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煙夏

作者: 中谷 仁

 

 たばこの煙は白でも紫でもなく、青にいちばん近い、と僕は思う。そう言うと、彼女は指先に挟んだたばこをじっと見て、黙って頷いた。彼女の手にした白い筒から、夜明けの白んだ空の色をした煙がするする滑ってゆく。何も塗っていない爪は健康的な桃色で、その煙とのコントラストがきれいだった。

 たばこを吸う行為は、結局なにかの代替でしかないのかもしれない。そんなことを考える僕は、きっと寂しい人間なのだろう。けれど、この寂しさを知らないほうがよかったとは僕はけして思えないのだった。そしてそれは僕が、彼女もこの寂しさを感じられる人間だと、こころのどこかで無条件に信じているからだ。

 気温のせいだろうか、夏はたばこが燃えるのがはやい気がした。彼女の手にしたたばこは、じりじりというよりもっと早い速度でその身を燃やしてゆく。火がだんだんと白い紙を侵食して、茶色へ、それから黒に、そうしてまた新しい別の白へと変えてゆくさまは、僕に幼い頃の夏を思い起こさせた。もうとっくに亡くなった祖父と、虫眼鏡で太陽光を集めて宿題のプリントを燃やしてしまった日。あのあと、母にこっぴどく叱られたっけ。たばこの燃えかたはあの日のプリントによく似ていた。じわじわと、けれど観察している僕の思うよりずっとはやく、予想もできない動きで波状に紙を侵してゆく。かくれんぼでもしているみたいに出たり入ったり、少ししか見えない火の色はとてもあたたかかった。たばこを吸う誰かを見つめながら小学生の記憶を甦らせる日がくるなんて。何があるかわかったもんじゃない。腰ほどの高さまでのブロック塀に軽く腰を下ろしたまま、僕は空を見上げた。本当に、夏の日は長い。

「まだぜんぜん、空明るいね。」

 もうこんな時間なのに、と言う彼女はたばこを咥えたまま、腕時計を見つめている。とっくに夕方と言える時間にはなっているはずだった。それでも、空はまだいっこうに暗くなる気配を見せない。熱さは依然として僕たちの身体をぎゅうぎゅうと押し包んで音を上げさせようとしてくる。太陽は沈んだのか、それとも建物に隠れているのか、どこにあるかわからなかった。

 ずっとこんな時間が続けばいいのに、と甘っちょろいことを考えながら僕は彼女の隣に置いていた箱からたばこを一本を抜き取る。ライターは、とポケットを探っていると、彼女がたばこ屋でもらったというお気に入りのライターをどこからかさっと取り出して火を点けてくれた。ぱっと目の前で燃え上がった炎が僕の目を吸い寄せる。瞳にオレンジ色が灯るのがわかった。

 息を吸いこみながらでないと火は点かないというのも、一年前までは知らなかった事実だ。

 彼女のたばこはもう、半分以上燃えてしまっていた。あまり灰を落とさない癖のせいで、たばこの葉側は二センチ近く灰に変わっている。そのようすを見ていると、たばこが植物からできているというのが実感として理解できた。先細りのその部分は、皮が剥がれた木の幹みたいにも、雪を被った樹みたいにも見える。灰が広がってべろべろしているのはじっと見ているとなんだか気持ち悪くなってきそうな模様だった。

 彼女がたばこを唇から離して、足もとに灰を落とす。線香花火みたいに燃えていた灰がぱっと散ってひらひらと落ちていった。たばこの先から炎の色が見えて、彼女の足がぶらぶらと揺れる。ずっと見ていたい光景、あるいは何年か経って、ふとした瞬間に思い出すだろうことが確信できる景色だった。

 火はてろてろと速度を緩めずに彼女のたばこを舐め続ける。白樺色の灰は、当然熱を持っているはずなのにふしぎと冷たそうな色をしていた。少しずつ、気温も下がってきたのがわかる。夏の夜は夜というよりもただそれだけで特別で、ゆっくりと近付いてくるそれを待つのは楽しかった。

 彼女が深く息を吸いこむと、たばこの火がそれに応えてあかあかと燃え上がる。実際、自分の呼吸に合わせて炎がその色とかたちを変えるというのは、たばこを吸ううえでの原理的な愉しみのひとつかもしれなかった。

 肺にまで入れられた煙が、彼女の唇から一気に吐き出されてくる。僕はまだ彼女ほどじょうずにはたばこを吸えなかった。最初の頃は噎せ返りそうになるのを我慢さえしていたのだから、これでも成長したほうだとは思うけれど。

「花火、したいね。」

 僕の咥えたたばこを見ながら、ずっと黙っていた彼女が唐突に口を開いた。僕はたばこをぱっと唇から離して頷く。灰が落ちそうで怖いのだ。そんな僕を、彼女は目を細めて笑った。その目が僕を映しているようには見えなかったのは気のせいではないと思う。水浴びするこどもみたいな動きで、彼女はわざとらしく足をばたばたさせた。

「夏だなあ。」

 そう言って笑う。僕が頷く。灰の奥に炎が見えたり見えなかったりしているのは、たいせつなものがはっきりとは見えないのに似ていた。ほんの少ししか見えなくても、それはたしかに、そこで燃えている。

 彼女のたばこはもう、フィルターのぎりぎり、銘柄がプリントされた部分まで炎が迫っていた。さっきよりも長く、灰がたばこの先で揺れている。時折、風に耐えきれなくなった灰が僕のほうへ飛んできていた。そんなことにもおかまいなく彼女はたばこを咥えている。短くなったたばこは、おいしくないのだ。たばこを吸う人間というのは往々にして意味もなく気難しい顔をしているものだけれど、彼女はさっきまでよりももっと険しい顔で最後のひと口を吸い終えた。

 立ち上がって、たばこを唇から離したそのまま、流れるような動作でたばこを地面に投げ棄てる。どんな動きかも見えない速さで、たばこはあっというまにアスファルトに墜ちていった。白い筒に溜めこまれていた灰がいっきに剥がれて舞い上がる。それから、灰はゆっくりゆっくり、おそろしく時間をかけて、表になったり裏になったりしながら、まるで意志でも持っているかのようにそれぞれの動きで地面に落ちていった。濃い灰色の地面のうえのたばこは、もはやフィルターの部分しかない。それでも、火はまだ、あかく燃えていた。灰がほぼ落ちてしまった分、その炎はさっきまでよりもずっと明るい。だんだんと色を濃くしてきた空気に、その色は少し眩しいくらいだった。彼女はそれをサンダルの底で踏みにじる。

 その背中を、自分のたばこをくゆらせながら、僕が眺めていた。



 

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