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8.偶然じゃなかった

 フォンテやヴェンティルといると、時々妙なことが起こる気がする。


 ただ、本当におかしなことが起こっているという確信は持てなかった。それに、危険なことは起こっていなかった。


 だから、深く考えないことにした。


 ただその判断が少々甘かったのかもしれないと、わたしはじきにそう思うことになった。




 その日は、夜明け前からずっと激しい雨が降り続けていた。


 朝起きてカーテンを開けると、空は低く垂れこめた暗い雲に閉ざされていた。滝のような雨が降っていて、少し先すらよく見えない。風も強いらしく、びょうびょうという恐ろしげな音が、窓ガラスの辺りで鳴っていた。


 屋敷の裏のほうには、小川が一筋流れている。わたしが使っている客室は屋敷の表側に面しているから、ここから小川の様子をうかがうことはできない。


「……雨がひどいけれど、あの小川はどうなっているのかしら……」


「ママ、かわ、きになるの? フォンテもかわ、きになる!」


 わたしのつぶやきを聞いたフォンテが、ぴょんと跳ねている。ヴェンティルも窓辺の机の上で、ホッホーと鳴いていた。どちらも、いつもよりちょっと興奮しているようだった。


「ええ。ちょっと様子を見にいきましょうか。危ないから、屋敷の中からね」


 手早く身支度を終え、フォンテとヴェンティルを連れて客室を出る。屋敷の裏側の廊下に向かい、窓に張りつくようにして外を見る。そうして、息を呑んだ。


 いつもは澄み切って穏やかなその流れは、今はすっかり濁ってしまっている。激しく波打ち、荒々しい姿を見せていた。川幅は、普段の数倍……いや、数十倍はあるだろうか。


 小川と屋敷の裏庭の間には、高い土の堤防が築かれている。けれど今では、堤防の上のほうまで水が上がってきていた。


「あれ、大丈夫なのかしらね……」


 不安を押し殺しながらの独り言に、通りすがりのメイドたちが足を止める。モップやタオルを手に、緊迫した口調で答えてくれた。


「今、男の使用人たちが堤防の補強に向かっているところです」


「さすがにこの雨だと、土手が崩れるおそれもありますので……」


「この屋敷は、あの川より少し低いところにあるのです」


 それを聞いて、もう一度窓の外に目を凝らす。視界がけむるほどの雨の中、確かに人影がいくつも動いているのが見えた。あと、その辺りだけ石垣がわずかに緩んでいるようにも思える。


 メイドたちが急ぎ足で立ち去っても、わたしはまだ窓辺にたたずんでいた。


 雨は相変わらず、激しく降り続いている。この分だと、いずれ川の水が堤防を乗り越えてしまうだろう。堤防の補強に向かっている使用人たちが無事に戻ってこられるのか、心配でたまらない。


「ママ、なにみてるの?」


 わたしの手をぎゅっとつかんで、フォンテが尋ねてくる。わたしの不安が移ったのか、悲しそうに眉を下げていた。


「あの川よ。ほら、あそこのところだけ、堤防が弱くなっているの」


「そうなの?」


「ええ。あの堤防は石と土を積み上げて作られているけれど、あそこだけ石がいくつか外れてしまっていて……たぶん、この雨で地盤が緩んだのね」


「あめ……」


「そこを補強しようと、みんな頑張っているの。でも雨と風が強いし、川は今にもあふれそうだし……」


 指さしながら説明すると、肩の上のヴェンティルがホーホーとあいづちを打ってきた。


「おみず、いっぱい……かぜ、あぶない……」


 フォンテもまた窓に張りつくようにして、外の様子をうかがっている。彼の頭の上にはヴェンティルが乗っていて、やはりじっと下を見ていた。


 ホー。


「うん、そうだね。フォンテたち、がんばろう」


 そうしてひとりと一羽は、同時にこくりとうなずいていた。


「ねえ、頑張るって、何を?」


 嫌な予感を覚えつつ尋ねたら、フォンテはきょとんとした顔で答えてきた。


「おそとのみず。あぶないから、フォンテとヴェンティルで、がんばるの」


 何をどう頑張るのかがやっぱり分からないけれど、彼らを外に出させてはならない。


 止めようとフォンテの手をつかもうとしたものの、彼はわたしの腕をすり抜け、そのまま廊下を走り出した。しかもヴェンティルまで、彼と同じ方向に飛び去っていく。


「ママ、おそと、いってくる!」


「だめよフォンテ、危ないわ!」


「だいじょうぶ。フォンテ、あぶなくない」


 廊下を軽やかに駆けながら、フォンテが張り切った声で答える。体が小さいのに、彼は驚くほど足が速かった。そういえば、この子が全力で走ったところは、初めて見たかも。


 あっという間に、わたしたちは屋敷の裏庭につながる扉の前にたどり着いてしまった。


 ホー!!


 ヴェンティルが力強く鳴いたのと同時に、扉が勝手に開く。フォンテとヴェンティルは少しもためらうことなく、嵐の庭に飛び出してしまった。


「ま、待って……!」


 激しい雨と風のせいで、うまく進めない。スカートを押さえ、濡れて目元に張りつく髪をよけながら、懸命に足を動かす。


「先生、ここは危険です。すぐに屋敷に戻ってください」


 結局、堤防を補強している使用人たちのところまでやってきてしまった。彼らも全身びしょ濡れになりながら、わたしに呼びかけてくる。


「雨と風が強すぎて、作業どころではなくて……俺たちももう避難するところだったんです」


「ねえ、フォンテを見なかった!?」


 わたしの言葉に、使用人たちが目を見開く。雨のせいで視界が悪いということもあって、誰も彼に気づいていないようだった。


「そんな……あっ!」


 必死に辺りを見渡し、青ざめる。なんとフォンテは、堤防の上にいたのだ。その頭の上には、ヴェンティルがちょこんと乗っている。


「フォンテ、帰るわよ!」


 使用人たちの制止を振り切って、石の斜面をよじ登り、堤防の上に立つ。間近で見る流れは、ぞっとするほど荒々しく、恐ろしかった。


「ママ、だいじょうぶ」


 彼はわたしの手にぎゅっとしがみつくと、この状況にはまるで似つかわしくない、穏やかな声で言った。


 ちょうどそのとき、流れが大きくうねり、高い波がわたしたちに襲い掛かってきた。とっさにフォンテをかばおうと、しっかりと抱きしめる。


「こっち、きちゃだめ」


 フォンテがそう言ったのと同時に、信じられないことが起こった。


 今にもわたしたちを呑み込もうとしていた水の塊が、空中で動きを止めたのだ。そして、ぱしゃんとまた濁流のほうに戻っていってしまう。


 それどころか、濁流そのものがゆっくりと押され、反対側の岸のほうに寄っていってしまった。さっきまで堤防をぶち壊そうとしていた濁流が、この辺りだけすっかりおとなしくなってしまっている。


 水がこんな動きをするところなんて、見たことがない。まるで、誰かが見えない手で水を押し返しているかのような……。


「なに、今の……」


 呆然としていたら、ヴェンティルがぽすんと頭の上に乗ってきた。


 コケコッコー!!


 普段とは違う、やけに力んだような鳴き声が上から聞こえてきた。


 そういえば前にも、ヴェンティルがこんなふうに鳴いたのを聞いた覚えがある。あれは確か、湖に遊びにいったときだったか……。混乱した頭で、ぼんやりとそんなことを考えた。


 次の瞬間、また奇妙なことが起こった。ごうごうと吹き荒れていた風が、不意に止んだのだ。はっと我に返って辺りを見渡すと、わたしたちがいる辺りだけ、雨も風も止んでいた。


 振り返り、堤防の下に目をやる。そちらでは、使用人たちが大いにうろたえていた。


「どうして急に、嵐が収まったんだ!?」


「なんでもいい、この隙に補強を済ませてしまおう!」


 彼らはそう言いながら、用意してあった岩や土をせっせと堤防に押し込み始めた。はらはらしながら見守るわたしの目の前で、無事に堤防の補強が終わる。


「作業、終わりました! 先生も、戻ってください!」


 使用人たちに声をかけられて、あわてて堤防から降りた。フォンテとヴェンティルも、今度はおとなしくわたしのそばにいた。


 そうしてみんなで屋敷に駆け込んだとたん、また嵐が激しく吹き荒れ始めた。

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