無人島で猫缶83個と
目に入ったのは蒼。
それはもう一面の蒼い空。
(うわぁ……)
吸い込まれるような澄んだ蒼。もしかしたら、こういうのをセレスティアルブルーっていうのかもしれない、なーんて思った。
いや、セレスティアルブルーが本当はどんな色か知らないんだけど、字面というか音が綺麗だから。
何だか空に吸い込まれそうな気がして、しばし、ぼけーっと眺める。
(きれいだなぁ……)
私は白い砂浜に転がっていて目の前は見渡す限りの青い海。振り返ると、遠くに深いの森が見えた。
それこそ、絵になりそうな風景だった。
「……ところで、ここ、どこ?」
インドア派の私の行動範囲の中に、こんな場所があるはずはなかった。
「旅行に来た覚えもないなぁ」
寝る前に飲んだ謎のワインがいけなかったんだろうか?
ラベルがはがれているからといって酒屋さんがおまけでつけてくれたワインは、やや甘口な白。また飲みたいと思うフルーティーさでついつい一本全部空けてしまったのだ。
「っていうか、これ、夢だよね、たぶん」
きょろきょろとあたりを見回した私は、これが現実ではありえない証拠をみつけて安心した。
水平線近くに地球によく似た青い惑星の一部が見えたのだ。
(ラッセンのイラストみたい)
本当にそういう絵があるかはわからないけど、構図としてはばっちりそんな雰囲気だった。これでイルカが泳いでいれば完璧だっていうくらい。
(私の想像力もなかなかたいしたもんだよね)
私の夢なんだから、つまるところこれは全部私の空想の産物なんだろう。
それにしては綺麗だなぁ、なんて思わず自画自賛した。
(日差し、強いけど)
私の想像なんだから、もっとこう日陰にするとか都合の良いことあってもいいと思うんだけど。
日焼け止めがきれてるのか肌がじりじり焼かれる感があったけど、でも夢の中だから大丈夫なわけだし、お気に入りのミュールが砂にまみれエナメル素材部分に細かい傷がいっぱいできていても我慢できた。
(夢だから!)
そして、夢だからこそ、空を眺めるのにも海を眺めるのにも飽きた私は、普段ならぜーったいにありえない冒険心の赴くままに『探検』することを決意してしまった。
■■■■■
延々二時間歩き続けて、いろいろなことを諦めた。
歩いても歩いても砂浜は続き、歩いても歩いても森は近くならないように思えた。
(サイアクだ)
去年の地震の時に帰宅難民になった私は、その対策として通勤用のバッグの中におやつと水筒を必ずいれてあった。
けれどバッグはどこにもなくて、代わりに見つけたのは缶詰の詰まったダンボール箱一つ。
これが、コンビーフやスパムとまでは言わない。いわしとかサバとか……あるいは、ツナ缶とかならまだ良かった。
百歩譲ってアンチョビとか、千歩譲ってシューレストレミングスでもいい。人間が食べるものであれば許す。
でも、海水でふよふよになったダンボールからのぞいている缶詰には、かわいいアメリカンショートヘアの子猫が印刷されていた。
(猫缶なんて食べれないから!!)
缶詰なしでもあけられる缶だったのは幸いなことだ。着の身着のままの通勤スタイル、バッグなし、の私が缶切りなんかもってるはずがないから。
でもね、猫缶だよ、猫缶。
猫缶が83個!何の役にたつんですか、これ!
いつだったかブログで猫缶食べたレポートしてた人いたけど、どんなにおなかすいても私は無理。
ぐーっと無情にも腹の虫が鳴いた。ううん、むしろ、泣いてた。
「夢にしてはおなかへりすぎだし、だいたい、何で猫缶なのよーーーーーっ!」
夢とはいえ、いや、夢だからこそ理不尽なのか。
「……いっそ、猫缶食べる動物おびき寄せて、食べればいいんじゃない?」
おなかが空きすぎて、頭が回っていなかったことは否定しない。
ついでに、もしかしたらまだ酔っ払っていたかも。
■■■■■
フレンチのシェフという職業柄、私は動物を解体するという作業にそれほど嫌悪感がなかった。
魚をさばくのはもちろんだけど、鴨だってウサギだって解体するし、ちょっと珍しいけど、鹿やイノシシだって解体したことがある。
技術的に追いつくかどうかはともかく、それが『食材』である限り、私は大概の動物を解体できるだろう。
「切れ味悪そうだけど、まあ、何とかなるんじゃないかな」
手には、小さなナイフ。これは、今拾いたてのホヤホヤ。刃がいまいち鋭くなくて、ちょっと錆びかけている。まあ海辺に落ちてるんだから仕方あるまい。
切れ味なんて言うのも無駄って感じだったけど、この際、贅沢はいえない。
(夢の中なのに、食べ物の方向にいくのは、やっぱ私の嗜好の問題なのかしら)
何ていうか、せっかくステキな場所なんだから、もうちょっとこう甘いような、あるいはムードある方向にいってもいいと思うんだけど。
(無人島で猫缶使ってハンティングって何の三題噺よ)
笑点でだってこんなお題でないと思う。
この島……歩き回ったせいで、ここが無人島なのだということは半ば確信になっていた……にどんな動物がいるかわからなかったけれど、とりあえず猫缶でおびきよせることのできるような生物ならばたぶん私にも解体できるだろう。
(魚ならともかく、動物を殺すってのはな……)
なかなか覚悟のいることだ。
鶏肉だって豚肉だって牛肉だって大好きだから、殺すのが可哀想とかそういう意味じゃない。自分で仕留めるっていうのが覚悟がいるってこと。魚なら全然平気なのに。
(解体とかしてる時点で今更だけどさ)
私達が何かを食べるということは、そのまま、植物なり動物なりの生命を食べるということだ。
私はそのことに罪悪感を抱いたりはしないし、自分の手でその生命を断ち調理することを生業としている。
それでも、狩りというのはちょっと躊躇うものなのだ。
食欲の前ではそれも躊躇いにすぎないけど!
(そもそも、なんでこんな覚悟とかしなきゃいけないんだろう)
なんか理不尽な気がしてならない。
(夢なのに……)
わきおこるもやもやを振り切るように、私は、もくもくと落とし穴を掘った。
上に、流木と葉っぱをつかって蓋をして、砂をうすーくかぶせる。
(3缶くらいでいいかな)
その上に、エサとして猫缶を撒いた。
ちょっと大き目の豹くらいのサイズなら余裕で穴に落ちる。猫科の動物は、跳躍力がすごいから、穴は念入りにかなり深くした。自分が這い出るのに苦労したくらい。
芸術的なまでに見事な落とし穴ができて、私はやりとげた感でいっぱいになった。
(なんか、すっごく疲れたかも)
歩き回ったり、落とし穴を掘ったりしたせいで、私はかなり疲れていたらしい。
猫缶のダンボールの脇で膝を抱えて座り込んでいたら、そのまま眠ってしまった。
■■■■■
ドスン
(……ドスン?)
重量感のある音と地響きがして、ぼんやり目を覚ました。
「!!!!!!!!!!!!!!」
見上げた私の頭上には、見たことのない生き物の顔があった。
禍々しい弧を描いた角、獰猛な表情、生々しい肉そのもののような肌部分とうろこで覆われたような部分がある。
今まで私が見たことのあるどんな生物にも似ていなかった。
あんな羽根がある時点で間違いなく、普通の動物図鑑には載ってないだろう。
(強いて言うなら、ドラゴンとか恐竜とか……)
そういうのをごちゃまぜにしたような謎の生き物だった。
(モンスターっていうか、何かゲームとかに出てきそうな……)
生憎、私はゲームにそれほど詳しくない。
「……グギュ」
目が合った。
ここで人間同士だったら恋が生まれたかもしれない。
だが、私達はまったくの異種族だった。
彼にとって私は捕食する対象でしかなく、私にとって彼は私の命を脅かす謎のモンスターでしかなかった。
(……無理だから!!)
私は、猫缶に寄ってくる動物を狩ろうなんて考えた何時間か前の自分を呪った。
(ぜ、絶体絶命ってこういう時に使うんじゃない?)
無駄なことだとは思ったけれど、でも足掻かずにはいられないのが私の性だ。
猫缶を手にとり、蓋をあけて、できるだけ遠くにと思って投擲した。
このモンスターを少しでも自分から引き離したかった。
けれど、悲しいことにモンスターはまったく見向きもしてくれない。
猫缶なんてこのモンスターのサイズからすれば豆粒みたいなものなのだ。
きっとにおいにつられてきはしたものの、あまりにも小さすぎるのでにおいのもとが見つけられず、代わりに私を発見してしまったに違いない。
(あっち行ってえぇーーーーーーっ)
心の中で絶叫しながら、私に顔を近づけてくるモンスターに次々と開けた猫缶を投げつける。
猫缶はモンスターの口の中に吸い込まれていくけど、たぶん、彼の腹を満たす役にはまったく立たないだろう。
(食べられちゃう、食べられちゃう、食べられちゃう、いやあああああああっ)
モンスターが首を上に振り上げ、そして咆哮した。
それはまるで絶叫しているかのような凄まじい咆哮だった。
「ひぃぃぃぃ」
両手で耳を押さえる。
私は、覚悟した。
せめて、痛くないように丸呑みにしてくれと思った。
体育座りの体勢で顔を膝に押し付け、ぎゅうっと全身縮こまって頭を抱える。
(食べるなら早くたべて。お願いだから、歯は突き立てないでよ。噛まないでよ)
半ば祈るような心持ちで食べられ方に注文をつけながら、私は待った。
■■■■■
どのくらい待っただろう。
ものすごく時間がたったように思えたけれど、ほんとうはそうでもなかったのかもしれない。
私はおそるおそる顔をあげた。
「ふぇっ」
ほんのすぐそばに、微動だにしないモンスターの顔があった。
私は後ずさる。
怪物はまるで石になってしまったかのように動かない。
「な、何がおこったの?」
答えてくれる人がいるはずもない。
「!!!!!!!!!!!!!!」
次の瞬間、怪物の身体がぐらりと揺れて、地響きをあげて倒れた。
危うく圧死を免れた私は、震える足を叱咤して立ち上がる。
ティロリロリン
場違いな機械音がした。
「何?」
ティロリロリン ティロリロリン ティロリロリン ティロリロリン ティロリロリン ティロリロリン ティロリロリン………機械音は延々と続く。
「なんなのよっ!もうっ」
巨大なモンスターの身体は色を失い、さらさらと砂がくずれるように形をなくし、そして、わずかな光の粒子と化して消えた。
後に残ったのは角と皮?触ろうと手を伸ばしたら、それはどこへともなく消えてしまった。
「なんて夢なのよ」
私はごしごしと乱暴に目元を拭う。ほっとしたせいなのか、後から後から涙がこみあげてきてしょうがなかった。
─── だから、私は気付かなかった。
視界の端でせわしなくメッセージがスクロールしながら、猫缶があのモンスターにとって即効性の猛毒となったことやレベルアップを何度も何度も知らせていたことを。
「……早くこんなバカな夢から覚めればいいのに」
見上げた空は初めて見たときと変わらずに蒼く澄んでいた。
異世界無人島生活初日。猫缶 残り72個。
倒したモンスターの数 1。
私はまだ、自分が夢の中にいるのだと信じていた。