最終章
あれは、ある日曜日の朝だった。
ぼくは挽き立ての珈琲をうまそうに啜りながら、朝刊を読んでいた。
はからずも、その中で、ぼくは「歯」に関するコラムに出会った。それを読み終えたぼくはしばらく言葉を失い呆然としていた。
なぜかというと、そこには、このように記してあったからだ。
「年齢」の「齢」には、「歯」という文字が使われているが、これは、もともと動物の年齢を「歯」で判別したことに由来する。
「論語」には「歯を没す」ということばがあり、これは命が尽きることを意味している。
これを認識していた江戸時代の本草学者貝原益軒は、こう言った。
「人は歯をもって命とするゆえに、歯という文字はよわいともよむなり」
この言葉を引用した上で、コラム氏は最後に、こう結ぶのだった。
昔の人が「歯」を寿命と関係深いものと考えたのは、日ごろの実感にてらして分かりやすいところであったからだろう。
つまり、「虫歯」は、遠い昔から、命にかかわる深刻な問題であり、それは現代人も、日ごろの実感にてらして分かりやすいところなのだろう、と、まあ、だいたい、こんな感じで。
これには、さすがに驚かされた。
ぼくは今まで、それほど「虫歯」が人の寿命と密接に関係しているとはつゆ知らずに、のうのうと暮らしてきたのだから。
ところが、ぼくのように歯医者をむやみやたら恐れて、治療を等閑に付していたなら、最悪の場合、さながらあの「テロリスト」のように宿主諸共に自滅していた危険性すらあったという。その恐ろしい事実を、ぼくは、この記事に教えられていた。
幸か不幸か、ぼくは「怪我の功名」で「歯を没す」という、最悪の事態を免れていた。
こう考えてみると、たかが「虫歯」、されど「虫歯」、そう思えてならない。
日常のふとした瞬間、ぼくは、自分に「怪我」を負わされたあの得意先のことを思い出して、胸が鈍くうずくことがある。
ぼくは今、それほど抵抗感なく歯医者に行けるようになった。だからといって、手放しで、そのことを喜んでばかりもいられない。
なにしろ、ぼくが歯医者にいかなかったばっかりに、あの得意先は、いやおうなしに「怪我」を負わされたのだ。それに対しては、心底、申し訳ないと思っているし、その贖罪として、ぼくは今でも、あの得意先がある方向に足を向けないで寝るようにしている。
それもさることながら、あの日、ふがいないぼくを厳しく叱咤してくれた上司には、本当に感謝している。
もっとも、心底そう思えるようになったのも、実はつい最近のことだ。
実を言うと、それまで、仕事帰りに同僚たちと居酒屋に寄っては、その上司の悪口を酒の肴に、大いに盛り上がっていたものだ。
かつての上司は、もうちょっと手加減してくれてもーーそう懇願したくなるほど、頭ごなしに、ぼくたち部下をどなりつける人だった。
それに耐えかねた同期の何人かが、悔し涙を浮かべて、彼に対する恨みつらみを吐き捨て、無念ながら、職場を去って行ったものだ。
今なら、間違いなく、世間は「それって、パワハラじゃん」と後ろ指を指すに違いない。
もっとも、ぼくらの上司に対する悪口の中には、不完全な存在である人間が、どこか神を畏怖するのと似た心情が紛れていたのではないか、そう思えてならない。
たしかに、あの上司の叱り方は、けっして褒められたものではなかった。今なら、絶対に「パワハラ上司」とレッテルを貼られるのにちがいない。
でもな、とぼくは思うのだ。
あの上司には、自負があったのだ、と。
俺は、偉そうに言うだけの活躍をした上で、今、このポジションにいるんだ。だから、おまえらを叱ってなにが悪い、という自負が。
だからこそ、ぼくたちは彼の存在を怖れながらも、その実、心のどこかで尊敬の念を抱いてもいたのだろう。
かつてぼくは、叱咤する上司を前にして、こう自分に言い聞かせていたものだ。
これはぼくの将来を期待してくれているからだぞ、というふうに。
だからこそ、あの不条理な嵐をなんとかやり過ごすことができたし、こうして、一人前の営業マンになれたのではなかろうか、と今は思えるのだ。
ただな、と苦笑交じりに思う。
できることなら、もうちょっと手加減してくれたらよかったのになぁ、と……。
それでも、まあ、ぼくはいまだに歯医者が苦手だ。
待合室の長椅子に腰を下ろして、順番待ちをしていると、妙に心がそわそわして、ひどく落ち着かない気分になってしまう。
ふだんのぼくなら、美人なお姉さんを前にすると、鼻の下を、だらしなく、長く伸ばしているところだ。
そうだというのに、ようやっと、ぼくの順番がきて、受付の美人なお姉さんが「どうぞ、中へお入りくださあい」と明るく声をかけられても、その表情は曇ったままだ。
やっぱ、歯医者は、どうもねーーそれが本音らしい。
それだけに、ぼくは、食後の歯磨きは欠かさずにするよに心がけていたのだ。
にもかかわらず、なんの因果か知らないが、ぼくはこのたび「虫歯」というテロリストに、急襲されてしまった。
いったい、どういうことだよーーそれが、さっぱり合点がいかない。
されど、「虫歯」を等閑に付していたら、最悪の場合、「歯を没す」ることになってしまうという。
それが怖かったから、ぼくは先日、それこそ何年かぶりに、渋々ながら、歯医者に足を運んでいたのだった。
おしまい




