうな所があって、俺は少ししつこく体調を尋ねていた。

彼女は、もう大丈夫ですって、と鬱陶しそうにしながらも頼りなく笑っていた。


リーネがパニックを解消するまで大して時間はかからなかった。というより、一緒に墜落してた直後、2、3呼吸した頃には状況を把握したらしく、正気を取り戻していた。


現在、俺たちは牧場を横断する道の端の、木造のフェンスに体重を任せて、白い吐息を空に離し続けていた。

俺の“装備”とリーネの“装備”が互いの主人の周りをぐるぐるとせわしなく飛び回って、念には念のメディカルチェックを、加えてリーネの“装備”は服装の清掃を行なっていた。

ポツリポツリと、何気ない短いやり取りが交わされるだけで、互いの間には冬風の音だけが響いていた。

本当は、俺は此の時間に、カタハテと彼女の間に何があったかを尋ねたかった。けれど、今其れを聴くのは良い選択ではない気がして、俺は黙っていた。

リーネをちらりと見る。彼女はフェンスに腰掛けて、膝の上に置かれた彼女自身の手をぼんやりと力なく眺めていた。もこもことした防寒着に顔をすっぽりと埋めている。彼女のトレードマークの雀色の翼も小さく自身なく折りたたまれていて、呼吸も浅く少なく、如何しても儚く不安に見えてしまった。

短いやり取りの際も声は落ち着いている代わりに意気消沈したもので、其れも不安の種だった。

何かに悩んでいるのだろうか、後悔しているのだろうか、其れとも侮蔑や落胆の様な感情を抱いているのだろうか。

如何してリーネとカタハテが喧嘩をして、何を言い合った知らない自分では、彼女を慰める事は出来そうになかった。

けれど、唯、単純に、此の儘家に帰したくはないな、という思いがあった。暗い表情の儘別れるのは認めたくなかった。何故かは分からないが、そうしてしまったらまた大切なものを投げ捨ててしまう気がした。

だから俺は緊張してキュッと痛くなった胸で、無理やり空気を吸い込んで言葉を紡いだ。


「今7時過ぎくらいなんだけど。今から何処か出かけたいなとか思うんだ、けど」


何処かへ誘うにしてはぎこちない震え声だった。余りにもぎこちなくて、本気にされずに流されてしまうのではないか、と思うほどだった。

リーネの横顔を見ると、思い悩んだ表情で指先を遊ばせているだけだった。顔は手元を見たままで、顔を上げてくれはしなかった。

リーネからの返事はなくて、息がつまる。間違った選択をしたのではないかと、外気温に反して冷や汗が肌を伝った。胸の痛みは、此の儘胸が内側に潰れて無くなってしまうと本気で思う程まで大きくなった。

そんな辛い時間を超えて、彼女は徐に顔を上げた。彼女は少し無理をする様に声の調子を元に戻して答えた。


「奇遇、ですね。私も泣き顔じゃ家に帰れないって、思ってたんです」


彼女は此方を見てにへらと力なく笑った。俺は詰まっていた息を吹き返して、安堵のため息をついた。


「何処行こうか?」


「この時間なら映画館とかですかね」


「映画初めて見るかもしんない」


「ツァガナさん、ほんと娯楽に疎いですよね。お友達とかと話したりしなかったんですか?」


当然の疑問だ、と彼女は軽く首を傾げた。


「ナムルマティアは自治区に引きこもるタイプだったから、友達とかはいなかったかな」


「あぁっ今の話題なしで、お願いしますね。えっとえっと、それでどんな映画見ます?」


自虐気味に笑って友達はいなかったというと、彼女は地雷を踏んだのだと勘違いをして、慌てて話題を元に戻そうとした。

早く話題を変えようと目にも留まらぬ速さで“装備”を操作して、リーネは空中ディスプレイに映画館の広告を表示した。

彼女の慌てた様子は、実に普段の彼女らしくて、俺は其れを見守るように微笑んだ。

「ちょっとこっち来てみてくださいよ!ね!」とリーネが少し必死になって呼びかけてくるので、俺はフェンスから降りて、彼女の近くで座り直して、其の広告を覗く様に首を伸ばした。


「へー映画って、スクリーン型以外にあるんだ」


「はい、VR機器で登場人物になる演者型とか、映画の世界に入って自由に散策できる没入型とか。映画は長編映像作品の総称になってますからね」


「じゃあ、俺はせっかくだから普通の座席に座ってみるスクリーン型がいいな。誰かと行くならスクリーン型がいいってあるし」


「スクリーン型ならこの作品とかどうですか。今話題になってますよ」


「あーそれ知ってる。この間主題歌聞いたよ。伝心葉ノ音ってとこだろ」


「勉強しましたね?」


少し驚いた表情をした後、ほほぅと満足げにニヤつくリーネ。俺は何処から気恥ずかしくて、素っ気なく答えた。


「おかげさまで誰かさんに話題合わせないといけないからな」


「ふふっ、ありがとうございます」


「どうも。それ見るとしてどんな映画なの?」


「メガネがないと人と話せない主人公のお話ですって。目は心の窓で、目を覆うメガネは心を他人から守る防壁だってありますね」


目的地が決まって、リーネが軽く翼を羽ばたかせてフェンスから舞い降りる。其れにつられて俺も立ち上がると、小走りでリーネの横に行って、歩幅を合わせた。


「あ、化粧崩れてるけど」


「え、嘘。駅改札で待っててください。私ちょっと寄るところが出来ました。一人で先に行かないでくださいね?」


「あいあい。薄くだけど化粧かーませてるなーまだ若いのに」


「ませてないですー。私の年なら普通ですから」


そんな事も知らないなんて、と小馬鹿にする様に彼女は首をすくめた。俺は「なんてこったーしらなかったー」と態とらしく反応を返した。


リーネの調子が戻って良かったと思う。けれどそう思えば思うほど、先程の言い合いの理由やカタハテの豹変が気にかかった。

カタハテについては知らない事が多過ぎる気がする。此の儘ではいけない気がする。

言い様のない不安感がまた一回り大きくなって、カタハテへの疑念がまた増した。

次の更新は2/30を予定してしています。

長所短所感想等よろしくお願いします。


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