いろのはじめ
その方は、従兄弟のおにいさまでいらっしゃいました。
幼い頃より、お父様たちに言われ、私とは許嫁の間柄でした。
悪戯ばかりに夢中になり、乱暴な実の兄たちとは違い、物静かで優しい方です。
白雪の積もった日、幼少から病がちで十四にもなってまだ熱の出やすい私は、家人の出払った広い家の、自室で一人、横になっておりました。
こんこん、と咳を出しては、お母様が作ってくださった檸檬ジュースを飲んでおりました。檸檬ジュースは蜂蜜入りでしたが、甘味よりも酸味が勝り、良薬の厳しさを思わせます。
今日は両親もあにさまたちも、大切な儀式に参加しておいでなのです。
何でも、鏡なる湖の当代様が、花嫁様をお迎えになるそうなのです。
樹木の精や、白狐や竜の一族の方、それから、ふるさとと言う古寺に住まう守り人の方などもお呼ばれして、それは盛大な宴が催されるそうなのです。
本来であれば私も着飾って、許嫁のおにいさまとご一緒して列席する予定でした。
けれど、折からの寒さで熱を出してしまったのです。
両親や兄たちには情けない、と呆れ顔をされ、私も泣きたい思いでした。
実際、和紙に涙を落としながら、おにいさまと、当代様へのお詫びの文を書きました。
和紙はあえかな花びらを漉き込んだ、上等の物を選びました。
それからは、ずっとお布団の中で、折り紙を折るなどして一人、時を過ごしておりました。私の枕の横には色違いの鶴が増えてゆきましたが、やがてはそれにも飽きて天井の木目を数えたり、目を閉じて溜息を吐いたりと、所在なく病身を持て余すようになりました。
違い棚に置かれた古めかしく美しい時計が、コチコチと音を立てるのが無情に感じられます。
衣桁には今日着る筈だった振袖が掛けられ、その刺繍の華やかさ、艶やかさが一層、私のみじめを引き立てました。
花車の刺繍を指でなぞり、これを着つけておにいさまの横に並ぶ日を数えていましたのに。
今頃はおにいさまも、煌びやかな宴に酔っておいでのことでしょう。
美しい女性に、言い寄られたらどうしましょう。
おにいさまは私より八つ年上で、大人びて凛々しくていらっしゃいます。
私はお布団の中でくすん、と鼻を鳴らしました。
その時、廊下を誰かが歩み、軋ませる音が聴こえました。
おとないの声には気付きませんでした。
お母様が、私を哀れと思い、式を抜けてお戻りくださったのでしょうか。
けれど障子に映る影は、お母様より大きくしっかりしたものでした。
火鉢に温められた部屋の中、私は緊張に喉をこくりと上下させました。
「纐纈さん?起きておいでですか?」
私は口元を覆うように引っ張り上げていた布団を、ぱっと剥がしました。
掛けられた声が、許嫁の、道風おにいさまのお声だったからです。
「おにいさま」
私が驚いた声でか細く答えると、障子がさらりと開きました。
道風おにいさまは礼装の羽織袴ではなく、書生風の普段着をお召しでした。
一体どうされたのでしょう。
道風おにいさまは静かに室内に入ると障子をすぐにお閉めになりました。
私の枕元まで来られると、外の世界の匂いが、私の鼻腔に届きました。
賑わいや雑踏、喧噪の気配を連れておにいさまが当家までお出でになった理由が、私には解りませんでした。
「お一人で、お心細いかと思いまして。今日は、お父上方も、ご家族揃って湖にお出ましですからね」
穏やかなお声で、道風おにいさまが訪問の所以を教えてくださいました。
私は嬉しくて、目尻に涙が滲むほどでした。
道風おにいさまは、それには気づかぬ振りで、袂から何かを取り出します。
「纐纈さんに、贈り物です」
そう言って差し出されたのは、透明の大小の花、とろりとした真珠を模した物、万華鏡のような赤い蜻蛉玉や緑に銀色の入った丸い硝子、夕焼け色の釦や珊瑚色の石、楕円形の紫水晶などがふんだんに散りばめられた美麗な細工でした。
「まあ。まあ、道風おにいさま、何て綺麗なんでしょう。何て可愛いのでしょう!」
私がはしゃいだ声を出すと、道風おにいさまは嬉しそうな笑顔で、私の半身を起す手伝いをしてくださいました。
「良かった。喜んでいただけますか」
「勿論です。くださるのですか?」
「はい。本当は、簪を買う積りだったのです。しかし、人界を彷徨っても中々、見当たらず。それは、確か、帽子に着けたり、巻き物などを留めたりするのに使うのだそうです。…女子の物はよく解らなくて。不調法者ですみません」
道風おにいさまは照れたように笑いながら頭を掻かれました。
私は音が立ちそうなくらいに頭を左右に振ったのです。
「いいえ、いいえ、嬉しいです、道風おにいさま。ありがとうございます」
その装飾品の輝きは確かに魅力的でしたが、私はそれよりも道風おにいさまの瞳の、温かな輝きにすっかり見惚れ、魅了されました。
こうなってくると現金なもので、今日、熱を出していて良かったとまで思ってしまいます。
「庭の椿が、白い雪に映えて美しいです。少しの間だけ、廊下に出てみませんか?」
道風おにいさまのお誘いに、私はおにいさまの着ていらした外套を着せ掛けられ、庭に続く廊下に出ました。黒く磨き上げられた廊下の冷たさが裸足に沁みて、私はもじ、と両足を擦り合わせました。
庭では純白に、陽を浴びた赤い椿と濃緑の葉が、どちらも艶やかに光っておりました。
白い息を吐きながら、私はその光景に見入ります。
「本当に、美しいですね…おにいさま」
「ええ。雪の、何にも染まらぬ白さがあってこそ、彩りも始まりを見せます」
先程の細工物を、道風おにいさまが陽にかざし、次に私の顔の前にかざしました。
「纐纈さんも」
「え?」
ちりり、と細工に下がる細い鎖が鳴ります。
透明の花が陽光を弾きます。
「…屹度これから、もっと美しく染まられます」
私は胸がばくばくとしておりました。
赤面しているであろう顔を俯けると、道風おにいさまに、そっと額に口づけられました。
熱が上がってしまった私の傍らに、そのあとも道風おにいさまはずっとついていてくださいました。
おにいさまがちょっと嬉しそうだったのはなぜなのか、解りません。
檸檬ジュースの酸っぱさが、気にならなくなった理由も。