26.ひとときの安らぎ
「……結局わたし、何もしなかった気がします……」
帰りの馬車の中で、ぼそりとつぶやく。
「いや、あれでいい。君が来たからこそ、彼は内情をべらべらと喋ってくれた。おかげで、反論もしやすかった」
一方のアルティスは、上機嫌そのものだった。鼻歌でも歌いそうな表情で、そんなことを言っている。
「反論……というより、あれはもうお説教ですよね。できの悪い子どもをしつけているようにしか聞こえませんでした……」
「ああ、そのつもりだったからな」
「やっぱりそうでしたか……」
「さて、これであの男もおとなしくなってくれるといいが。まあ、また何かしてくるというのなら遠慮なくやり返すだけだが。もっとも、私が君の後ろ盾となっていることも示せただろうし、たぶんここで打ち止めだろう」
すっかりくつろいだ空気の中、トーラの屋敷に戻ってきたときには、もう日が暮れていた。
朝早く屋敷を出たのに、すっかり遅くなってしまった。きっとフォンテは寂しがっているだろう。あせりながら、居間に駆け込む。
「ただいま、フォンテ! 遅くなってごめんなさい!」
「あっ、ママ! あのね、ごほんよんでもらってたの!」
フォンテはリリアと並んでソファに腰かけ、ひざの上に広げたきれいな絵本を読んでもらっていた。ソファの背にはヴェンティルが止まり、絵本を上からのぞき込んでいる。
近くの椅子にはミュゼットがゆったりと腰かけ、食後のお茶をたしなみながら子どもたちを温かい目で見守っていた。
「……いい子にしていたみたいね」
拍子抜けしてしまって、ぽつりとつぶやく。アルティスが不思議そうに首をかしげて、私を見た。
「彼はさらに成長したということだろう。いいことではないか」
「そうですね、いいこと……なんですけど……」
「どうした? 納得がいかないといった顔だが」
お姉さんらしく絵本を読んであげているリリアと、目を輝かせているフォンテを見ながら、思い切り声をひそめてささやく。
「今朝がたまで、あの子はわたしにべったりで、いつもスカートを離さないくらいだったのに……こんなに長いこと離れていたのに、あんなにけろりとしているなんて……成長したのだと、分かってはいるのですけど……」
「寂しいのか」
「ええ、まあ……」
「ならば、代わりに私と話さないか。さすがに空腹だろう? 軽食を用意させよう。ここで子どもたちを見守りながらの食事というのも、悪くないと思うが」
「はい!」
アルティスの提案に、ちょっと落ち込みそうになっていた気分がふっと上向きになるのを感じていた。
無事にネイサンのちょっかいもはねのけたので、両親に礼儀正しい手紙を書いた。
もう心配することはありません。そしてわたしはもうラントの家とは縁の切れたものと思ってください、とだけ。
正直、ケイエルの家を飛び出したときから、そのつもりではあった。どことなく寒々しい生家にはさほど愛着もなかったし、もうケイエルにもラントにも戻るつもりはなかった。
もちろん、この手紙の内容は、フォンテやリリアには内緒だ。きらきらした心の子どもたちに、大人の世界の暗いところを見せるには、まだ早い。
ミュゼットは年長者らしく、今回の件について話しても、ふっと静かな微笑みを向けてくるだけだった。それでいい、と言わんばかりの、優しい笑みだった。
アルティスは心配そうに、「好きなだけここにいてくれていいし、出ていくときは住むところと仕事も紹介するからな」と言ってくれた。
最初のころ、何が何でもわたしたちを追い出そうとしていたことを思えば、見事な変わりようだ。でも、その厚意が嬉しい。
やっと、ネイサンたちとの面倒な因縁を断ち切ることができた。そう思ったら、自然と大きな笑みが浮かんでいた。
「ああ、久しぶりに心置きなくのんびりとできるわ……」
「ママ、つかれた?」
「そうね、結構疲れたわ……」
ククー。
ネイサンのところに押しかけていった次の日、わたしは屋敷の庭にあるベンチに腰かけ、思う存分ぐったりしていた。
隣に座ったフォンテが、わたしの体にもたれかかっている。ヴェンティルはわたしの頭の上に乗って、精霊の力でそよ風を送ってくれていた。
両親がこの屋敷をわざわざ訪ねてきてから二日間、正直言って生きた心地もしなかった。ここでの幸せな日々がまたおびやかされるのではないかと、そんなことばかり考えてしまっていたから。
けれどもう、そんな心配もしなくていい。それもみんな、アルティスのおかげだ。ネイサンにびしりと説教していたときのアルティスの姿は、思わず見とれてしまいそうになるくらいに凛々しかった。
「ママ、なにかたのしいこと、あった?」
フォンテが楽しそうに笑いながら、わたしの顔をのぞきこんでくる。どうやら昨日のことを思い出しているうちに、また自然と笑顔になっていたらしい。
「ええ。アルティス様のおかげで、こうして平和に過ごせるんだなって思ったのよ」
ネイサンとの間に何があったのか、どんなことが話されたのかについては、わたしとアルティス、それにミュゼットだけの胸に秘めておくことにした。純粋な子どもたちは、まだあんな世界を知らなくていい。
だからあいまいに言葉をにごして、フォンテの頭をなでた。彼は目をぱちぱちさせながら何ごとか考えていたようだったけれど、不意に口を開いた。
「ねえママ、アルティスのこと、すき?」
「えっ!?」
まるで予想していなかった言葉に、思いっきり動揺してしまう。こちらに向けられたフォンテのまなざしはとてもまっすぐで、きらきらしていた。
「と、突然何を言うの? 驚いたわ」
「だってママ、しあわせそうだった」
ヴェンティルがはばたくのを止めて、ベンチの背にふわりと着地した。そのまま無言でじっとわたしの顔を見つめている。……聞かなくても分かる。これは『それで、へんじは?』だ。
わくわくしている二組の視線から目をそらしながら、必死に考える。子どもって、ときにこういう答えづらい質問を真正面から投げかけてくるらしいとは聞いていたけれど……まさかこんな形で、こんなときにやられるなんて。
「そうね……好きか嫌いかで言ったら、もちろん好きのほうよ」
「だったら、どれくらい、すき?」
どうにかこうにかひねりだした当たりさわりのない答えに、フォンテはさらに遠慮なく切り込んでくる。無邪気そのものの目が、いっそ怖くもある。
ホー。
「『わたくしたちしかきいていないのだし、いってしまいなさいな』だって。フォンテもききたい。おしえて?」
おそらくこの子たちは、わたしがさっきお茶をにごしたことに気づいている。そのうえで、本心を話せとせっついているのだ。
仕方ない、覚悟を決めよう。今ならこのふたりしか聞いていないし、口止めしておけばいいだけだ。
「……とっても、好きよ」
「まあ、先生!」
小声でつぶやいたとたん、思いもかけないほうから声がした。
びっくりして振り返ると、目を真ん丸にしているリリアがいた。その手は、お茶の支度を載せたワゴンの取っ手にかかっている。どうやら、お茶を差し入れにきてくれたらしい。
しかし彼女はワゴンから手を離すと、両手を頬に当ててうっとりとし始めてしまった。
「実はわたくし、先生と伯父様ならお似合いだなって、ずっとそう思っていて……」
「いえ、あの、リリア、これはあくまでも、友人としての『好き』ですから」
あわてて訂正しようと口をはさんだものの、フォンテが不思議そうに首をかしげてさらに割り込んでくる。
「ともだちの、すき? でもママ、かおあかかったよ」
「そ、それは気のせいよ!」
「アルティスもいっしょだった。かお、あかかったの」
しかもフォンテは、にっこりと笑ってそんなことを言い出した。ちょっと待って、アルティスがどうしたの!? ああもう、話についていけない。
「あ、いけない。ないしょなんだった」
私が問いただすより先に、フォンテはいたずらっぽく笑って手で口を押さえる。気になる、彼とアルティスの間に何があったのか、とっても気になる。
どうやって聞き出そうかと考えていたら、さらに予想外の事態が起こった。
「ふむ。吾輩も、リリアの意見に賛成だ」
なんと、近くの植え込みの向こうからミュゼットまでが姿を現したのだ。
「ちょっと、ミュゼットさんまで何を言い出すんですか! というか、いつからそこにおられたんですか!」
「立ち聞きするつもりはなかったのだが、いかんせん声が大きかったのでな。聞こえてしまった。申し訳ない」
生真面目にそう言って頭を下げるミュゼットの姿に、みんなが注目する。やがて、フォンテとリリアがくすくすと笑い出した。ヴェンティルも小さく、クククと鳴いている。
フォンテに聞きたいことは色々あるけれど、今はこうして笑いあっていられることを喜ぼう。
ふんわりと胸が温かくなるのを感じながら、みんなを見守っていた。……この幸せを揺るがす影が忍び寄っていることなど、気づきもせずに。




