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木曜日。夜半に降った雨も朝方には止んで、水たまりが鏡のように景色を映す爽快な朝。
今日は教会を掃除する日だった。
サティレ孤児院は教会付き孤児院であるので、当然、教会施設がある。
といっても簡素なもので、教室ほどの大きさの礼拝堂と巡礼に来た人が泊まる客室だけの最低限のものだけだ。
どちらも掃除自体は毎日している。ただ、サティレの司る石曜日――前世でいうところの土曜日には参拝に来る人が多いので、それに合わせて木曜に大掃除、金曜に近所のおばさま方と協力して炊き出しの準備をしているのだ。
こういう細やかな配慮と地域ぐるみの付き合いが寄付金増額の秘訣なのだ。などと信仰心の欠片もないことを考えながら、礼拝堂に飾られている神さまの像を磨き布できゅっきゅと磨く。
三十センチ程の大きさの像は全部で七躯、【創神】の七柱を象ったものだ。それぞれの名前や神話もファウナ先生に教わっている。
主神であり、他六柱の親である翼持つ神【空の親神アリアルド】。
アリアルドの妻にして娘である【月の女神ルティナ】。
火と鉄を司る隻眼の鍛冶神【火の男神ヴァルナス】。
水と風を司る航海の守り神【水の女神セイレン】。
樹木と知識を司るエルフの祖【木の女神リーン】。
獣人の祖である人面獣身の狩人【金の獣神キリルサグ】。
そして我らが教会の本尊である【石の女神サティレ】。
これらの神さまは前世で言うところのオリンポス的な立ち位置らしく、遥か昔の神代には地上に降臨していたらしい。そのため、各地に伝承や眷属、神さまが手ずから創った聖遺物がごろごろ残っている。
上位のドラゴンとか実質神みたいなものらしいし、ほんとに降臨していた可能性が高いのが異世界クォリティだ。
あとは他にも、創神によって神位に引き上げられた【亜神】もいるけれど、こちらは地域密着型の神様だったり、いわゆる聖人が神格化されたものだったり、はたまた表立って信仰するには勇気のいる悪神だったりするので、基本的に教会ではノータッチだ。
というか、根本的に数が多過ぎるので取り込みはじめるとキリがない。
……などなど。このあたりまでが教会付き孤児院で教えられる常識だ。
孤児とはいえ、ある程度は知っておかないと先生の面目を潰してしまうので割と必死に覚えた。
ちなみに、この七躯の創神像は僕が作った。
元は祠と各神さまの紋章しかなかったので、最大手のアリアルド教会に通って、等身大の像を見ながら石をこねこねしてきたのだ。
前世の美術の点数とか思い出したくもないくらいだったけど、そこは“昇華”さまさまで、見たままを模倣するならそれなりに見れるものができた。
子供のやることと微笑ましい目で見ていた神官さんたちも、まさかそれが小なりとはいえ教会に置かれるとは思ってもみなかっただろう。
とはいえ、最初は物珍しさで訪れる人もいたけれど、それも年々減っていって最終的な集客効果はそこそこで落ち着いてしまった。経営黒字への道は遠い。
閑話休題。ひと通り像を磨いて定位置に戻す。
床や他のところの掃除は弟妹たちが終わらせてくれたので、礼拝堂の掃除はこれで終わりだ。
終わりの筈だったのだけど、視線の先で、ぽつんと水滴がひとつ落ちて弾けた。
「うげ、雨漏りかあ……」
思わず顔を顰める。
この古い礼拝堂は石造りで、屋根もアーチ状に組まれた石でできている。
中から見上げても継ぎ目がほとんどわからない、見事な職人技だ。もしかしたら魔技も使わず、純粋な物理と計算で造ったのかもしれない。
僕の頭では、なんで真ん中に柱がないのに崩れないのか見当もつかない。前世にもこういう構造の建物があったことは覚えているけど、残念ながら原理を知らない。
知らない、見当もつかない、というのが問題だ。
魔技はイメージに従って結果を生み出す。
だから、美術のクラスで一人だけ「1」がつくナンセンス人間でも、実物が目の前にあればそれなりのコピーが作れる。
逆に、イメージがあやふやだと出来は散々なものになる。これは僕に限った話ではない。
いくら魔技が安定した効果をもたらす技術であっても、イメージが破綻していてはどうにもならない。
大陸最高峰の“鍛冶”の魔技で、技術の粋を尽くした超高級鍋を作っても、底に穴が開いていては駄目だろう。
魔技を鍛えるというのも、このイメージ構築の修練が大部分を占めている。
結論、今の僕では屋根の修理は不可能だ。
というわけで、今の僕には布を内張りする応急処置が限界となる。
身体スペックに任せてすいすいっと天井付近まで壁を登る。
次に、アーチを崩さないよう軸の部分に指を架け、猿みたいに片手でぶら下がる。
こういうときは軽い子どもも便利だな、などと思いつつ、懐から当て布を取り出す。
茶色がかったこの布を石のアーチ天井に張り付けると目立つだろう。
なので、右手に金色の紋章を起動。
“昇華”で色味を調整、撥水性と粘着力を付与、あと見える側に円を描く鎖の図案――これだけは腕がこむらがえるまで練習した『サティレの紋章』をそれっぽく描いて、ぺたり。
脳裡にダクトテープのイメージがあったから、スムーズに昇華できた。
……うん、天使(自称)から(自称)はとってもいいかもしれない。
“昇華”はとても便利です。今度から天使さんとお呼びしよう。
本格的な修理は予算とリタと相談するとして、ともあれ、応急処置はこれで終わり。
アーチ軸を伝って壁に――向かう直前、礼拝堂の扉が開いてファウナ先生が入って来た。
咄嗟に気配を殺す。落ちても怪我しないしと命綱もつけずに天井にぶら下がっているのだ。見つかったら叱られるに決まっている。
それにしても、こんな半端な時間に何の用だろうか。
日課のお祈りも朝起きてすぐにしてたし、信徒の人が来るような時間でもない。
となると――
「ファウナ先生、アタシもそろそろ進路を決めないといけないわ」
「ええ、寂しくなりますね」
予想通り、ファウナ先生に続いてリタが入って来た。
弟妹たちに聞かれたくない話、主にお金の相談はいつもここでしている。
とはいえ、今日は進路相談のようだ。リタはもう自分の進路を決めているのだろうか。こっそり耳を澄ます。
「先生はアタシに残ってほしい? 孤児は年々増えてる。これ以上は先生ひとりじゃ面倒みきれないもの」
「ありがたい申し出ですが、自分の将来をそんな風に決めてはいけませんよ。人手については私の方で知り合いに当たってみます」
「他の教会付き孤児院も見てきたわ。どこもいっぱいいっぱいで人手なんか余ってない。外部から雇うにしてもお給金払えないでしょう」
リタはブルネットの髪をさっと払い、睨むように先生を見上げている。
よく見てるな。というか、世情についてはたぶん、僕や先生よりも詳しいだろう。
あまり話したがらないけど、リタの家は商人だったらしい。
目利きや商談がうまいのもそのため、“賢人”の魔技も両親のどちらかから受け継いだものだろう。
けれど、その両親は商売に失敗して路頭に迷った末、娘を孤児院に入れて行方をくらましたとか。「たぶんもう死んでるわ、どっかの湖の底で」と言った時のリタの死んだ目は忘れられない。
「先生はさ、メイルに残ってほしいんでしょう?」
……うん? 今の話の流れでなんでそうなるの?
いつものリタなら「アタシがなんとかしてあげるわ!」とか言って請け負うところなのに。
「三年前、この孤児院に拾って貰ってびっくりしたわ。先生でも、年長の子でもなく、メイルが中心にいた。一番の古株だからといっても普通はないことよ。今じゃお金だって稼いでる。大きくなればきっと孤児院を立て直せるわ」
「そうですね。メイルにはいつも助けられています」
そんな風に思われていたのか。照れるな。
特にリタは意外だ。ツンケンしてるし、思春期的に嫌われているのかと思った。
「ですが、あの子はこの孤児院に納まる器ではありません。きっと神様から大きな使命を受けているのでしょう。私はその道を阻みたくありません」
「神様を言い訳にしないで、先生。お願いだから、はっきり言ってよ……」
「リタ……」
一瞬、先生が痛みを堪えるような表情をした。
その表情はリタが気付く前に消えたけど、なんとなく先生の気持ちが伝わった。
「それでも私の答えは変わりません。リタ、思うように生きてください。貴女はよく気が利きます。その気になれば商人として――」
「――ッ!! 先生のバカ!!」
リタはぱっと踵を返して礼拝堂を飛び出していった。
幸い、天井からぶら下がっている僕には気付かなかったようだ。
さすがに盗み聞きがバレるのは気まずい。
「メイル、怒りませんから、早く降りてらっしゃい」
「……はい」
気まずい。気まずいけどみつかってしまった以上、どうしようもない。
壁を伝って、すごすごと床に降りる。
タイミングを逸して、つい最後まで聞いてしまった。怒られはしないでも、叱られても仕方ないだろう。
「ふがいないところを見せてしまいましたね」
「先生……」
予想とは異なり、ファウナ先生は肩を落として溜め息を吐いた。珍しい、というか初めて見たかもしれない。
疲れているのだろうか。いや、明らかに一昨日の僕のせいなので申し開きもできないのだけど。
……リタが思い詰めていたのも僕が死にかけたせいか。
彼女の言う通り、現状、サティレ孤児院の経営は先生と僕とリタの三人で切り盛りしている状態だ。
教会への寄付と、僕の微々たる収入と、リタの遣り繰りでどうにか、といったところだ。
子供たちの面倒はジェイクら下の子に任せるとしても、お金の問題は解決しない。
正直なところ、僕かリタのどちらかが残って経営に専念しなければ、孤児院は早晩限界を迎えるだろう。
「貴方とリタと、この孤児院をやっていく。そんな未来を考えたことが、ないわけではありません」
「先生、僕はそれでもいいと――」
「ですが、それは私のわがままです」
先生ははっきりとそう言った。
こちらを見つめる瞳は、折れそうなほどに真っ直ぐだった。
「メイル、貴方はとても大きな器を持っています。勇気があり、知恵がある。きっとこの孤児院では狭すぎる」
「……」
「望むままに生きてください、メイル。貴方の前途に広がる無限の未来が、私は嬉しい」
この十年、僕を育ててくれた先生はそう言って優しく微笑んだ。
けれど、僕はその笑顔を直視できなかった。胸がずきりと痛む。転生について隠しているからか、それとも、この孤児院を離れたくないからか。自分でも分からなくなってきた。
「先生、僕はそんな大層な人間じゃないですよ」
「悲観するには早すぎます。貴方はまだ十歳ではありませんか」
「それでも、ですよ……」
僕はリコール隠しに巻き込まれた、前世の記憶があるだけの普通の子供だ。
先生の言うような、なにか大きなことを為し得るような器じゃない。
――だから、ここにいさせてください、先生。
けれど、その一言が喉から零れおちることはなかった。
先に孤児院を出た年上の弟妹たちだって言わなかったのだ。僕が言える筈がない。
それを言えるのは、一生をこの孤児院に捧げると決めたときだけだ。
先生は人生の全てを孤児たちに捧げる覚悟でここにいる。
それがいいかはともかく、生半可な覚悟では、逆に先生の迷惑になるのはたしかだ。
……ああ、リタもこんな気持ちだったのか。
先生に「助けて」と言われれば、迷うことはなかったもんな。
ほんと、先生は厳しいな。
◇
その晩、リタは夕食に現れず、部屋にも戻ってこなかった。
こっそり探しに行ったところ、どうも妹たちの大部屋に転がり込んでいたらしい。
妹たち曰く、「ここにはリタおねーちゃんいないから! ほんとにいないから!!」だそうだ。まあ、孤児院で他に夜を明かせる場所は礼拝堂か先生の部屋だけだしね。
それに正直なところ、顔を合わせるのは気まずかった。
ほんと、どんな顔して会えばいいのやら。
ともあれ、早いとこ進路を決めないとリタにまで迷惑がかかることがわかった以上、もう迷ってはいられない。
明日にでも進路を決めてしまおう。
もっと言えば、この孤児院に残るかどうか、それを決めてしまおう。それ以外は正直なるようにしかならない。
「じゃあ、もう寝るね。リタにもおやすみって言っておいて」
「わかった! おやすみ、メイルおにーちゃん!!」
素直に頷く妹たちの頭を撫でて子供部屋を後にする。
背後でリタらしき子の大声が聞こえたけど、気のせいだろう。あの部屋にリタはいないのだ。