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29.母なる存在

 アルティスの母が精霊で、ずっと昔に別れたままなのだということは知っていた。彼女が、十代の乙女の姿のままだということも。


 でも……ここまで美人で、ここまで可憐で、ここまでたおやかだと、どう反応していいか困る。これでは兄妹か、あるいは恋人にしか見えない。なんでだろう、この緊急時なのに、悔しいという気持ちがわいてしまうのは。


 何も言えずにいるわたしに、シルヴィーは歌うように語りかけてくる。


「この子が八歳のとき、わたしはこの子とさよならしたの。でもまた会いたくて、この木のところで待ってた。町にはちかづくなっていわれてたから、ずっと、ここで」


 彼女の背後には、一本の古木がたたずんでいた。若々しい枝を伸ばしているこの森の中で、その木だけが明らかに浮いて見えた。


 きっとこの木だけは、以前からこの場所にあったのだろう。つまり、周囲の木々が、突然生えてきた……ということだと思う。


「わたしは樹木の精霊。十年でも二十年でも、いくらでも待てる。いつか、この子が近くに来るのを、待ってたの」


 彼女は愛らしく微笑んで、アルティスの肩に触れる。それでも、彼が目を覚ます気配はなかった。


「そうしたら、ようやく近くにきてくれた。うれしくて、馬車を止めてあの子に声をかけたの」


 彼女の言葉を聞きながら、周辺の地図を頭に描いてみる。


 子どものころ、アルティスはリリアと同じようにアニマの町で暮らしていた。けれど成長し、そこを離れてからは、代々当主が過ごす本邸へと移り住んでいた。


 そこからあちこちに出かけることはあっても、アニマから田舎へと向かうこの街道を通ることはなかったはずだ。本邸からアニマまでと、本邸から今回の目的地までは、それぞれ別の街道が通っているから。


 つまり、彼がアニマの町に滞在し続けなければ、そこから田舎に向かおうとしなければ、こんなことにはならなかった。


 ……わたしのせいだ。わたしがフォンテを連れて、リリアのところに転がり込んだから。


「でもアルティス、わたしと話してくれなかったの。そのまま、立ち去ろうとしたの」


 落ち込んでいるわたしをよそに、シルヴィーは寂しそうに言った。けれど次の瞬間、花が咲くような笑みを浮かべる。


「だからアルティスを、つかまえておくことにしたのよ。森をうみだして、ずっとふたりきり」


 彼女の言葉と同時に、地面からいきなり細い枝が生えてきた。眠り続けているアルティスの腕にするりとからみついてしまう。


「だから、じゃましないでね」


 そのさまは、まるで彼女の腕が増えたようで、薄気味悪かった。わたしの頭に乗ったままのヴェンティルが、クルルと警戒したような声を上げた。身構えているのか、足が私の髪に食い込んでしまっている。


 それを見たフォンテが、進み出て声を張り上げた。


「ちから、つかっちゃだめ! アルティス、はなして!」


 シルヴィーはきょとんとした顔で、小首をかしげている。


「どうしたの、坊や? わたしたちは力を持っている。どうして、使ってはいけないの?」


「シルヴィー、アルティスのこと、すきだよね。だったら、ちからをつかわずに、なかよくするの」


「でも、アルティスはわたしから逃げようとしたの。仲良くできなかったの」


「だったらおいかけて、いっぱいはなせばいいよ!」


「話したわ。でも、きいてくれなかったの。だから、これが一番」


 フォンテは驚くほどしっかりと、シルヴィーに向き合っている。その成長っぷりに涙ぐみそうになりながらも、同時にこっそり納得していた。


 なるほど、アルティスの父が泣く泣く別れることを決めたわけだ。こうも感覚がずれていると、人間の世界に置いておくのは危険だ。……むしろ十年近く、よく無事にやり過ごせたものだ。


 そしてアルティスが、フォンテを危険視した理由もよく分かった。アルティスが精霊についてよく思っていなかった理由も。


「にんげんは、ちからをつかわなくてもがんばれるんだよ。みんなでたすけあっていきていけるんだよ」


 なおも懸命に、フォンテは話し続けていた。


「フォンテは、ママといっしょにいたい。だから、ちからはこっそりつかう。かってにはつかわない。シルヴィーも、そうしよう。そうしたら、アルティスもいっしょにいてくれるよ」


「いいの。わたしはもう、アルティスと一緒にいられるから。ずっとこのまま、この森の中にいればいいの」


 しかしシルヴィーは、どんどんかたくなになっていく。気のせいだろうか。その整った顔に、悔しさのような色がにじんだのは。


 けれど彼女の表情をじっくりと確かめる暇すらなかった。わたしと彼女たちとの間の草地から、いきなり無数の木の枝が生えてきたから。


「待って、シルヴィー!!」


「あなたたち、好きじゃないわ。わたしから、この子をうばいとらないで、こっちに来ないで!」


 木の枝は互いに寄り集まって、一枚の壁のようになっていた。シルヴィーとアルティスの姿が、その向こうに消えていこうとしている。


 ヴェンティルとフォンテが、枝をどかそうとそれぞれの力を使っていた。けれど枝が伸びるほうが早くて、どうしようもない。


「駄目、待って、お願い!!」


 ああ、また、わたしだけ何もできない。そんな無力さを呪うより先に、体が動いていた。枝の壁に駆け寄って、必死に枝を手でより分ける。まだ若い枝は柔らかく、わたしの力でもどうにか動かせた。


 アルティスを、助けないと。その思いに突き動かされるように、ただひたすらに手を動かし、前へ前へと進んでいく。


 枝にこすれ、手に傷がついていく。やがて枝が腕にからみつき始めたけれど、それも無視してあがき続ける。


 やがて枝の壁に少しだけ隙間ができた。そこに無理やり体をねじこんで、上半身を向こう側に出した。あと少しで、アルティスに手が届く。


 シルヴィーがおびえたような顔をして、わたしから遠ざかろうと身じろぎする。眠ったままのアルティスの頭がするりとずれて、柔らかい草地の上にぽすんと着地する。それでも、彼は目覚めない。


 彼に向かって手を伸ばし、叫ぶ。


「アルティス様、目を覚ましてください!」


「アルティス、ねてたらだめだよ!」


 ホー!!


 わたしたちの声も、ざわざわと揺れる木の枝の音にかき消される。必死にもぞもぞと体を動かしていたら、すぽんと体が壁から抜けた。すぐ目の前には、眠るアルティスとおびえるシルヴィー。


 シルヴィーにはお構いなしに、アルティスに駆け寄る。だらんと力なく垂れたその手を、しっかりとつかんだ。


「アルティス様、どうか、起きてください! あなたが眠ったままでは、どうしようもないんです!! お願いです!!」


 わたしの声は、もう悲鳴のようになっていた。つかんだままの手が、かっと熱くなるのを感じる。


 思いもかけない感覚に、びくりと身を震わせる。そのとき、アルティスが薄く目を見開いた、ように見えた。

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