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アセント 天使の右腕、炎の子  作者: 山彦八里
<4章:宿敵>
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消えぬ陽だまり

 

 ――あたたかな夢を見ていた。

 ――きっと陽だまりのような夢を、見ていた。



 ◆



「――い、おい、起きろ、■■■」

「ん……」


 それはいつかの放課後のことであった。

 肩を揺すられ小突かれ、ついでに頬を抓られて、少年は突っ伏した机から顔を剥がした。

 それなりに高い背、それなりに鍛えられた体、それなりに長い手足、クラスで三番目くらいに整った顔だち。総じてどこにでもいるような、平均的なかたち。


 ――ただひとつ、眠たげに細められた目が青みがかっていることだけが、彼を取り巻く「平均」から外れていた。


 青い目の少年はのそのそと曲げていた背筋を伸ばしながらゆっくりと体を起こす。

 どうやら6限の古文からホームルームを飛び越えて寝ていたらしい。

 首をめぐらし左右の席の空白を見て、ついでに起こしてくれた幼馴染だった相手を見上げて、少年は屈託なく笑った。


「おはよう、ハルノブ。ノート見せて」

「おーい、ドア閉めてくれ。両方な。先公に見せられんことするわ」

「いたいいたいごめんなさい」

「ったく」


 ひとしきり抓られて赤くなった頬をさする少年は、どこにでもいるようなただの少年だった。

 人より少しだけ器用で、少しだけ探求心が強くて、少しだけ……いやかなり美術の成績が悪い少年だった。


「それで、なに? 写生大会の絵はちゃんと描き直して提出したよ」

「お、おう。田園風景に焦熱地獄を見出されたときはどうしようかと思ったが、なんとかなったんだな」

「もちろん。先生も泣いて喜んでいたよ」

「ああ、うん。あとでワビいれとくわ。それよりこれだ」


 髪を逆立て、時代遅れのヤンキーと見まがう凶相をした少年――ハルノブは手に持っていたプリントを■■■の額にぺしりと張り付けた。

 見た目に反し、クラス委員長である彼はこうして教師の使いパシリをすることが多い。

 高校に入ってからは疎遠になっていた友人だが、なんだかんだで面倒見がいいのは変わらない、と記憶が囁く。

 対する■■■は紙切れに息を吹きかけて宙で一回転させると、見事に机に着地させた。あまりにも無駄に器用だった。少年は万事において80点をとるのが得意だった……美術を除いて。


「うん、進路指導? 高3の秋に? 遅くない?」

「おう。さっさと出せ。予備校に遅れる」

「プライバーの保護を要求する」

「さっさと出せ」

「……ごめん」


 つれなく急かすハルノブに対し、■■■は気の乗らない応えを返した。


 ――()()()()()()()()()()


 そのときの■■■にとって、将来というものはひどくぼんやりとしていたからだ。

 あるいはそれは、突然の交通事故で両親が保険金に転生したことが関係しているのかもしれない。

 目が青いだけのどこにでもいる少年は、人より少しだけ死に近かった。

 それもまた、70億人がいるこの世界ではありふれたことではあるが――。


「ハルノブはお坊さんになるんだよね。お互い一人っ子だもんね」

「つまり進学だ。坊さんなるにも資格がいるんだよ」

「ふーん」

「……迷うくらいならとりあえず進学って書いとけとは、オマエには言いづらいな」

「気を遣わなくていいよ、ハルノブ」


 眉を顰めるハルノブを解きほぐすように、■■■は意識して微笑んだ。

 幼馴染だった少年の厳しい表情は己の未熟を恥じるが故だ。そこに悪意はない。

 それにお経をあげてくれたのは彼の父だ。他に親族もおらず、喪主となった少年をよく支えてくれた。


「おじさんには世話になったね」

「……別に、親父も商売でやったことだ」

「読経料以上の仕事をしてくれたってことさ」


 そうして、ふと、少年は名案を思いついたようだった。

 早速その思い付きをカリカリとプリントに書き込む。


 数瞬後、プリントにはでかでかと「 イ ン ド 」と書かれていた。

 ハルノブは思わず天を仰いで「ぎゃーてー」と呟いていた。


「ねえわ」

「ゴーウエストってね。せっかくまとまったお金があるんだから旅のひとつもしなきゃ」

「……オレは止めねえぞ」

「一緒に行く?」

「誰が行くかっ!!」


 放課後の教室。窓から差し込むあたたかな夕日の光。

 冗談のように交わされる軽い言葉の応酬。


 それがハルノブと交わした最後の会話だった。


 まさかハルノブも■■■が本気だったとは思わなかっただろう。

 大学受験が本格化する中、さっさと卒業資格を得た■■■は本当にインドに旅立ってしまった。

 ひとりには広すぎる家も処分し、ご近所への挨拶も済ませた徹底ぶりだった。

 ■■■がなにを思ってそんなことをしたのかはわからない。その記憶は“ここ”にはない。


 ただ――“ここ”ではない“どこか”へ。

 誰も知らない“どこか”へ、■■■はいきたかったのではないか、と思う。








 そして5年後、■■■が日本に帰ってきたとき、ハルノブはすでに亡くなっていた。



 元より、■■■の交友関係は浅く広いものだった。

 十代後半からの貴重な5年だ。それだけ経てば顔つきも変わる。もはや誰も■■■を認識できなかった。

 自分を知る者は誰もいない。新たな関係を作る勇気はもう■■■にはなかった。

 わかっていたことだった。■■■は望んで孤独になったはずだった。

 ■■■はもう、親しい者が喪われることに耐えられなかったのだから。

 現実を理解したとき、■■■の旅は、終わった。




 そのとき、■■■が思い出したのは、あの日の放課後だった。



 ――あたたかな夢だった。

 ――きっと陽だまりのような夢だった。


 なんてことのない、けれど、色あせてなお輝きを放つ夢だった。

 世界を巡った鮮烈な記憶より、不思議と長く心に残る記憶だった。

 それは、小さな後悔を孕むがゆえに、決して抜けることのない棘だった。



 インドから始まり世界を巡る旅の最中、ふとした時に■■■はひとりごちた。

 ここにハルノブがいたらどうだっただろう、と。

 博識なあいつが、ぶっきらぼうな口調で何を語っただろうか、と。

 だが、■■■はそれを郷愁だと自ら卑下した。

 故郷を想う寂しさが体のいい形代をとっているだけの情けない妄想だ、と。

 現に、近頃の自分と彼はもうそれほど仲もよくなかったじゃないか、と。


 ――けれど、益体もない考えが頭をよぎる。


 ハルノブという少年のことだ。

 彼もまた、あるいはこの瞬間を後悔しているのではないか、と。

 ■■■の旅について行けば、なにかが変わったのではないかと。

 彼もそう思っていたのではないか、と。


 ……邪推もいいところだ。

 なにせ最後の会話を交わした頃には、もうふたりはお互いが幼馴染であることすら忘却していた。

 用がなければ会話もしない仲だった。クラスの中にもっと親しい者がいた。

 ただの同級生……昔、両親が親しく付き合っていた、と注釈がつくだけの、ただの同級生だった。

 良くも悪くも、幼馴染を繋いでいたのは檀家と檀那寺の関係であり、それは■■■の両親の死によって喪われた関係性だったのだ。


 けれど、“もしも”を考えてしまう。

 あのふたりが肩を並べて旅をする“もしも”を考えてしまう。

 想像の翼は決して実現しないがゆえに、美しい。



 ――だから、俺は。

 ――あたたかな夢を見ていたのだ。

 ――きっと陽だまりのような夢を、見ていたのだ。



 その夢を、その記憶を、その“もしも”を忘れることができない。

 生まれ出ずる前から“存在”に刻まれた本質となっている。

 ああ、そうだ。だから――



 ――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 目を開ければ消えてしまうこの儚い記憶が俺の“存在”を揺るがせる。



 ――――()()()()()()()()()()()()()()()



 記憶が混ざり合う。知らないはずの景色を思い出してしまう。


 俺は、誰だ。

 ■■■とは、誰だ――――




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