浄瑠璃の夜
天が冴えて空気を彩る青が特に濃い夜。
そんな夜を、兄は浄瑠璃の夜と呼んでいた。
何時しか桜色の衣を纏った娘と姿を消してしまったが。
この場合、浄瑠璃とは勿論、操り人形を使う語り物を指すのではない。
ただ世界が浄められたような夜を、そう名付けただけだ。
兄はそういう名付けをよくする人であった。
名付けを口ずさむと、弟である私を見遣り、どうだい、とばかりに微笑んで白い耳をぴ、ぴ、と振る。
そんな兄もいなくなって久しい。
私は物心ついてより、兄と二人住まいであった。
竹林に囲まれた、小さな家。ぐるりには土塀があり、穴の開いた箇所は野兎らの出入り口となっている。春には土筆の生えるあたりだ。
兄が消えて物寂しい思いもしたが、仕方のないことであろうと思い定めることにした。
恋は人を連れて行く。
誰であっても未踏の地へ。
私は日がな一日、竹林の葉擦れを聴いて過ごす。
ここらは常人とはやや異なる者たちの住まいが点々としてあった。
ふるさとと呼ばれる古寺があり、そこは齢の知れぬ白髪の若者が守りをしている。
また、鏡なる湖、と呼ばれる広大な湖もあった。
私は出逢ったことがないが、その湖の中にも住人がいて、中でも当代様と敬われる主人がいるらしい。
今宵は浄瑠璃の夜だ。
美しい夜だ。
桜色の娘と兄が消えたのも、浄瑠璃の夜であった。
この夜は、恋心を後押しするのか。
私は狭い中庭の、古びた切り株に腰を下ろし、月を見上げながら素焼きの野暮ったい盃に溜まった酒を舐めた。
酒にも浄瑠璃が宿っている気がする。
秋の宵は殊に清い。
柿色の上衣に枯れ葉色の袴を穿いた私の脚を、薄の銀の穂が撫ぜる。
「もし」
突然に声を掛けられ、私は仰天した。白い尻尾を大きく動かし、尖った耳を伏せる。
土塀に開いた穴のこちら側に、臙脂色の衣を着た娘が立っていた。
臙脂にぴりりと走る紺の帯、頭上には紗を一枚かづいている。
白狐の精は、いや、この一帯に住む者たちは普段、進んで交流を持たない。
だから私もこの楚々とした珍客に驚いた。
私の耳や尻尾を見ても驚かぬところからして、さしずめこの娘も常人ではなかろう。
「何用であろうか」
かような夜更けに、とは言わない。
私たちは昼より寧ろ夜の住人であるからだ。
「前触れなくの訪問をご容赦ください。実は、兼ねてより行方知れずになりました姉を捜しておりまする」
「姉君…」
娘が頷き、紗を取り去ると、頬に月光が慎ましく触れて肌の白さが円やかになった。
目が燐光のごとく光るも、不思議と妖しさよりは可憐さを思わせた。
浄瑠璃の夜の不思議であろうか。それとも。
「いなくなりました折りには、桜色の衣を着ておりました」
「………」
それはあの娘に相違あるまい。
私は、自らは薄の中に直にきっちり正座し、娘に切り株を譲ってから事の仔細を語った。
成る程これは、語り物、そうした意味でも浄瑠璃の夜ではある。
「そうでしたか…」
「驚かれませぬか」
「そのような気も、致しておりましたゆえ。わたくしどもは樹木の精。本来であれば同族と添うのが望ましゅうはございますが、こればかりは詮無いことでございます」
「潔いお心ですね」
私がそう称えると、娘が私を見た。
あの、燐光宿す目で。
「白狐の殿方を、初めて拝見しました」
それが私の賞賛とどう関わるのか、私には解らない。
「あなた様はこちらに、お一人でお住まいなのですか」
「はい」
「お寂しくはございませぬのか」
「は、い」
なぜかこの時、私は一瞬、返事につかえた。
寂しくはない。
竹林が唄い、月が顔を出し、薄は銀に照り輝いている。
静かな美しさに、寄り添われて。
娘が帰れば、また、独りで。
そこまで考えて、私の心に湧水のように出現した細い想いの流れがあった。
糸のように今は細いが、確かに出現してしまったのだ。
冷たくはなくて、仄かに熱を帯びた水が。
浄瑠璃の夜。
浄められた世界で物語が動き出す夜。
兄の次に、今度は私の語り物が始まるのだという予感に囚われた。