27.異変はすぐそこに
それは、ネイサンの件が本当に片付いてから、少し経ったある日のことだった。
「十日ほど留守にする。田舎のほうで、どうしても現地に出向かないと片付かない用事ができてしまった。できる限り急いで戻ってくるから、留守を頼む」
みんなを集めたアルティスは、どことなく悔しそうな顔でそう言って、すぐに退室していく。扉が閉まって少ししてから、リリアがぼそりとつぶやいた。
「……伯父様、『できる限り急いで戻ってくる』ですって。もともと伯父様は、別の町にある本邸で暮らしておられたのに」
「ふむ。今のアルティスにとって戻るべき場所は、ここなのだろうな」
ミュゼットがしみじみとそう言って、こちらを見た。彼も最近では、よくこちらの屋敷に顔を出すようになっていた。
「彼は幼いころからそれは真面目でな。普通、子どもは多かれ少なかれ羽目を外すものだが、少なくとも吾輩の知る限り、彼がそういった行動に出たことはない。なので、ひそかに心配しておったのだ」
「あら、師は何を心配されていたんですの?」
「うむ。ああも真面目だと、社交の機会が限られる、ありていに言えば女性と親しくなる機会が減りかねない。吾輩は、それを心配しておった。……その心配は、不運にも的中してしまったがな」
ミュゼットの言葉に、リリアがああ、と思い切り納得したような顔になっている。彼女の頭の上に乗ったヴェンティルが、ホホーと愉快そうに鳴きながらうなずいた。
「そして、これは彼の父親から聞いた話だが」
珍しいことに、ミュゼットは内緒話をしてくれるらしい。聞いてもいいのかなと思いつつ、ついつい耳を澄ませてしまう。
彼は思い切り声をひそめ、それでもはっきりとした口調で言った。
「自分は、女性を愛するには向いていない。政略結婚では、相手の女性を不幸にしてしまう。トーラの血族は多くいるのだから、跡継ぎの候補などいくらでもいる、自分の子に限定する必要はないと、彼はそう言っていたらしい」
「伯父様……真面目ですわ……真面目すぎますわ……」
「そうだろう。だがようやく、その心配も終わりそうだ」
ふと気づくと、ミュゼットのみならずリリアまでもが何やら言いたげな顔で、やはりわたしを見つめている。
「あの、ふたりとも、どうしてそこでわたしを見るんですか?」
「じーっ」
ホーッ。
「だから、フォンテとヴェンティルまで!」
みんなが言いたいことは、なんとなく分かってはいた。でも当の本人から何も聞いていない以上、勝手に期待しないほうがいい。
……でも、もしそうなったら嬉しいなと、こっそりとそう思うことまでは止められなかった。
次の日、アルティスは朝早く屋敷を出ていった。彼のいない食卓は、ひどく広く感じられた。せいぜい十日ほどの辛抱だからと自分に言い聞かせ、ひとまずいつも通りに過ごすことにする。
ミュゼットは、朝食後自分の家に帰っていった。去り際に、やはり難しい宿題を出して。
なのでわたしは、顔を引き締めて身震いしているリリアと一緒に、宿題をこなしていくことにした。
……最近ミュゼットは、リリアだけでなくわたしのことも鍛えようとしているような気がする。彼からすると、どちらも生徒のようなものなのだろう。
フォンテとヴェンティルは、わたしたちの邪魔にならないように遊んでいた。……フォンテがぴゅっと水を飛ばして、ヴェンティルがかわすという遊びだ。床に水がたまりすぎると、ふたりがかりで乾かしている。絶対に、よその人には見せられない光景だ。
そうやって、ひたすらに時間が過ぎるのを待っていた。
ところがその数日後、とんでもない知らせが舞い込んできた。
「え……あの街道が、ですか?」
アルティスが通ったはずの街道が、突然ふさがってしまったとの知らせだった。
「はい。それと、伝書鳩をやって調べたところ、アルティス様はどうやら目的地にはたどり着いておられない模様……」
知らせを持ってきてくれた執事は、すっかり青ざめていた。トーラの当主が消息を絶ち、その道中に異変が起こった。もしかするとアルティスは、その異変に巻き込まれているのかもしれない。そう考えるのは、ごく自然なことだ。
「街道がふさがる……まさか、落石とか!?」
そんな可能性に気づいてしまい、声が裏返ってしまう。しかし執事は、どうにも不可解そうな顔をしている。
「いえ、それがどうにも要領を得ず……その場を見た者たちは『いきなり森が現れた』『街道が森に呑み込まれた』と」
彼は、その報告の意味が理解できていないようだった。何かの見間違いか勘違いではないのかと、顔にそう書いてある。でもそうではないと、わたしは確信していた。
思わず、その場に居合わせたみんなの顔を見た。リリアは気まずそうな顔をしているし、フォンテは目を真ん丸にしている。そしてヴェンティルは、興味を隠せないらしく前のめりになっていた。
ひとまず執事を下がらせて、みんなで話しあう。
「……街道の件は、きっと精霊のしわざよ。だって、普通ではあり得ないもの。放っておいたらよくないわ」
わたしの言葉に、みんなが同時にうなずく。
「アルティスがどうしているのか、気になるけれど……彼がここにいたら、街道の問題を解決してくれって、そう言うと思うの」
さらにこくこくと、うなずきが返ってくる。
「だからわたしとフォンテとヴェンティルの三人で、状況を確認してくるわ」
するとリリアが、衝撃を受けたように目を見張った。彼女が何か言うよりも先に、さらにたたみかける。
「リリア、あなたにはここをお願いしたいの。アルティス様と連絡がつかなくなっている今、トーラの人間であるあなたがここにいたほうがいい」
このアニマの町は、トーラの領地だ。最近アルティスがずっとここの屋敷に滞在していたから、町の人たちは困りごとなどを直接ここに持ち込むようになっていた。
アルティスがいないからと門前払いしてしまったら、町の人たちに不安が広がるかもしれない。
それにアルティスが普段こなしている執務に関する書類なんかも、どんどんここにやってくる。放っておいたら、山になってしまうかもしれない。せめて、整理くらいはしておいたほうがいい。
あと、もしかしたらアルティスが連絡をよこしてくるかもしれない。それに備えて、誰か残っていたほうがいい。でないと、執事がさらにおろおろしてしまう。
そういったあれこれを説明すると、リリアは泣きそうな顔でうつむいてしまった。
「大丈夫よ。事情を話して、ミュゼットさんにも手伝ってもらえばいいわ。……それに、その森には危険がひそんでいるかもしれない。あなたには、安全なところにいてほしいの」
彼女の肩に手を置いて、静かにささやく。彼女はまだうつむいたままだったけれど、それでも小さくうなずいてくれた。
大急ぎで支度をして、新しく現れたという森に向かう。アニマの町から半日ほど馬車で進んだところに、それはあった。
そこでわたしたちが見たのは、話に聞いていた以上にとんでもない光景だった。




