4.偶然? の出会い
フォンテは黙って、じっと一点を見つめていた。どうしたのだろうと、彼の視線をたどっていく。
どうやら彼は、すぐ近くで停まった馬車が気になっているらしい。つられてわたしも、馬車を眺めてみる。
明らかに上位の貴族のものと分かる、豪華な馬車。そこから、一人の少女が降りてきた。
ふんわりと優しい桃色の髪をゆったりと巻いていて、ぱっちりとした目は緑色。着ているドレスは普段着なのだろうけど、そのままお茶会にだって出られそうなくらいに手の込んだものだった。
ちょっと気が強そうだけれど、愛らしい少女だ。フォンテよりは年上……たぶん、七、八歳くらいだろう。
彼女は従者らしき中年女性を従え、すぐそばの建物に入っていこうとする。
しかしそのとき、従者がいきなり転んだ。うっかり水たまりに踏み込んでしまって、足を滑らせたらしい。その拍子に、手にしていた荷物からノートがすっぽ抜けて、足元の水たまりにばしゃんと落ちる。……あんなところに水たまりなんて、あったかしら?
従者は真っ青になってノートを拾い上げ、必死にハンカチで拭いている。少女はあわてた様子で本を受け取り、開いた。
「ああ、なんてことですの……! これでは、読めませんわ……」
少女の悲痛な声に、近くの通行人たちが振り返っている。しかし彼女は食い入るように本を見つめ、とても悲痛な声でうめく。
「わたくし、まだここの文は暗記していませんのに……どうしましょう、宿題が……師に叱られてしまいますわ……」
そう言って少女は、しょんぼりと肩を落とした。
師に叱られる、か。どうやら少女は、教師のもとを訪ねてきたところらしい。
宿題として文章の書き取りと暗記を命じられたものの、一部覚えきれないままになっていた。ぎりぎりでどうにかしようと思っていたら、今の事故で文字がにじんで読めなくなってしまった。たぶん、こんなところだろう。
それはそうとして、明らかにいいところのお嬢様がわざわざ教師のところを訪ねてくるなんて珍しい。普通は、教師のほうが教え子のところに出向いていくか、あるいは教師が屋敷に住み込むか、のどちらかだから。
そんなことを考えつつ、さりげなく彼女に近寄っていく。そうして、その手にしている本をのぞきこんだ。どうにも、気になって仕方がなかったのだ。
「あら……」
少女が手にしているノート、そこに記された文章には見覚えがあった。わたしも昔、この詩について教わったことがあるから。
「『苛烈なる氷雪、無慈悲なる白』」
ちょうど水でにじんで読めなくなっている場所を、思い出しながらつぶやいていく。少女がはっとした顔になり、こちらを見た。
「『静寂を切り裂くは、ただ鋭き風の音』」
「……あなた、これが分かるんですの?」
目を真ん丸にしている彼女に笑顔でうなずきかけ、最後の一節を口にする。
「『なれど其の下には、春を夢見るともしびが眠る』」
ひととおりそらんじてから、上品に笑って会釈した。
「お困りのようでしたので、答えをお教えしようかと思いました。出しゃばってしまったのなら、申し訳ありません」
幼い彼女が誰なのかは、もちろん知らない。貴族だろうということ以外、何ひとつ。
でも今のわたしは、もうただの平民として生きるつもりでいた。だから、何の抵抗もなく敬語がすんなりと口をついて出た。
そして彼女はわたしの態度に少しも疑問を持たなかったようで、ぱあっと顔を輝かせて身を乗り出してきた。
「でしゃばるだなんて、そんなこと……! あの、もう一度教えていただけません?」
彼女の要望にこたえ、もう一度、今度はもう少しゆっくりと同じ文言をつぶやく。彼女はとても真剣な目をしながら、もごもごと口の中で何回も復唱していた。
「……これでたぶん、覚えられましたわ! 本当にありがとうございます!」
心底ほっとした顔で、彼女は優雅にお辞儀をしてくる。なんとも愛らしいしぐさだ。
「お役に立てたようで、よかったです」
自然とこちらも、笑顔になってしまう。礼儀正しくそう返したら、彼女はぱっと顔を上げて口を開いた。
「あなた、お名前は?」
「……カルミア、です。こちらはフォンテ」
家名を名乗りかけて、すんでのところで踏みとどまる。もうわたしには、実家の家の名も、嫁ぎ先の家の名も、名乗る資格はない。
「わたくしはリリア・トーラ。もっとあなたのお話を聞きたいけれど、これから授業ですし……どこかで待っていてもらいたいのですけれど……」
ぶつぶつとつぶやきながら、リリアは考え込んでいる。どうやら彼女の中では、わたしが彼女と話すことはもう決定事項らしい。
貴族のお嬢様らしくちょっぴり強引な、でもどうにも憎めない態度と表情に、ついくすりと笑ってしまった。
「そうですわ! わたくしが授業を受けている間、お屋敷のほうで待っていてはもらえないかしら!」
すると彼女はかたわらに控えていた従者に、ばっと向き直った。
「ひとまず、おふたりを屋敷にご案内して。わたくしが戻るまで、おもてなしをお願いね」
先ほどの失態に小さくなっていた従者は、きりりと顔を引き締めて「承知いたしました」と即答している。
「おやしき? どんなとこ? いきたい!」
わたしたち、まだ行くとも何も返答していないのだけれど……まあいいか。フォンテがすっかり乗り気になっているのだし、がっかりさせるもかわいそうだ。
「大きくて、豪華なところよ」
「ええ、カルミアさんの言うとおりですわ! それではおふたりとも、また後ほど!」
楽しげにそう言って、リリアは目の前の民家に入っていったのだった。
リリアの従者に案内されて、わたしとフォンテはリリアの……トーラ家の屋敷にやってきた。
トーラ家……どこかで聞いた気はするけれど、たぶん実家とも、嫁ぎ先とも、付き合いのない相手だと思う。
ということは、ここにいれば、夫やその関係者に見つかる心配はしなくていいだろう。少しの間、かくまってもらえればありがたいのだけれど。
そんなことを考えながら、通された部屋を見回してみる。
歴史を感じさせる、どっしりとして落ち着いた雰囲気の部屋だ。部屋のつくりも家具もちょっと古めかしく、一方であちこちに置かれたちょっとした飾り物は、今流行のものばかり。古いものと新しいものが調和した、面白い場所だった。
ここ、かなり上位の家のお屋敷のような気がする。もしかしたら、場違いなところに来てしまったのかもしれない。そんな不安をごまかすように、別のことを口にした。
「それにしてもやっぱり、腑に落ちないのよね」
「どうしたの、ママ?」
部屋をぱたぱたと走りまわって、家具や飾り物をじっくりと観察していたフォンテが、こちらを見て首をかしげる。
「さっき従者の人が転んだあの水たまり、急に現れたようにしか思えなくて……フォンテは、どう思う?」
「わかんない」
フォンテと出会ってから、不思議なことが次々と起こっている気がする。たまたま林の中の泉にたどり着けたり、偶然野イチゴの群れが見つかったり。
だったらあの水たまりも、そんなもののひとつじゃないかなと思ったのだ。……あまりに、都合がよすぎて。まるで、フォンテが次々奇跡を起こしているような、そんな錯覚を感じてしまいそうだ。
でもどうやら、違う……のかな? フォンテは泉を見つけたときも水たまりについても「わかんない」って言っているし。
ひっそりと悩んでいたら、部屋の入り口の扉が叩かれた。続いて、リリアがしゃなりしゃなりと部屋に入ってくる。
「カルミアさん、フォンテさん。お待たせしてしまいましたわね」
「いえ、素敵なお部屋を見ていたので、少しも退屈しませんでした」
「フォンテも、もっとみたい!」
わたしたちの返事を聞いたリリアが、嬉しそうに笑う。彼女、感情が素直に顔に出がちね。かわいい。
「ふふ、ありがとうございます」
そうして彼女は澄ました顔で、ゆっくりと語りだした。
「わたくしは週に一度、町で暮らす師のもとに通い、様々なことを教わっていますの。おふたりと出会ったのは、師のところに向かう途中のことでした」
しかし彼女の顔が、急に曇ってしまう。
「……けれど師の課題が、どうにも難しくて……先ほども、カルミアさんの助力がなければどうしようもありませんでした」
確かに、あの詩はもう少し大きくなってから習うものだ。とにかく長いし、古めかしいし、やたらと装飾の多い文体だし。
「なので、屋敷のほうでわたくしの学問の手伝いをしてくださる教師を雇えないかと、探していたところだったんですの」
と、リリアの表情が変わった。ちょっぴりあごを引いて、上目遣いにこちらを見てくる。ちょうど、おねだりをするときのような感じだ。
「図々しいお願いだと、分かってはいるのですけれど……カルミアさん、あなたにお願いできないかしら」
「わたしに、ですか?」
「ええ。……と言っても、まずはお試しから、ということになりますけど」
ちょっぴり申し訳なさそうに言ってから、リリアがはっとした顔になって続ける。
「その、通いでもいいですし、この屋敷に滞在してくださってもいいですから……」
ありがたいにもほどのある申し出にとまどってしまい、すぐに返事ができない。
そのとき、スカートがつんと引かれた。そちらを見ると、きらきらした目でわたしを見上げているフォンテと目が合った。ひそひそ声で、「おうち。おしごと」と言っている。
そうだ、ためらっている場合じゃない。町で仕事を探したところで、この話よりいいものはきっと見つからない。フォンテのことを思うなら、結論はもう出ているのだ。
「……でしたら、こちらに滞在させていただけないでしょうか。ちょうど、住まいと仕事を探していたもので……」
「ええ、もちろんですわ!」
わたしの返事を聞いて、リリアがぴょんと跳び上がった。貴族の令嬢らしからぬ、無邪気な動きだ。
「ママ、おしごとみつかったね」
そうささやきかけてくるフォンテの顔には、とても嬉しそうな笑みが浮かんでいた。




