17.強引にさようなら
わたしが差し出した紙を見たネイサンとユナが、ふたりそろって目を丸くする。そこに、さらにたたみかけていく。
「この書面は、わたしが一年以上前からあなたのそばを離れていたことの証明となります。これがあれば、離婚のための面倒な手続きは不要になるでしょう」
「ふーん……」
すぐに飛びつくかと思いきや、ネイサンは不審げな顔で紙を見つめている。
「さて、こんな紙切れ一枚で、本当にごまかせるのか? 万が一、あとからばれようものなら、僕たちが迷惑するんだが。僕たちには君と違って、守るべきものがたくさんあるんだから」
そう言って彼は、ユナの手を握った。そのまま、冷ややかな視線をこちらに向けてくる。
「だから、その提案は呑めない。多少面倒でも、確実な手段を取らせてもらおう」
彼はわたしの言葉を聞くつもりなど、はなからないようだった。いやそもそも、これまでに彼がわたしとまともに向き合ったことなんて一度たりともなかった。
かつて彼のもとで耐え忍んだ日々の記憶が、一気によみがえってくる。あのころ懸命に押し込めていた、怒りとともに。
一発ひっぱたいてやれれば、すっとするのに。フォンテの気持ちが、分かるような気がした。もしわたしにあの子のような力があったら、ふたりまとめてびしょ濡れにしてやる。
ぐっとこぶしを握ったそのとき、視界の端で人影が動いた。アルティスが、目元にかかった前髪をそっと払いのけながら、こちらに視線をよこしたのだ。
彼と、一瞬目が合う。その銀色の輝きを見ていたら、すうっと気分が落ち着いてきた。
そうだ、わたしはネイサンと縁を切るために、こうしてやってきたのだ。かっとなっている場合じゃない。
ことさらにゆっくりと息を吸って、静かに言葉を紡ぐ。
「過去に、似たような手段で離婚の手続きから逃れた例が、いくつも残っています」
「へえ、僕は知らないな」
「……でしたらのちほど、歴史書などをご覧になられてはいかがでしょうか。百年ほど前には、よく用いられた手法ですから」
「やはり、覚えがないのだが」
わたしの言葉を、ネイサンはのらりくらりとかわしている。その表情にまたいらだちを覚えつつ、さらに言葉を重ねた。
「あら、おかしいですね。あなたの書斎からお借りした本で、わたしはこのやり方を学んだのですが」
するとネイサンが、一瞬ぎくりとしたような顔になる。隣のユナが、かすかに眉をひそめていた。
「そ、そうだったかもしれないな。しかし君は、勝手に僕の書斎に入ったのか?」
「執事を通して、あなたから許可はいただきましたよ? お忘れですか?」
「ぐっ……」
この顔、間違いなく忘れていたな。でも次々とたたみかけたのが効いたのか、ようやく
彼もおとなしくなってきた。
「お分かりいただけましたか? この書面を持ち帰っていただければ、わたしたちはすぐに赤の他人となることができるのです」
「ううむ……君の言う通り、書類上はごまかせるのかもしれないが……人の目はどうだ? 誰かが、『カルミアは一年前、まだケイエルの屋敷にいた』などと証言したらどうなる?」
これは……慎重なのではなく、気が小さいのだろう。そんな不正を働いて、ばれたらどうしよう。そう、顔に書いてある。
けれどこの反応も、想定内だ。
「今から一年前、確かにわたしはまだケイエルの屋敷におりました」
澄ました表情で、物語を読み上げるかのように淡々と、穏やかに言う。
「……とはいえ、わたしが本当にあの屋敷にいたことを覚えている人が、どれほどいるのでしょうね?」
ネイサンはわたしのもとに寄りつきもしなかったし、そんな空気を感じてかメイドたちもあまりわたしには近づかなかったし……そもそもケイエルの屋敷は居心地が悪いのか、メイドや使用人たちが次々と辞めては雇われ、を繰り返していたし。
「しかもあなたは、あのころからユナ様を連れ込んでおられましたし」
わたしたちの話そのものに興味がないらしいユナが、ちょっぴり唇をとがらせて小首をかしげた。
「もし使用人などが『当時カルミアはまだ屋敷にいた』と証言したとしても……あのころ、既にわたしは屋敷におらず、ユナ様をわたしと見間違えたのだということにすればいいだけのことですよ」
ネイサンはしばらく考え込んでいたようだけれど、やがて上目遣いにこちらをのぞきこんできた。
「……確かに、君の言うことには筋が通っているようだ。しかし、君がわざわざこんな提案をしてくるとは思わなかったな。何か、裏があるのではないだろうか……」
心底不思議がっている顔を見ていたら、とうとう我慢が限界にきた。もう伝えておくべきことは伝え終わったし、このままさよならしてしまってもいいのだ。
「裏も何もありません。理由が必要ですか? 要するに、もうこれ以上あなたの顔を見たくないだけですよ、この人でなし」
「なっ……」
優雅に立ち上がり、低い声でネイサンに告げる。涼しい顔のまま、視線に怒りを込めて。
「興味のない妻をさっさと捨てて、愛しい人と一緒になるいい機会を差し上げますって言っているのに、どうしてぐだぐだと煮え切らない態度をとっているんですか。さっさと決めてください」
「あ、ああ、分かった……」
わたしが突然すごんできたのがよほど驚きだったのか、ネイサンは口をぱくぱくさせながら、からくり人形のようにぎこちない動きで紙を懐にしまいこんだ。
よし、これでもう、彼からは解放される。最後にちくりと一刺しできて、すっきりしたし。
でも、ついでだからもう一発。今度はユナに向き直り、にっこりと明るく笑いかけた。
「ユナ様、大変ですね。こんな腰抜けが、お腹の子の父親だなんて」
「え?」
「だって、これを腰抜けと言わずして、なんと言うのですか。父親として、愛する女性とお腹の子を守らなくてはならないのに、ああだこうだと理由をつけて、決断を先送りにして」
「おい、カルミア!」
「あら、わたしは全て本当のことしか話していませんよ?」
ネイサンが立ち上がってわたしをにらみつけたものの、さらに追い打ちをかけてやったら、ぐうの音も出なかったのか黙り込んでしまった。
思いのほか、すっきりしたかも。そう思いながら、中庭をあとにした。トーラの屋敷に戻るまで、一度たりとも振り返らなかった。
屋敷の客室に戻ったとたん、フォンテがぽすんと抱きついてきた。ヴェンティルがばさりと飛んできて、頭に乗ってくる。
「ただいま、フォンテ。いい子にしてた?」
「おかえり、ママ! いやなヒト、やっつけた?」
「やっつけて……はいないわ。でも、もうあの人には会わずに済むわよ」
「それはよかったですわ!」
客室の中には、リリアもいた。彼女もまた、笑顔で歩み寄ってくる。どうやらみんなで、わたしの帰りを待ってくれていたらしい。
「その殿方、先生の伴侶にはふさわしくありませんもの。ところで、伯父様は役に立ちまして?」
「アルティス、こわい……でも、つよい。いやなヒトより、ずっとつよいよ」
「そうね。とても心強かったわ。……冷静に交渉を進められたのも、アルティス様のおかげだった」
フォンテの遠慮のない言葉に、リリアとふたり同時にぷっと吹き出す。ヴェンティルまでもが、ククククと笑い声のような鳴き声を上げていた。
「でも『こわい』はやめておきましょうね。ちょっと失礼な言い方になるから」
「伯父様が怖いのは本当のことですけれど」
「わかった、きをつけるね!」
「今、私の悪口のようなものが聞こえたようだが」
いきなりアルティスの声が割り込んできて、その場の全員が同時にびっくりしてしまう。部屋の入り口のところに、アルティスが立っていた。
「戻られてたんですね、アルティス様……」
「今戻ったところだ。君の知人だと悟られないように、少し間を開けてあの場を離れたからな」
アルティス様は軽く肩をすくめ、立ったまま話している。
「しかしノックの音にも気づかないくらいに話し込んでいたようだから、仕方なく開けさせてもらった」
「すみません、やっと終わったと思ったら、ほっとしてしまって……」
「謝る必要はない。君がそう思うのも、当然のことだから」
頭を下げるわたしと、静かに答えるアルティス。目の端でリリアが、興味深そうに目を丸くしているのが見えた。
「……カルミア。少し、君と話がしたい。ここで、というのもなんだから……そうだな、庭にでも出るか」
「はい」
またあとでね、とフォンテたちに呼びかけて、アルティスに続いて部屋を出る。
フォンテが「アルティス……なにか、へん?」と小声でつぶやき、リリアがあわてつつも同意しているのが、かすかに聞こえていた。




