7.道のりは長く、先行きは暗く
入浴を終え、就寝用のゆったりとしたパジャマに着替えて、屋敷の中を行く。
古めかしい洋館の廊下には、就寝の備えて薄暗くなった、ランプ型の電灯が等間隔で散らついていた。慣れ親しんでいても、若干の怖さを覚える不明瞭さが空間を満たしている。窓から入る青白い月明かりが、ランプの薄い暖色光と影を境に鬩ぎ合って、現実離れしている様にも思えた。
ユーフェマティアのパジャマは一般型とは違い、翼の根元を圧迫しないよう、肩甲骨下まで開いている。しかし、もう明け方には霜が降り始める頃というのもあって、背中が開いているリラックス目的の服は堪えるものがある。其の為、ユーフェマティアの多くは、冬の間、マントやベールといった軽く滑らかな羽織物を常用していた。
当然私もそうだった。羽織っているのは雀茶色をした翼に合わせた薄茶のベールだった。光透かせば琥珀の様に品良く光る。銀線と金線で丁寧に縁を刺繍された其れは、必要最低限の色味でも決して地味ではなく、寧ろ締まり良く自然と視線を集めてしまう様な一品だった。高校の上がる頃に母からプレゼントされたお気に入りだった。
ペタペタとスリッパの音を館内に響かせながら、湯冷めしないように羽織った薄茶のベールの中で翼の羽並を確かめる。
「うーん、ちょっと湿ってる..?翼重い気がするしなぁ。ゼヘ、ここら辺乾かして。ぜったいっ傷めないでね?生え変わるのにも結構かかるんだから」
羽根を摘んだ指先に湿り気を感じて、私は眉を潜めた。其の後、ベールを肩越し手繰り寄せる様に脱ぐと、羽根を真後ろにピンと伸ばして、“装備”に言った。
“装備”は了解の意で震えると、向日葵色の光を宙に舞う絹糸の様に何本か伸ばして翼を乾燥させた。
「おぉー!これはルクニさんの手並みに負けずとも劣らない手並み!」
向日葵色の光が周囲に散って微希釈による乾燥が終了した事を告げる。羽根を軽く動かせば、先程よりも軽やかに澄んだ風を起こしてみせた。翼を丸めて、指で翼を撫で梳くと、湿り気などは一切ない、心地好い指通りだった。
ベールを羽織り直す。私は思わず何度も指でベールの中の翼を梳いて“装備”の仕事ぶりを確認しては、息の抜ける様な間の抜けた感嘆の声の声をゆっくりとあげ続けた。“装備”は何処か誇らしげだった。
「当然、優秀装備故。それよりレネー、ブラッシングはどうする?」
「ブラッシングはー、ルクニさん居ないとなると...今日もママかパパに頼もうかな」
ルクニ、ルクニ・ビエニカトというのは、エルフォルト家で雇っているユーフェマティアの家政婦の事だった。仏頂面で無表情で真面目、けれど何処か愛嬌のあるジョークが好きな女性だった。
雇っていると言っても、何方かと言えば、義務と金銭的な主従関係ではなく、近所の家事好きのお姉さんが手伝いに来ているという感じの方が近かった。
現在ルクニが居ない理由はそんな深いものではなく、単純に旅行に出かけるべく休暇を取っているからだった。
「寒いのが嫌なので州立熱帯公園に遊びに行ってきます。こんがり焼けて帰ってきます。2週間ほど探さないでください。追伸、エルフォルト家の皆さんは家事が壊滅的なので、手順表と私の連絡先、緊急連絡先を、デジタルアナログ共に残しておきました。がんばってくださいぴーすぴーす」
という書き置きと共に、完璧な事前連絡と彼女が留守の間の対策を残して、彼女は旅行に出て行った。
寒いのが嫌ならもっと後の時期に行けば、とか、そもそも他都市より平均気温が幾分か低い星彩にいなければいいのに、などと思わなくもなかった。
「パパいるー?」
夜に廊下に父の書斎の扉から光が漏れて何本かの筋を作っていた。暗い廊下では其の光はよく目についた。
書斎からウンウンと唸る悩み唸る声がしていれば、中に誰かがいるのは容易に推測できた。
私は半ば確信しながら、扉を少し開けて、隙間から首だけひょこっと書斎に入れて声をかけた。
案の定父は其処に居た。未だ余所行き用の堅苦しい服に身を包んで、書斎の奥に置かれたモダンな書斎机に肘を乗せてながら、“装備”から出されただろうディスプレイを見ていた。
私に気づくと、父は目頭を摘んだ手を退けながら険しい顔を解した。机に手をつきながら少し腰を浮かせて、取り繕ったばかりの朗らかな表情で父は私を手招きした。
「おじゃましまぁす」と些細なお辞儀をして書斎に入るのと、父が、奥の机から、書斎中央に置かれた、面談用に向かい合わされたソファの片割れに向かうのは同時だった。
「どうしたの?そんな怖い顔をしてて、しわしわになっちゃうよ」
思考を其の儘口から漏らしながら、父の向かい側の、背の低いソファに腰を下ろした。「まだ若いと思うが」と父は眉を下げ苦々しそうに自分の顔を指先で撫でていた。
「難しげな顔をしてた理由より、何か用事があったんじゃないか?」
「そう翼のブラッシングをお願いしたいなって。忙しい?」
忙しいかと気遣ってみせたが、書斎のソファに腰を下ろした時点で、ブラッシングをして貰う気は満々だった。此処数日は父母に翼のブラッシングを頼んでいる為、父も其の言葉を予期していた様だった。
父は、ソファ同士の間にある、ガラス板の座卓の上に手を伸ばした。其処には私が持参した翼のお手入れセットが置いてあった。小さいベージュのポーチだった。
其れを確認すると、私はベールを畳んで座卓に置いた。翼を羽ばたかせると、跳ねる要領でくるりと逆を向いて、ソファの座面に膝を乗せて、背もたれに覆い被さる様な姿勢になる。学校で椅子に逆向きで座った時の様な姿勢を、多少上品に取り繕ったものだった。
上半身を揺らして収まりを確認する。脇に背もたれがうまく引っかかった事が分かると全身の力をふにゃりと抜いた。
後ろでは、床に引かれたカーペットの上に物を滑らせる様な音がしている。ブラッシングの為に、家具の位置を調節しているのだろう。翼の手入れ道具に手を伸ばす前に、動かせばいいのに、などと小さい事に文句をつけて、「段取りが悪い」と満足げに微笑んで呟いた。
「翼広げて」
「はぁい」
翼に響くくすぐったさと共にすっすと、聴き心地の良い摩擦音が響き始まる。
父の手付きは慣れたものだった。母の手入れをやった事があるのだろうか。
規則正しく一定間隔でブラシが羽根の間を滑っていく。力加減は絶妙だった。
思わず足をパタパタと振って鼻歌を歌いたくなった。流石に足は迷惑なので、鼻歌だけで我慢した。
「それでさっき何見てたの?」
「見ても面白くないと思うが」と父は数秒手を止めて、“装備”を触っていた。
すぐに父の“装備”から動画ファイルが送られてくる。「ぜへー」と声をかけると、首からぷらぷらと垂れて、ソファの背もたれに衝突を繰り返していたペンダントが、空中に動画ファイルを展開した。
「あぁー、この前の放送の映像だ。無理言って、後ろの方に回してもらったんだったっけ?より印象に残るように」
「そうなんだがなぁ」と明らかに父の声が低くなる。見てなくとも、苦い表情なのは手に取る様に分かった。
「パパ、しわ」と背を向けたまま言うと「おお、レネーはテレパシーが使えたのか」と苦笑い混じりの冗談を返してきた。
「それでもその甲斐はなかったみたいでなぁ。あんまり騎翼走のイメージ改善にはなってないみたいだ」
「賭博のイメージ?別にそんなんじゃないのにね」
「そうだね。でも一度ついたものは覆しにくい。こうやって広告を出していてもね。それに州民は特に賭け事を毛嫌いするから」
州民は賭け事を好まない。教育がそうさせるのだろうか、多種多様な人種や文化を湛えている州国家にも関わらず、其れは全体に対して言える傾向だった。
嫌悪や偏見というよりは自制に近い感覚だった。
一瞬訪れる衝動性と其の際の快感、其れに対するリスクとの兼ね合いを冷静に判断するのは難しい。一瞬の夢に想いを馳せて遊ぶ分には問題ないが、身を崩してしまう可能性捨てきれない。
其れ故に州国家の住人は、自衛的に賭け事を避けるようになった。
其れを悪い事だとは言わない。自分の自制心を過信せず慎重になる事は、極めて普通のように思う。
唯、当然其の影響が純粋に賭け事一点に集中するわけもなく、其の余波に翻弄されているのが今の騎翼走であった。
賭け事を避ける過程で、関連する競技も避ける。そうなってしまうのは仕方がない事とも言えた。
「競技人口の減りも結構凄いんでしょ?早くイメージ改善して、他人種も取り込まなきゃ騎翼走衰退しちゃうよ。ただでさえ伝統技術派生のせいで閉鎖性が強い競技なのに」
「嗚呼どうしたものだろうね。正直パパたちでは有効な手段があまりない状況だ」
私は衰退の未来を幻視して、不安げに背後の父をちらりと見やった。父は何処か達観した様な表情でブラッシングを続けた。其の声色は諦観を含んでいる様にも思えた。
賭け事の敬遠がどの様に騎翼走に影響を及ぼすかと言うと、其れは競技人口減少という形で現れた。
レジャーとして、猛禽馬に騎乗する人は少なくない。寧ろレジャーとしては人気のある部類だった。
しかし、競技として、騎翼走を行う人口は減少を始めていた。
今まで騎翼走を支えていたユーフェマティアが多様な文化に触れ、騎翼走以外の道を歩み始める者が出てくるは道理であった。
其れは他の人種の伝統競技でも同じ傾向が見られた。一般的には伝統競技を紹介し、他の人種から新たに担い手を集う事で影響を抑える、抑えるはずだった。
けれど、騎翼走の場合はそうは行かなかった。賭け事のイメージの所為で、騎翼走に縁のない他人種が競技者になる事は殆どない。故に縁を作ろうと騎翼走を競技として紹介しても、賭け事のイメージが先行して受け入れられない。
余りに理不尽な余波だった。
「なら州国家が率先してイメージ改善をしてくれてもいいんじゃないかな。元はと言えば州国家の方針でこうなったのに。今では州国家単独でも活動できるんだから対外政策なんて止めて、娯楽都市での賭けも止めてしまえばいいじゃないの?そしたら騎翼走も晴れて純粋スポーツだよ!」
「対外政策を全て止めて鎖国は極論過ぎるが、騎翼走の賭け事を取りやめるぐらいはして欲しいものだね」
頰を膨らませてブーブーと州に対する文句を述べると、父は苦笑しながらも賛同した様だった。
「州側にそう要請はしてないの?」
「もちろんしたし、その結果15年計画で賭けの縮小計画も立ったんだが。それでどれだけ変わるかと言えば未知数な部分が多い。それに15年は長過ぎる」
「どうしてすぐに止められないの?希釈と特異存在に頼れば、州国家は単独でも存続可能なんだから、対外政策を続けなくても!」
長過ぎる、という父の声は、改善を求める物でなく、奇跡や偶然に寄る問題の解決を望む物の様に思えた。
父は騎翼走連盟の代表の1人でのあるのだから、州との話合いは、当事者として幾度も行ったのだろう。此れ以上、対外政策方向での改善案は現実的に不可能だと知っていたのだろう。
其れ故に、父は諦めた様な態度を取るのだ。理想的でなくとも、現実的の中での最善策だからと妥協しているのだ。
私はそんな態度が何処か気に入らなくて、父を責める様な口調で語気を強めてしまった。
「可能は可能でも最善とは程遠いんだ。それはできないよ」
語気を強めた私とは対照的に父の声は穏やかな儘だった。優しく微笑んで憤る私を、大人な目で見守っていた。
「理不尽を無くすのが第一目標なんだよ。理を希釈し、理故の理不尽を遠ざける。がモットーの希釈技術だよ。州国家の滑り出しだって支えたのに。騎翼走の扱いだって理不尽だよ。」
「嗚呼、本当に。何かもっと注目を集められれる事があればな。騎翼走自体に目を向けてもらえれば、今のイメージだってガラリと変わるだろう。イメージさえ変われば、それだけでいいんだが。」
父の態度に頭を冷やされて、私の義憤に似た感情は霧散していく。一種の気まずさ、自分は間違ったことを言ったつもりはないが、けれど無茶を押し付けていた気もする罪悪感が私の口をすぼめさせた。
私は拗ねた幼子の様に、小さく口籠もった。
父は遠い何処かを眺めて、嗚呼と嘆く様にやるせない表情をしていた。
「ブラッシング終わり。お返しにパパの翼もブラッシングしてくれないかな?」
「えぇー、私はブラッシングは疲れるからやりたくなぁい」
話題を変えたかったのか、声色を親愛に戻して父がコミュニケーションを求めてくる。
私は背もたれに覆い被さった儘、蕩けた表情をして、父から差し出されたブラシをやんわりと手のひらで押し返した。
父は、洗濯物一緒に洗わないで!と言った時と同じ様なとても切なそうな顔をした。
「冗談ですぅうそうそやるよやるって。たまには親孝行しないとだもんね」
一抹の申し訳なさを覚えて、しょうがないなぁ親孝行するよーとふにゃっと笑いながら、身を翻して父の方向へと向き直る。
其の頃には父は既に立派な父の顔へと戻って微笑んでいた。
「いやいいよ。それより夜も遅い。リーネはもう寝なさい。明日も学校や練習があるだろう」
「うんわかった。おやすみパパ」
一瞬意表を突かれて小さく口を開けるが、直ぐに気を取り戻した。
折角ブラッシングする気になったのに、と思わなくもなかったが、父の言うことも最もであったし、私を思いやっての発言ならば悪い気はしなかった。
ブラッシング用具とベールを身につけて、手を振りながら父の部屋を後にする。
「おやすみ愛しいリーネ」
「もうその呼び方は恥ずかしいからやめてよー」
と別れ際に言い合えば、名残惜しさもなくスッキリと自室の寝台へ向かえた。
自室のドアノブに触れた時、其の金属特有の冷たさに指先を刺されて、先ほどの会話で覚えた、仄かな刺す様な痛みを思い出した。
「このままだと騎翼走は衰退する、ね」
さっきは義憤に駆られて熱くなってしまったが、私自身騎翼走が熱烈に好きかと言えばそうではなかった。
猛禽馬に跨ることは好きだ。けれど其れは騎翼走が好きということではなかった。
猛禽馬と触れ合えるなら、騎翼走でなくとも良い。騎翼走の世界が目の前に広がっていたから、なぁなぁとやっていただけで、寧ろ騎翼走にはそんなに好い思い出はない様に思えた。
冷静になればなるほど、騎翼走に入れ込む理由は無いようだった。
「いい意味で、注目が集まる様な、そんなビックイベントはきっとないんだろうなぁ」
私は可能性の高い未来を想像する。人がいなくなり、活気がなくなり、管理の手を離れて寂れた施設が眼に浮かぶ。
全く淋しさを覚えないわけではないが、生々しく思い浮かべられた風景ですら他人事の域を出なかった。
「.....私はどっちでもいいかな」
私は冷めた言葉を吐いて、ドアノブを掴み直した。今後は身構えていたこともあって、指先が痛むこともなかった。
◇
燻んだ白、灰色と呼ぶには清らかで、けれど純白というには暗さを含む鈍い雲が太陽を飲み込んでいる。
秋半ばになり、多少珍しくなった、星彩の位置まで登り切った雲は星彩に冬を流し入れてくる様だった。
10月も折り返し、ドームの外は氷点下20度程に到達する日も出てきていた。
心なしか星彩外縁部に位置する、日に透かした蜉蝣の薄翅の様な、内圧調整ドームの輝きも強い気がした。雷がドームに当たり、シャボン玉の様に揺らめく。吹き付ける小粒の氷片に身震いする様に、ドームが蛍火を宙に撒いた。
献身的に其の形を保ち、知的体の生存圏を維持する鳥籠は、其の身に打ち付ける極寒に何を思うのだろうか。
自分だったなら逃げ出しているだろうな、というか逃げ出したい、と俺は、顔に吹き付け、表皮を裂こうとする冬風に顔を強張らせた。舞い上がった枯葉が、1、2枚頬を叩いて流れていく。
飛んできた落ち葉を避けようとしなかったわけでも、わざわざ顔で受け止めようとしたわけでもない。俺には其の余裕がなかった。
先程の感傷は全て現実逃避のため、なけなしの思考を回したに過ぎなかった。
俺は宙吊りになっていた。
宙吊りになるつもりはなかったのだが、事の成り行き、というか練習の一貫でそうなった。
具体的にどう宙吊りであるかと言えば、つい先程まで跨っていた馬鞍に取り付けられた金属の輪に足先を引っ掛けて、落下するまい、と膝を強く曲げてエンジに身体を寄せていた。
俺は今、騎乗の練習中だった。
エンジの背に乗って飛ぶだけの簡単なものだよ、という事前情報は限りなく当てにならず、其の実態は安全バーのない何回転もするジェットコースターに乗っている様なものだった。
エンジが翼を傾け、姿勢を変更する。其の度に俺が感じる重力方向は、平衡感覚を嘲笑う様に彼方此方に向きを変えた。其処に加減速に寄る加速度が加われれば、大地などは何処かに吹き飛んでしまったかの様に感じられた。
エンジはそんな俺の状態など御構い無しに、捻りと上下の動きを増やしていく。俺は成す術なく、ただじっと耐える様に身を縮めこませることしか出来なかった。
時たま、足先にかかる圧力が消えて、金属の輪から足を離してしまったのではないかとヒヤヒヤした。
エンジが此方の状態を分かっていないわけではないだろう。俺はエンジに入っていないが、エンジは燃料補給の為、感情共有で此方に入ってきている。先程から心から排出される一過性に感情が、バリバリと誰かに貪られている感覚がある事からも其れは確定的だった。
一瞬、吐き気を噛み殺すのに夢中になり過ぎて、身体の力が抜けた。荒れ狂う加速度の中で四肢を緩めれば、当然の様に身体はエンジの背、馬鞍から離れていった。
馬鞍には足掛け用の金属輪以外にも、手で掴むタイプの取手がある。もちろん今も掴んでいたが、胃を裏返す様な感覚の中で取手を掴み続けて、姿勢を戻すことができるかと言われれば、もちろん否であった。
「アっ」
余りにも情けなく、気の抜けた叫びが口から漏れた。吐息と呼ぶ方が相応しい諦めの息だった。
俺はきりもみ回転をしながら、浮遊する偽の大地に引かれていく。視界と同様、ぐるぐると回り散らばる思考では、自分の姿勢の把握すら覚束ない 。
地を這う事だけを胸に掲げ誇ったナムルマティアには、空はあまりにも自由で、掴みどころがなさすぎるのかもしれない、とまた現実逃避じみた感慨を脳内にぶちまけた。
エンジは偽の大地から上空2、30mという所を飛翔していた。其の背から、姿勢が不自由なまま落馬したとなると、人間の身体では無事では済まない。だが、焦りはなかった。実を言うと落馬するのは今日だけでもう3回目なのだ
腰に付けていた“装備”が赤橙の花びらを周囲を撒いて、慣性を無視した大幅な減速と、減速方向に緩い加速度を掛ける。其の上、念には念を込めて、地表にクッションまで形成した。其の見惚れるほど見事な手際のお陰で、俺の身体は赤子を寝台に置く際の様にふわりと着地した。
舞い降る羽毛が如き着地から、此れ又お決まりになった、吐瀉物を大地の草花にお裾分けする、無様極まりない動作を済ませると、口を濯いで、震えが残る脚で大地を踏みしめた。
余談だが、吐瀉物が身体や衣服に着かぬ様シールドを張ったのも、草花にお裾分けした吐瀉物の後処理をしたのも、口を濯ぐ水を持ってきてくれたもの、全て“装備”だった。今日ほど、万能デバイスを自称する“装備”に感謝したことは無かった。そんな事絶対に“装備”自身には告げないが。
現実とは世知辛いもので、1つの問題に専念させてもらえるではない。問題を抱えながらも他の命題に取り組まなければならない事は多々あるし、其の結果と抱える問題が数個、或いは何十個まで膨れ上がる事もあった。
取り敢えず何かを手につけなければ解決も望めない。だが、手を付けようにも問題を抱えた両手では、対処のしようがないという事もある。或いは対処できても大きな負担になるだとか。
今出来る事をしよう、と決意し呑み込んでいた筈であっても、理性や意志から離れた感情は濁流のように自意識を襲った。
今の俺が様にそうだった。
未知の道のりを行けば行く程、過去は尾を引き自分を縛り付け、かつ知りもしなかった未体験が足を掬う。
其れでも進まねばならない。時間は刻一刻と流れていくが、止まる事はなくましてや遡る事もない。未来という一瞬は、今か今かと自分の時間が来るのを待っているのだ。
練習試合が先に控えているとなれば尚更一通りの練習を終えなければならなかった。例え感情共有が未熟であったとしても。
練習試合の話がカタハテからもたらされたのは、今から2週間前程。丁度エンジから過去の断片を見せられた日の夜の事だった。
連日徹夜を敢行した人よりも生気がなく、もはや天日干しの干物の方が瑞々しさがあると思える程の、最悪な顔持ちで夕食の席に着いた俺に、カタハテはにっこりと「急遽決まっちゃったけど。今月末に練習試合が入ったから其れに備えて、他の練習もしなきゃなんだ」と笑顔を貼り付けながら告げてきた。
カタハテにしては珍しい言動だった。カタハテは俺が落ち込んでいるとまず先に其れについて言及してくることが多かった。
けれど此の時は其の様な事は一切なく、練習試合の話をすると、そそくさと夕食を済ませて自室へと去っていってしまった。
きっと彼も焦っていたのだと思う。度々見る張り付かせた笑顔は焦りを隠す為、気遣いを省いた試合の宣告は今まで告げるのを堪えてきた結果の様に思えた。
きっと彼は俺が感情共有を物にするまで、練習試合の事を黙っておきたかったのではないかと思う。問題の堆積を避けたかったのだ。
しかし現実は上手く行かず、1ヶ月という決して長く無い時間で、残りの練習をする事になった。本当に不甲斐ないばかりだった。
現在、エンジとは仲が悪い。今の騎乗練習で此方の状態を考慮しなかったのは、一種の憂さ晴らしの様なものだったのだろう。
エンジとしては、此方が過去の憧憬と不和に一応の解決を得るまで、此方と距離を置くつもりだった筈だ。其の為の強い拒絶の意思だった。
けれど、練習試合という期限がエンジに大人の対応というものを強いた。エンジ自身の腹の虫も収まらぬ内に、練習再開となってしまった。
気不味く思わなくも無いし、申し訳ないと思うところがないわけでは無い。けれど、直ぐにはどうしようもない事だった。
「騎乗時間も22秒の増加です。にしてもなかなか良いタイミングで落ちましたね」
「落ちた事を喜ぶなよ」
呆然と立ち尽くして目眩が消え去るのを待つ。目眩が消え去り活動を再開する頃には、吐瀉物の処理を終えた“装備”が戻ってきて話しかけてきた。エンジは未だに悠々と空を飛んでいた。
「これは失敬。けれどもう降りてきて頂く時間だったので、本当に良いタイミングだったんですよ」
「まだ日暮れまでは若干時間があるけど」
顎に指先を当てて思案する俺を見て、“装備”は信じられないと心底落胆する様に大袈裟なため息音声を再生した。
「この人本気ですか?青春の欠片もないこの意識の低さなっさけない。今日はリーネ様がいらっしゃるんですよ。2週間とちょっとぶり!2週間とちょっとぶりですよ!わかります!?」
「確かに久しぶりではあるね。別都市に大会に行ってたんだったか。流石正選手だぁ」
「はぁほんとこの人。ほらとっととシャワー浴びて来てください。いくらゲロリンカットしたからとは言え、そのまま会うのは気持ちが良くないでしょう?エンジ様とは私から話します。喧嘩されても敵いませんから」
汚れが一切無いと言われても、吐いた後其の儘人に会うというのは確かに心理的な抵抗があった。流石に何も思わない程自分も図太く無い。
防寒服のチャックを開けて運動で篭った熱をパタパタと排出しながら、“装備”に軽く手を上げて「じゃあよろしく」と一声かけてシャワールームに向かう。
“装備”は「あいあい」と生返事で返して、俺を見送った。
まずはタイムリーな事から、受験生の皆さん、センター試験お疲れ様でした。こんな小説を受験生の方が読んでいるかは分かりませんが、其れでも労いの言葉ぐらいは許されるでしょう。
話が変わりますが、先日、久しぶりに此の小説の情報ページに行ったら、評価点が付いていたんです。私は其れが嬉しくて嬉しくて。ストーリー3点、文章4点、計7点と他人から見れば取るに足らぬものですが、自分では本当に嬉しかったのです。
つまり何が言いたいかというと、いえ、此れ以上は図々しいですね。既にそうかもしれませんが。
次回の更新は2/10を予定しています。
長所短所感想等よろしくお願いします。




