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「――Grrrrrrrr!!」
隻眼のメタルボアは威嚇を続けているが、すぐに攻撃してくる様子はない。
手酷くやられた後だからか、あるいはそれなりに歳を経た個体なのか、警戒心が強い。
好都合だ。今の内に戦略を練ろう。
まず、全員での逃走は不可能だ。
僕だけなら天使謹製ボディのスペックに飽かせて逃げ切れるだろう。
けれど、弟妹たちは無理だ。街までは何もない草原。幼い彼らの足では絶対に追いつかれる。
森に逃げ込んでも、相手が相手だ。木々がどれだけ足止めになるか微妙なところだろう。
時間を稼ぐにしても戦うしかない。
あのメタリックなファンタジー装甲を貫けるのは……可能性があるのは僕と僕のナイフだけか。
やるしかない。状況が確定すると、僕の心は不思議と落ち着いた。
恐怖はある。あの巨体が突っ込んでくるかと思うと大も小も漏らしてしまいそうだ。
けれど、逃げようとは思わない。
ちらりと後ろを見る。
立て続けの咆哮に今にも泣き出しそうな弟妹たちが、それでも懸命に涙を堪えている。
僕を信じているからだ。
この信頼は裏切れない。僕は彼らの兄なのだ。
ならば、良し。命までは賭けてみせよう。
「リタ、子供たちを任せる。できるだけ離れて。アイツは僕が引きとめる」
「……アタシは足手まといなの?」
「そうじゃない。僕らのどちらかは子供たちを守らないといけない。だから、君に任せるんだ、リタ」
「……死なないでよ」
「最大限努力する。あと、こっちでひきつけてるうちに、足の速い子を見繕って都市に救援を要請して。ファウナ先生の名前を出せば信じてくれると思う」
“ヌシ”がでたと言えば、子供の戯言でも騎士団は動くだろう。こんなことで嘘を言う奴はいない。
都市に住む人間にとって魔物は台風とかと同じ災害扱いであり、生死をわける一大事なのだ。
「頼む、リタ」
「わかった。ぜったい……ぜったい死なないでね!!」
リタはきっと唇を引き結ぶと、その場で背負い籠を放りだし、腰の抜けた妹を抱き上げ、弟妹たちを叱咤して整然と離れていった。
もっとごねられるかと思ったけど、信頼されているんだろうか。嬉しい話だ。
だったら、それに応えるのが兄の務めだろう。
僕は木笛を口に咥え、リタたちとは反対方向に走って、防壁の前で停止。
次いで、ピーッという音を短く三回、間を開けて長く二回。緊急用の符丁。
これで先生が急いでくれるとして、あと三分。どうにか時間を稼げば僕らの勝ちだ。
「よく追いかけなかったね。ありがとう」
木笛を吐き出し、こっちを睨んでいるメタルボアに話しかけてみるものの、返ってきたのは不快げな唸り声だけ。
魔物の中には言葉を話す者もいるらしいけど、この鉄猪は違うらしい。
残念だ。言葉が通じたら口八丁で時間を稼げたのに。
「――ッ!!」
そのとき、突如としてメタルボアの装甲表面に回路にも似た赤い紋章が浮かび上がった。
紋章の形からして“熱狂”、猪や牛型の魔物によくみられる魔技だ。
人間の場合は痛覚の鈍化、精神の高揚を併せ持ち、付随的に肉体のリミッターを解除する効果がある。
メタルボアでもさして違いはないだろう。
ただし、紋章がかなり大きい。ほぼ全身に及んでいる。
効果の高い魔技ほど紋章は大きくなり、強く輝く。
相手はさぞやハイになっているに違いない。
――腰裏のナイフを引き抜き、左手で構える。
構わない。全力でかかってこい。リタたちのことを忘れるくらい熱狂しろ。
魔物とは、魔技を使う生物の総称だ。広義では人間も含まれる。
――意識を集中させ、右手に金色の紋章を起動する。
僕も魔技を使える。“昇華”、天使謹製の詫びチート。
つまりこの状況、数の上では互角なのだ。何を恐れることがある!!
「――GRAAAAAAAAッ!!」
そして遂に、メタルボアが走り出した。
泡を吐き捨てながらの愚直なまでの突進。
けれども、鈍重さの欠片もない。重量のある巨体ながら目を瞠る速さだ。
僕は即座に目の前の防壁に右手を叩きつける。
濡れた粘土のような感触。
時間がない。イメージは可能な限りシンプルに。
すなわち、【大きくなれ】。
直後、“昇華”した防壁が2メートル近くまで膨張し、互いの姿を隠した。
メタルボアは止まらない。突進の勢いのままに大防壁に牙を叩き込む。
衝撃。
粉砕。
“昇華”の魔技によって強化された筈の防壁は一秒と保たずに粉々になった。
あの牙は芯まで鋼鉄製のようだ。欠けるどころか歪みすらしていない。
――予想通り。
その時には既に、僕は防壁を回り込んでメタルボアの右側面に移動していた。
右側。隻眼のメタルボアの死角。
虚を衝かれた相手が振り向くまでの一瞬。
その一瞬に、全体重を乗せてナイフをぶちこんだ。
狙いは耳の後ろやや下方、人間で言えば首にあたる急所。
左手でナイフの柄を保持し、右手で柄頭を押し込む。
命懸けの集中が、鋼色の装甲に切っ先が触れ、火花を散らす瞬間を捉える。
次いで、たしかに装甲を貫いた手応えが返り、刀身が根元まで埋まる。
だが――
「――Gu、GAAAAAA!!」
メタルボアが止まらない。元より痛みは感じないのだろうが、負傷すらも無視できるのか。
たしかに首を貫いたのに。否、刃渡りが足りなかったか。
脳裡に一瞬、ファウナ先生の大木剣の姿がよぎる。あれは対魔物用の剣だったのか。
とはいえ、ナイフは筋肉の束に捕えられ、僕の力ではもう抜くことはできない。
ならば、とことんまで付き合ってやるだけだ。
僕はナイフを右手に持ち替え、メタルボアの背中に取りついた。
「――GuA!?」
鉄猪の驚きが装甲を伝わってダイレクトに感じられる。
お前の肢も牙も自分の背中には届くまい。恨むならその短足を恨め。
と、毒を吐いたのも束の間、メタルボアは僕を背中に乗せたまま地団駄を踏みはじめた。
でっかいロデオマシーンに乗っている気分だ。
ハンドル代わりにナイフを保持しているけれど、片手では限界がある。
「ッ!! ガ、ハッ!!」
鉄猪が跳ねる度に体が浮き上がり、肋骨と鋼色の装甲が激突する。
みしりと骨が軋む音がした。このまま三分粘るのは無理だ。攻めなければ死ぬ。
そのとき、突如としてメタルボアの体が大きく傾いた。
なぜか背筋に冷や汗が走る。走馬灯のように前世の記憶が蘇る。
記憶が告げる。猪はのたうちまわる。
沼地で体を横にして転がる“泥浴”と呼ばれる行動だ。
この巨体に押し潰されて生きていられるかは、考えるだけ無駄だろう。
やるしかない。相討ちでもいい。こいつをリタたちの下へは行かせない。
【――止まれえええええええっ!!】
声の限りに叫び、己を鼓舞する。
ナイフを握る右手がやけに熱い。金色に光る紋章の輝きがひときわ強くなった、気がした。
そのとき、一瞬、ほんの一瞬だけ、メタルボアの動きが止まった。
「ッ!!」
理由を考える時間はない。
ナイフから右手を離し、腰裏から鉄鞘を引き抜く。
即座に“昇華”。
イメージを構築する余裕はない。ただただ【鋭く】、それだけを念じる。
そのまま鉄猪の背中を蹴って、変質途中の鉄鞘を目に――残った左目に突き立てる!!
「――――GAAAAAッ!!」
返り血を浴びたのを感じた次の瞬間、メタルボアが全身を仰け反らせるように跳ねて、たまらず僕は吹き飛ばされた。
意識を失ったのは一瞬だけだったのだと思う。
気付いた時には空中にいた。
眼下に、どうと倒れて痙攣するメタルボアの姿が見える。
無我夢中で手応えを覚えていないけど、おそらく鉄鞘は眼球から脳まで貫通した筈だ。
――勝った。メタルボアに、ヌシに勝ったんだ。
震えるほどの勝利の快感が全身に満ち溢れ――次いで、さっと青ざめた。
着地どうしよう。
ちょっと待って。いま高度何メートル?
なんかメタルボアがすごい小さく見えるんですけど。森ってあんな遠くまで広がってるんだ。
あ、ジェイクが手振ってる。ごめん、いま振り返す余裕ないんだ。
……じゃなくて、このまま墜落したらさすがに痛いだろう。
どうにかしなきゃ。死にはしないだろうという信頼感が天使謹製ボディの長所だけども。
着地、着地、と念じるが良案は浮かばない。
ズボンか靴をバネっぽく“昇華”して、どうにか両足骨折で収められないかな、というくらい。
……仕方ない。既に上昇は終わって、体は重力に捕まって徐々に降下を始めている。
落ち着いて、まずは靴に右手を当てて――
そのとき、森の中から弾丸のように飛び出した人影が僕を抱きとめた。
一瞬、青い光が彗星の尾のようにたなびいて見えたのは、錯覚だろうか。
誰が、と思う間もなく。
急激な横ベクトルに引っ張られるように放物線を描いて、描いて、着地。
そのまま編み上げブーツが草原に二条の轍を曳いて数秒、ようやく僕らは止まった。
「……っ、は……!」
無意識に止めていた息を吐きだし、抱きとめられた腕の中でおずおずと見上げる。
――今にも泣き出しそうなファウナ先生と目があった。
そっか。もう三分経ってたんだ。
「ご無事……ですか、メイル?」
恐る恐るといった風に問われ、僕はこくこくと頷いた。
肋骨やら肘やらが痛いけど、たぶん折れてはいない。無事の範疇だろう。
「大丈夫だよ、先生。みんなもちゃんと守れたし」
「そういうことを言っているのではありません!!」
その瞬間、ファウナ先生は初めて聞くような大声を挙げた。
びっくりして、それから、胸がずきりと痛んだ。
先生の手はずっと震えていた。恐怖によって、だろう。
先生は神官になる前は騎士だったという。たぶん、僕よりもメタルボアやヌシの危険性を理解している筈だ。
今さらながらに、自分のしでかしたことの危うさを自覚させられた気がした。
「ごめんなさい、先生。その、他に方法がなかったんです」
「だからって、メタルボア相手にひとりでなんて……ほんとに、無事でよかった……」
後半は殆ど嗚咽に変わってしまって、先生はただ壊れ物に触れるような手つきで僕をかき抱いた。
暖かさと柔らかさ、それと微かな香木の薫りに抱きしめられて、ようやく僕は自分が生きていることを思い出した。
◇
その後、おっとり刀でやってきた冒険者にメタルボアの輸送やら解体やらを頼んだり、外層域に“ヌシ”がでたという異常事態について詰め所で事情聴取を受けたりして、時間はあっという間に過ぎていった。
気付いたときには日が沈んでいた。
冒険者が夜行性の魔物を相手にする関係で、酒場は夜間営業をしているけれど、このヴァーズェニトでそれは例外だ。普通の家は日没とともに寝る。
かくいう僕も、この十年間で日の出日没基準の健康的な生活に慣れてしまって、眠気が爪先から頭頂部まで満ち満ちていた。
詰め所を後にしてまだ十歩と進んでいないのに、気を抜くとそのまま倒れそうだ。
「眠いのですか、メイル? おんぶしましょうか?」
「十歳にもなっておんぶはちょっと恥ずかしいです、先生」
「来年になればそんな機会はもうなくなってしまうんですよ」
ほらほら、とファウナ先生がおしりを向けて誘ってくるも、僕は結局自分で歩くことにした。
先生と手を繋いで歩くのだって、来年の今頃はもうできないかもしれないのだ。
「ナイフ、残念でしたね」
僕の意識を保つためか、先生はしきりに話しかけてくれる。雪山か。
でも嬉しい。最近はトーマスさんのところに入り浸っていたこともあって、先生とまともに話せるのは戦闘訓練の時くらいだ。そして、戦闘訓練中の先生は超こわい。
「同じ物を用意するのは難しいかもしれませんね。私の目から見ても、あれは業物でした」
「ええ、まあ。残念ですけど、命には換えられません」
メタルボアの解体は職人総出で早くも終わっている。
その結果、僕のナイフは半ばから融けて装甲に癒着していることが判明し、泣く泣く廃棄となった。
“昇華”も効かなかった。僕は同じ対象に三度目の“昇華”をかけられない。
だから、たぶん、メタルボアにトドメを刺したときに――
「メイル、聞いていますか?」
「……すみません、聞いてませんでした」
正直に告げると、先生は頬を膨らませて怒ってますアピールを始めた。
ちょっと可愛い。騎士生活で青春が抜け落ちているファウナ先生は時々とても子供っぽくなる。
しかし、考えてみれば先生はまだ二十五歳なのだ。孤児院では完全に“おかあさん”になってしまっているけど、浮いた話とかないんだろうか。美人なのに。
「メイルはもっと命を大事にしてください。ヌシとわかっていて単独で挑むなんて……同じことをすれば私もタダでは済みません。貴方がしたことはそれだけ危険なことだったんですからね?」
「ごめんなさい」
「……あんまり許したくありませんが、許します」
許された、のかな?
先生は握っていた手を解いて、かわりにそっと僕を抱き寄せた。
後頭部に、先生の猛烈に着やせする胸部装甲がふわふわと当たる。
ちょっと歩きにくいけど、ここで文句を言うのは野暮だろう。
「貴方が他に方法がなかったと言うのなら、本当にそうだったのでしょう。よく子どもたちを守ってくれましたね。私は一個の人間として、貴方に心からの感謝と尊敬を捧げます」
「先生……」
「それから、ごめんなさい。謝るのは私の方です。貴方はどこか大人びていて、だから私も頼っていました。今日だってそうです。貴方がいれば大丈夫だろう、と。愚かにも私はそう思っていたのです」
それは謝ることではないだろう。
僕は孤児院の役に立ちたくて、前世の自分を意識して働いていた。先生がそう思うのも無理はない。
悪いのは僕だ。外見と中身がちぐはぐで、おまけに転生のことも先生に告げていない。
話そうと思ったことは何度もある。
先生だって、五歳から急に大人びた僕に何かあるとは勘づいているだろう。ただ、僕が話さないからそのままにしてくれているだけだ。
けれど、どうしても踏ん切りがつかなかった。
この世界では、転生は異端とまでは言わないけれど、かなり少数派の考えだ。
死した人間は七柱の【創神】の御許に送られ、そこで死後の位を得る。
生前に偉業を達成していた場合は創神によって【亜神】と呼ばれる存在に引き上げられる。
――というのがこの世界の一般的な死生観だ。
アンデッド系の魔物もいるから、前世と比べても転生概念に忌避感を抱きやすいのでは、と個人的には睨んでいる。
そしてなにより、先生は石の女神サティレの神官であり、敬虔な信徒だ。
孤児たちには食前の祈りくらいしかさせてないけど、本人は朝晩の祈りを欠かしたことがない。
前に用事があって先生が祈っているところを見たことがあるけど、とても真剣な様子だった。
あの祈りに籠められた何かが、“戦乙女”と呼ばれていた騎士が十五歳で孤児院の先生になった理由なのだろう。
僕の一方的な理由で、そのセンシティブな部分に触れることは躊躇われる。
だから結局、この夜も何も言えぬまま。
先生の体温を感じながら、僕は立ったまま眠りについてしまった。