第8話「違和感のある風景」
ジリリリリリリリリリ!
「う~...ん」
うるさい。
目覚まし時計の音ほど、けたたましい音もないのではないかと思う。
まだ重い瞼を持ち上げながら、時計のスイッチを押して身を起こす。
「ふあーあ」
眠い。
まるで初めて外の光を眼にした新生児のように、俺は目を細めた。
いっけね!もうメシ済ませないと遅刻じゃん!
「おはよっ、みーちゃん!」
後ろから、大きめの重力が伸し掛かって来た。
顔の確認はしなかったが、この石鹸のような臭いは、冬華に違いなかった。
「おわっと、いきなり攻撃するなっての」
危うく体勢を崩しかけた俺は正当な抗議を向ける。
「ぶー、攻撃じゃないよ、抱き着いただけだよ!」
「同じだ」
「全然違う」
いつも通りの朝。
俺は昨日の出来事を思い出していた。
「で、昨日はなんであんなことになってたんだ?みんな驚いてたんだぞ」
冬華は顔をしかめた。
『そのことについて聞いてくるな』そう言われているような気がして、俺は黙る。
「自分でもね、よくわかってないんだよ」
少し歩いて、冬華は口を開いた。
「どういうことだ?」
人間、特に女性はよくわからずに涙が出ることはあると聞く。
だが不思議と、昨日のそれとは別物であるように思えた。
「昨日、私は教室に座って、空を眺めてたの。そしたら、月と一番星が見えていて」
「すごくきれいで、気が付いたら泣いてた。すごく悲しい気持ちになって」
脳裏にフラッシュバックする、夢の光景。
少女と土の人形がいて、周囲を空が埋め尽くしている。
なぜ俺は今、その光景を思い出したのだろう。
「気が付いたら、泣いてたの。」
「...そうか。ただ昨日は心配したからな、一応理由を知りたかったんだ」
「うん、心配かけてごめんね」
「おう、俺とお前の仲だしな。それにほら、あれだ。小学2年生の時の遠足でトイレが開かなくて困ってた時に俺が助けてやったのに比べれば全然大したことない」
「あうっ!忘れて!そのことはもうほんとに忘れて!」
ぽかぽかと叩く冬華が、その時ばかりは少し可愛く見えるのだった。
「...ん?」
昼休み。
昼食を済ませた俺がやることもないので校内を適当に散歩などしていると、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
俺の靴の救出に一躍買ってくれた、永崎楓だ。
「おい、何やってんだ。こんなとこで」
「湊くん!?すごい偶然」
コンクリートでできた廊下を、こちらに向かって走ってくる。
「靴は無事?」
「おかげさまでな。ていうか第一声からそれはさすがにどうかと思うぞ」
この学校には変なやつしかいないのかと突っ込みたくなる。
「そうかな。普通だと思うんだけど」
「そうか。お前の中ではそれが普通なんだな。よくわかった」
「む。なんかそこはかとなく馬鹿にされてる気がする」
廊下の突き当たりを右に曲がったところにあるベランダに場所を移した。
扉を開けたとたんに、風が吹き込んでくる。
「きゃ...」
「っ!」
..........。
俺はこの世のものとは思えない光景を、しっかりと目に焼き付けていた。
前を歩いていた永崎楓のスカートが突風に煽られて、そこから新たな布の姿が。
パシャパシャと脳内で何かが目覚ましい音を立てる中。
俺の視線に気づいた永崎楓が、咄嗟にスカートを抑えた。
こちらをジト目で睨みつけてくる。
まさか本当にシャッター音がなったわけじゃないよな。
「...見た?」
「な、何をだ?」
俺は光よりも素早い判断ですっ呆けた。
こういうときは、何も知らない振りが一番だ。
触らぬ神に祟りなしである。
うん、脳内画像はともかく頭の隅に寄せて、何も見なかったことにしよう。そう、俺は何も見なかった。
危険ワードは、『青』と『リボン』だ。
「あ、そういえばさ。今私に言っちゃいけないことってなんだと思う?」
いかん。これは危険な質問だ。
「最近太った?」
「...今太ったって言った?」
「言ってない」
「ふーん」
彼女は納得しているのかしていないのかわからない声を出した。
「それで、さっき何が見えた?」
「『青』と『リボン』のぱ...あっ!」
目の前に拳が飛んできた。
「いてて...」
「...ふん」
俺は先ほど打撃を受けた鼻頭を押さえる。
まるで野球ボールが鼻に直撃したかのような、見事な右ストレートだった。
「綺麗」
彼女は、俺への謝罪の言葉などどこ吹く風といった様子で、ベランダからの眺めを堪能している。
ちょっとは申し訳なさそうな顔の一つでもしたらどうなんですかね。
「ああ、そうだな...」
俺は痛む鼻を気にしながら、視線を街へ向ける。
このベランダは、最上階に位置していることもあって景色が良いことで有名なスポットだった。
校内でもある程度の知名度を保っているこの場所は、いつもは数名のカップルと息抜きに来た教師で賑わっている。
しかし今日に限っては、俺たちがこの景色を独占していた。
「空が高いね」
楓は確認するようだった。
「ああ」
「ねえ、湊くんはもしも魔法が使えたら、どんなお願いする?」
「魔法?そういや前も同じようなこと言ってたな。魔法が使えたらとかなんとか」
つい2日ほど前だったはずなのに、ここのところ忙しかったせいで時間の感覚が麻痺しているのかかなり記憶を遡った気がした。
「うん、そう。言った。私は魔法は使えないけど、そういうお話は好きだから。」
この年でそういう物語が好きと言う女の子は珍しいように思えた。
俺はしばし考える。
「そうだな。俺が欲しいのは、平和な暮らしと生活に困らないくらいの金。そんなところだ」
永崎楓が顔を思いっきりしかめた。
「うわあ。何それ現実的。つまんなーい」
「つまらなくない」
俺は即答してやる。平和と金。超大事。
「それより、お前は何を願うんだよ。」
「私は―――」
そこで彼女はなぜか、言葉に詰まった様に思えた。
が、すぐに元の表情に戻った、勘違いだ。
「私は、助けてあげたい」
「何を?」
彼女はどこか遠くを見ていった。
「女の子を」
「え?」
女の子?
「この空に浮かんでいる星のどこかに、女の子がいる。その子はいつも一人で夢を見ている」
「夢...」
...。
単なる偶然だろうか。
母親が知っていたおとぎ話を、彼女も小さい頃聞かされて、それに憧れを抱いている。
可能性としてありえない話ではない。
しかし何かが引っかかる感覚が自分の中にあった。
何か、この話を単なる偶然で済ませてはいけないのではないか。
そう思った。
「その女の子は、どうなるんだ」
「彼女は翼を持ってるの。遠くへ羽ばたける、大きな翼。でも彼女は誰とも会うことが出来なかったの。
彼女の住んでいる世界は死んでしまっていたから。」
「死んでいる?」
「うん、その世界ではね。命のあるものは生まれない。彼女以外に生き物はいないの。だから彼女はいつも一人ぼっちだった、そして長い間眠りについた。やることがなかったからね。でもそれすらも飽きてしまった。
だから、自分に呪いをかけて永遠の眠りについたの。もう二度と目覚めないことを願ってね」
「...」
俺の中に違和感に似た感情がふつふつと湧きあがってくる。
母親から聞かされたおとぎ話や最近見るようになった夢とよく似ている。いや、似すぎている。
冷静に考えれば、これは偶然が重なっただけの産物に過ぎないのだけれど。
どういうわけか俺にとって、この話を無視できない、してはいけない。そんな感情が強くなっていた。